第90話 嘉兵衛は、出発前に段取りを確認する
天文24年(1555年)8月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
今川館の外で次郎三郎と別れて家に帰ると、藤吉郎たちが揃いも揃って首尾を訊いてきた。ちゃんと、次郎三郎に嘘の情報を伝えたのですよね、と。
「もちろんだ。お屋形様が11月に三河に来られると……ちゃんと伝えたぞ」
次郎三郎に嘘の情報をわざと伝えたのは、松平家のお喋り共があちらこちらに「ここだけの話」として広める事で、服部党の流した噂の確度を上げるためだ。
「情に流されて、余計な事は……」
「言っていない」
まあ、純朴な少年を騙したことに罪悪感を覚えなかったわけではないが……
「誠なのですね?ホントにホント、絶対ですね?」
「……藤吉郎。そんなに俺の事が信じられないのか?」
「信じたいとは思いますが……信じられるかどうかは別問題にて」
自分でも己がお人好しだと最近自覚しつつあるが、こうも信用されていないとちょっと悲しい。その瞬間、左近と弥八郎が吹き出したのが見えた。
「おまえたち……」
ただ、出陣は明日だ。これから出立の準備もしなければならないし、いつまでも呑気なやり取りを続ける余裕はない。俺は気を取り直してこの話はこれで仕舞いとし、これからの段取りについて最終確認を行う。
「まず、お屋形様が三河に来るという噂については、服部党並びに松平家のおしゃべりたちに任せておくことにして……弥八郎はこれより三河へ向かい、酒井将監の下へ戻るのだったな?」
「はい。あの方は家臣の意見によく耳を傾けてくれる方なので、操り人形には持って来いですからな。反乱軍の連中が噂に踊らされて、『お屋形様が来る前に決戦を』……と決意するように、必ず仕向けてみせましょう」
内乱を早急に鎮圧するためには、弥八郎の目論見通りに反乱軍が一カ所に集まって、決戦を挑んでくれた方が我らにとっては好都合だ。俺はその申し出を改めて了承した。
「あの……本当に何も疑っていないのですか?俺がしくじる可能性もありますし、なにより裏切る可能性もあると思われないので?」
「思っていない。そなたはこの程度の事でしくじるような男ではないし、裏切った後の見通しが見えない男でもあるまい。だから、頼んだぞ」
「ははっ!お任せ下され!!」
そうは言ったものの、実際には不安がないわけではない。いくら徳川家康の軍師とはいえ、それは未来の話だし……。
だが、いずれにしても弥八郎が動かなければ、おとわのお腹が大きくなる前に駿府に戻ることは不可能なのだ。迷いを振り切り、信じるしかないと己を言い聞かせた。
「それで、藤吉郎は吉良三郎を調略するのであったな。手筈通り、備中守様より文を頂いた故、頼んだぞ」
「お任せください。必ずや吉良三郎を降伏させて見せまする!」
文には、「素直に恭順すれば、此度に限り朝比奈備中守の名において身の安全は保障する」と記されている。吉良三郎が流した噂を信じ込めば、勝ち目のないいくさに身を投じるよりはと、この備中守様の文に縋って降伏するだろう……というのが弥八郎の考えだ。
それなら別に藤吉郎が行かなくてもと俺は思うのだが、弥八郎が段取りした決戦ではその吉良三郎に働いてもらわなければならないため、そういうわけにはいかないらしい。
「左近、殿の事を頼んだぞ」
「お任せを」
だから、打ち合わせで決めた通りに、藤吉郎も送り出す。そして、残るは俺の予定であるが……
「俺はこのまま、次郎三郎と共に遠江を経て岡崎に向かえばいいのだな?」
「ええ、それで構いません。殿は我らの段取りが整うまで、岡崎にて恭順の意を示してきた国人たちの相手をお願いします。ただ、後でまとめて潰しますので、松平様と一緒になって本領安堵などといった沙汰は、くれぐれもお下しになられぬよう……」
「わかっている。そこは気を付けよう」
「左近、殿がまた情に流されないように、見張っておけよ?」
「承知しました」
うむむ……どこまで信用がないのか。ただ、作戦を台無しにしないためにも気を付けなければならないな。