第35話 王種⑩
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シャールが自身の消耗を自覚していなかったわけではない。
"力"の行使に限りがあることは最初から承知していた。精神の井戸には底があり、汲み続ければいずれ枯れる。それは分かっていたのだ。だがその上で黒い小鬼の命を削り切れると確信していた。あと少し。もう少し削れば倒せる。再生能力にも限界があるはずだ。そう踏んでいた。
彼に足りなかったのは経験である。
これまでシャールは命をすり減らすような死闘の場に己を置いたことがなかった。王宮での剣術稽古は確かに厳しいものであったが、それでも相手は同じ人間であり、木刀や刃引きの剣を用いた訓練に過ぎない。命の遣り取りではなかった。国を出る際に騎士たちを斬ったこともあるがあれは奇襲であり、まともな戦いとは呼べぬものだ。
要するに、限界を見誤ったのである。
己の精神力がどこまで保つか。どの程度消耗すれば回復不能に陥るか。そうした体感的な基準を彼は持ち合わせていなかった。書物で読んだ知識はある。だが知識と実感は別物だ。戦場を駆け抜けた歴戦の兵士ならば己の限界を肌で知っている。あと何度剣を振れるか、あと何歩走れるか、そうした感覚を血と汗で刻み込んでいる。シャールにはそれがなかった。
鼻血が顎を伝って滴り落ちる。
視界の端が霞み始めていた。"力"の酷使による反動が脳髄を蝕んでいるのだ。意識を拡張し続けることは脳に著しい負荷をかける。眼球の奥で何かが脈打ち、こめかみが万力で締め付けられるように痛んだ。
──"力"はもう使えまい。
もう一人のシャールが冷ややかに囁いた。
網を張り続ける集中力が保たない。感覚拡張領域を維持しようとするたび、頭蓋の内側で火花が散るような激痛が走る。限界だ。これ以上は肉体が先に壊れる。
──だが死ぬにはまだ早い。
もう一人のシャールが続けた。
──奴は成長している。見ろ、あの体捌きを。
黒い小鬼が間合いを詰めてくる。両腕の刃が旋風のごとく繰り出され、左右から挟み込むように斬りつけてきた。シャールはそれを長剣で受け、弾き、そして後退した。
確かに動きが洗練されている。
先ほどまでの荒々しさが影を潜め、無駄のない足運び、的確な体重移動、そして獲物を仕留めようとする殺意を孕んだ刃筋。繰り出される一撃一撃はまるで歴戦の剣士のようであった。正確で容赦のない太刀筋だ。腹に浮かんだ顔の技術を吸収したのだろう。
だがともう一人のシャールが問う。
──オズワルドのそれよりも鋭いか?
オズワルド。
その名を思い浮かべた瞬間、シャールの脳裏に一人の男の姿が蘇った。
白髪交じりの短髪。深い皺が刻まれた顔。だがその瞳には老いを感じさせぬ鋭い光が宿っていた。王宮剣術指南役。シャールが幼少の頃から剣の手解きを受けてきた師である。
──オズワルドのそれよりも巧みか?
そうではない、とシャールは断じた。
黒い小鬼の刃は確かに鋭い。だがオズワルドの剣と比べれば、まだ甘い。
そうだな、とシャールは内心で呟いた。
視線を上げ、口元を嗜虐に歪める黒い小鬼を見据える。奴は勝ちを確信しているのだろう。追い詰めた獲物を前にした捕食者の余裕がその態度には滲んでいた。
だが──
右腕の刃が弧を描いて振り下ろされる。
シャールはバックステップでそれを躱した。"力"は使わなかった。使えなかったというべきか。ただ純粋に、足捌きだけで斬撃の軌道から逃れたのである。
続いて左腕の突き。
これが本命であることはシャールには分かっていた。右腕の振り下ろしは陽動だ。意識を上に向けさせておいて、真の殺意は下から突き上げてくる。二刀流の常道である。
長剣の腹をかすらせるようにして、突きをしのいだ。
刃と刃が接触し、金属の擦れ合う甲高い音が響く。だがそれは真正面から受け止めたのではなかった。刺突の威力を真っ向から受ければ腕が痺れる。そうではなく、剣の側面で軽く触れ、軌道を僅かにずらすだけでよい。そうすれば刃は身体の脇をすり抜けていく。
その一連の動きに、シャールが費やした労力はほぼ零に等しかった。
集中するまでもなかった。
なぜならば知っていたからである。
王宮剣術というものがある。
文字通り、王族や貴族、およびそれらを護衛する騎士団が修得する剣術体系だ。権威」と「実戦」を兼ね備えた技法であり、戦場での乱戦よりも一対一の決闘や暗殺者からの防衛を想定して構築されている。
その最大の特徴は「後の先」にある。
相手に先に攻撃させ、その動きを見極めてから反撃に転じる。待ちの姿勢を基本とし、敵の攻撃を最小限の動きで捌きながら、隙を見つけて一撃を加える。派手さはない。だが堅実で確実でそして何より疲労を抑えられる。王族や貴族は自ら戦場に立つことは稀だ。むしろ不意の襲撃に対処することの方が多い。そうした状況では派手な剣技よりも、冷静に敵の攻撃を見切り、最小の労力で最大の効果を上げる技術が求められる。
