第87話 嘉兵衛は、若さゆえの過ちを悟る
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
「おめでとうございます。どうやら、ご懐妊のようですな」
「はひ?」
今……何を言われた?おとわの診察を終えた医者の発した言葉に今ひとつ理解が追い付かず、俺は藤吉郎を見た。聞き間違いではないかと思って。
「殿……だからあれほど申し上げたではございませぬか。絶対にマズい事になるから、そういう事は婚儀のあとに、と……」
しかし、その呆れたようなその顔と態度を見て、俺は悟らざるを得なかった。聞き間違いではなかったことを。
「産み月は、おそらく来年の春ごろになるかと」
ああ、なるほど……。逆算すると、セーラ服を着てもらって納屋でやったときか、もしくはお風呂場で「背中を流してあげるわ」と、アブない水着で迫られた時だな。身に覚えがあるだけに、最終的に受け入れざるを得ない。ああ、やっちまった……。
「畏れながら……」
「ああ、わかっている」
ただ、そうなると一つ問題が生じる。関口家の体面を考えたら、婚儀を先送りにはできなくなったという事だ。おとわには「兎に角、大人しく養生するように」と言い残して、俺は藤吉郎を連れて別室に移る。この件を協議するために、だ。
「藤吉郎……出陣前に挙げることは可能か?」
「不可能でも可能にしなければ……とは思いますが、出陣まであと5日しかございませぬ。流石に難しいかと……」
婚礼衣装もまだ仮縫いの段階だし、酒肴の準備はともかく参列者への都合だって確認しなければならない。特に媒酌人をしたいと名乗り出ている氏真公は、現在駿府を離れているはずで……と理由を上げられては、俺も無理強いできない。
「では、どうすればよいのか……」
「……かくなる上は、乱を速やかに討伐して、予定通りに婚儀を執り行うしかございますまい」
しかし、その婚儀の予定日は閏10月10日で、あと3か月弱しか時間的な猶予はない。それゆえにそちらも難しいのではないかと思ったのだが……藤吉郎は言う。こちらの方がまだ可能性があると。
「その辺りの話は、弥八郎殿に相談してみましょう。三河の事情はよくご存じでしょうし……」
「そうだな。では、早速弥八郎を……」
「ですが……おそれながら、その前に……」
「藤吉郎?」
密室にもかかわらず、藤吉郎はずいっと俺に近づいて小声で囁いた。仮に障子の向こうで聞き耳を立てている者がいたとしても聞こえないように……「討伐が長引いた場合に備えてですが……」と前置きして、おとわをすぐにでもどこかに隠すようにと。
「隠す?意味が分からぬが……」
「関口家の体裁と今後の我らとの関係を思えば、婚儀よりも先に出産というわけには参りますまい。ですので、今日より病に倒れたことにして、いずこかの土地で療養しているという事にするのです」
その療養地というのは、関口家の領地に……という事になるが、藤吉郎はさらに続ける。そこで出産した子は、おとわの子ではなく、側室の子とするようにと。
「側室って……俺にはいないが?」
それに作ったら作ったで、おとわに殺されるような気がするのだが、藤吉郎はあくまで形だけだと言った。さらにその相手は……侍女のあかねということで。
「おいおい、いいのか?あかねはお前の想い人では……」
「お家のためです!背に腹は代えられませぬ!!」
その心意気は有難いけれども、流石にそれは気が引ける。なので、おとわを関口家の領地に移すことのみ同意して、あかねの件はこの場での即答を避けた。
「殿!」
「産み月はまだ先だ。あかねを形だけとはいえ側室にするのか、それとも他の者あるいは別の手段を選択するかは、それまでに決めればよいだろう。何も急ぐ必要はあるまい」
「ですが……!反乱討伐に時間が掛かった場合、後手を踏む可能性もあるでしょう。後々の為にも決めておいた方が……」
その言い分も理解できないでもないが、いずれにしてもおとわの了解がいる話だ。ここまでこだわる藤吉郎に違和感を覚えつつ、この話はやはりひとまず保留とする事にしたのだった。