シャールは十数年にわたってその技を叩き込まれてきた。
朝に剣を振り、昼に剣を振り、夕に剣を振り、夜に素振りを繰り返す。来る日も来る日も木刀を握り、オズワルドの容赦ない打ち込みを浴び続けた。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げ、意識が朦朧となっても剣を離すことは許されなかった。王太子たる者、いかなる時も武を手放してはならぬ。それがオズワルドの教えであり、シャールはそれを愚直に守り続けた。
その積み重ねが今、身体に刻まれている。
考える前に身体が動く。敵の刃が来れば自然と剣が上がり、最適な角度で受け流す。足は勝手に最適な位置へ移動し、体重は自然と攻撃に備えた配分になる。意識して行うのではない。呼吸と同じだ。心臓が鼓動するのと同じだ。もはや身体の一部と化した技術がシャールを守っていた。
黒い小鬼の連撃が続く。
右、左、右、左。両腕の刃が絶え間なく振るわれ、シャールを切り刻もうと迫る。だがその悉くが空を切った。受け、受け、避け、避け。最小限の動きで刃を捌き、軌道を逸らし、時に一歩退いてやり過ごす。
そして──突き。
ふわりとした動きで小鬼へ突きを見舞う。
長剣の切っ先が黒い肩口に突き刺さり、黒い血が噴き出した。浅い。致命傷には程遠い。だが確実に肉を抉っている。
これが何度も繰り返された。
受け、受け、避け、避け、そして突き。
手数は圧倒的に小鬼の方が多い。両腕の刃を駆使して休むことなく斬りかかってくる。対してシャールの反撃は稀だ。十合に一度あるかないか。だがその一撃は確実に小鬼の身体を穿っていた。
崩せないのだ。
黒い小鬼の攻撃は確かに激しい。連撃の嵐は苛烈を極め、一瞬でも気を抜けば致命傷を負いかねない。だがシャールは崩れなかった。王宮剣術の堅牢な守りが暴風のような攻撃を凌ぎ続けている。
戦況はシャール優勢へと傾きつつあった。
小鬼の全身には突き傷が増えていく。肩、脇腹、太腿、二の腕。いずれも浅いがその数は確実に蓄積されていた。再生能力は健在のようだがその速度が鈍っている気がする。先ほどまでは瞬く間に傷口が塞がっていたのに、今は数秒の時間を要するようになっていた。
削れている。
"力"なしでも戦える。
シャールの胸中に手応えが生まれつつあった。このまま削り続ければ、いずれ奴は力尽きる。時間はかかるだろう。だが勝てる。そう確信し始めていた。
そんな中、小鬼が大きく後退した。
三歩、四歩、五歩と距離を取り、シャールから離れていく。攻撃の手を止め、ただ睨みつけるようにこちらを見据えている。
シャールは追わなかった。
追うべきではない、と判断したのだ。王宮剣術しか知らぬシャールにとって、待ち構えていた方が優位を保てる。追撃に転じれば態勢が崩れる。敵の術中に嵌る恐れがある。ならば待つ方が賢明だ。
──逃げる、とは思えぬ。
シャールは小鬼の目を見た。
赤い瞳は殺意に滾っている。獲物を逃がすまいとする執念が燃え盛り、そこに逃走の気配は微塵もなかった。ならば一端距離を取り、息をつこうということか。
それならそれで歓迎だ、とシャールは考えた。
"力"の連続使用による消耗は深刻だった。感覚拡張領域を展開することはもうできないがそれでも精神は著しく疲弊している。頭痛は収まらず、視界の端は今も霞んでいる。小鬼の連撃を受け流すのも決して楽ではなかった。身体が覚えている技術に頼っているとはいえ、集中力は確実に削られている。
休息は歓迎すべきだった。
呼吸を整え、乱れた息を静める。額の汗を拭い、握り直した剣の感触を確かめる。左腕の傷はまだ痛むが動きに支障はない。まだ戦える。まだ、勝てる。
しかしここでシャールは再び見誤った。
小鬼が何かを構えていた。
一体どこから取り出したのか。いつの間にかその手には短弓が握られている。黒い肉体から分泌された何かが固まって弓の形を取ったのか、あるいは肉塊から這い出る際に既に形成されていたのか。いずれにせよ、弦が引き絞られ、矢が番えられていた。
弓。
その可能性をシャールは考慮していなかった。これまでの攻撃はすべて近接戦闘であり、遠距離攻撃の気配はなかった。だから油断した。距離を取った敵が何を企んでいるか、その予測を怠った。
矢が放たれる。
回避行動──咄嗟に身を捩った。だがそれは読まれていた。
矢は躱そうとした方向へ飛んできたのだ。まるでシャールの動きを予測していたかのように、回避先を狙い撃ちにしている。
──避けられない。
その認識が脳裏を過ぎった瞬間。
シャールの眼前で、黒い矢が制止した。
「言いたい事は山ほどあるのですけれど」
その涼やかな声をシャールが聞き間違えるはずもない。
「セフィラ……」
木陰から現れた人影はまさしくセフィラであった。そして──硝子玉のような目で、シャールを見ている。