可愛い人(挿絵あり)
エヴァン視点。
時系列としては、
53 可愛げのない不器用な女
の後くらいのお話です。
「エヴァン様ぁ」
セスの訓練が終わりイザベラたちを学園寮に送り届けたエヴァンは、甘ったるい声に呼び止められた。
「ケイリー嬢」
声の主はふわふわとした茶色の髪の少女だ。名を呼ぶと嬉しそうに砂糖菓子のような笑みを咲かせた。
ケイリーは財力のある貿易商の娘で、やけに馴れ馴れしく距離が近い。
「やっと会えた! 最近お見掛けしなかったから、寂しかったんですぅ」
小走りに駆けてきたケイリーが、鼻にかかった声を出す。エヴァンの腕に自分の腕を絡ませると、胸を押しつけてきた。
声と同じく胸焼けする甘さの香水が鼻についた。
力任せに振りほどきたくなって、いかんいかんと思い直す。女性を粗雑に扱ってはならないと、幼少から叩き込まれている。乱暴に振り払って傷つけてはならない。そうは思うのだがどうも不快だ。
おかしいな。エヴァンは内心で首を捻った。
家柄と社交的な性格、顔の良さから、言い寄ってくる女は多い。今のようなあからさまな誘いもよくある。
柔らかな女の体も香水も嫌いじゃない。女は皆可愛いし、自分を求めてくれるのも嬉しい。
なのに今、これほど嫌なのか。
ふっと頭をかすめたのは。
凛と冷たい横顔。一部の隙も無い服装。他人を拒絶するかのような黒縁眼鏡。ほんのりと漂う、花のように爽やかで少し甘みのある香り。自分に正直で不器用。世間一般の可愛らしさとは無縁の女性。
彼女が脳裏によぎれば、ますます目の前の女が不快に感じた。
「それはそれは。ありがとうございます」
眉間に入りそうな力を意識的に抑え、エヴァンはケイリーの腕から自分の腕を抜こうとした。が、思いの外がっちりと固められている。
「ねぇ、エヴァン様。この後お時間ありますぅ? 新しいレストランがオープンするんですって。わたし、エヴァン様と行きたいなぁ」
腕を抜こうとしたことに気付いたはずなのだが。ケイリーは胸を押し付けたまま、エヴァンを見上げた。
胸を強調するように腕を寄せての上目遣い。女のあざとさとの体温、腕に当たる柔らかさや香水の甘ったるさが気色悪い。
「申し訳ない。貴女のような可愛らしいお嬢様にそう言ってもらえるのは嬉しいですが、抜けられない任務中でしてね」
女によく言い寄られるエヴァンは、遊んでいると思われている。しかし実際に女と付き合った経験は二度だけ。二度ともすぐフラれた。
どうせエヴァンなど、彼女たちが身に着けるアクセサリーやドレスと同じ。着飾っていい気分になって、飽きたらさよならだ。ケイリーも同じだろう。
「じゃあ、任務が終わったら行ってくれますね。いつ終わりますぅ?」
「あいにく、いつ終わるかは私にも分かりません。新しいレストランを楽しみたいのなら、旬をすぎてしまいますよ。お友達と行かれてはどうでしょう」
「もう、エヴァン様の意地悪。分かってる癖にぃ。新しいレストランより、エヴァン様とご一緒したいんですよぉ」
参った。やんわりと断ったのに、思ったよりも食い下がられる。
エヴァンは溜め息を吐いた。
これはいっそのこと、少し付き合って満足してもらうか。
いや、駄目だ。もし食事に付き合えば、もっと距離が縮まる。思えば前に付き合った二人も、そうやって押し切られたのだ。
「ケイリー嬢」
はっきり断ろうと口を開いたエヴァンは、そこで固まった。視線がケイリーの後方に釘付けになる。
そこには買い物帰りらしき、一人の侍女がいた。
「手を離して下さい、ケイリー嬢」
「えー、何でですかぁ? エヴァン様ぁ?」
「離せ。迷惑だ」
にっこり。いつもの笑顔そのままに、エヴァンはケイリーの腕を振り払った。
あっけにとられた顔のケイリーを置いて、そのまま真っ直ぐ侍女の元に向かう。
「ジェイダ嬢!」
声をかけたのに、侍女は無視して歩みを進めている。背筋を伸ばしてすたすたと歩く様は美しく、そして速い。しかしエヴァンは男で、少し走ればすぐに追いついた。
「待ってください、ジェイダ嬢」
追いついたエヴァンはジェイダの腕を軽く引いた。やっとジェイダの歩みが止まり、ぴくりと片眉が跳ねる。
「何かご用ですか」
黒眼鏡の奥にある薄青の瞳が冷たく見返してきた。温度のない声と甘すぎない匂いに、焼けていた胸を冷やされてエヴァンはほっと息を吐いた。
「用がなくては声をかけてはいけませんか」
作り物ではなく自然と表情が緩む。微笑みかけるとジェイダの眉間にしわが寄った。
「用もないのに声をかけるなど非効率です。私などに構わずあのお嬢様との続きをどうぞ」
「見ていたんですか」
「見ていたわけではありません。女の媚にデレデレと鼻の下を伸ばす、みっともない男が視界に入っただけです」
相変わらず取り付く島もない態度だ。それに安堵を覚える。
「エヴァン様ぁっ!」
せっかくジェイダと話していたのに、ケイリーが追いついてきた。
本当にしつこい。
「急に冷たいからびっくりしたじゃないですかぁ」
駆け寄ってきたケイリーが、甘えた視線をエヴァンに寄越してから、ジェイダを上から下へと舐める。増量されているまつ毛に縁どられた瞳に、勝ち誇った色が光った。
「何ですかぁ、この堅苦しそうな年増の侍女は。自分の立場もわきまえずにエヴァン様に言い寄ってるの? 見た目だけじゃなくて頭も悪いのね。それとも分かっててエヴァン様を誘惑してるの? とんだ性悪女ね」
低く嘲ってから一転、ころりと態度を変えてぐいっとエヴァンの手を引く。
「そんなブスほっといて私と行きましょうよぉ、ね?」
「いい加減にしろ、ケイリー嬢」
エヴァンはそんなケイリーの手を反対の手で掴んで、自分から離した。
「痛っ。ちょっとエヴァン様ぁ、積極的なのは嬉しいですけどぉ、痛いですよぉ」
まだ状況が分かっていないらしい。媚びた瞳でケイリーがエヴァンを見上げた。
「撤回しろ。いいか。この人はお前なんかより美しいし聡明で性格もいいんだ」
冷たく見下ろせば、ケイリーの甘えた仮面に亀裂が入る。
「頭が悪いのも性悪なのも、お前だ。ブス!」
ぼろぼろと剥がれた仮面の下から、怒りに歪んだ醜い顔が現れた。顔色が赤くなり、それから青くなっていく。
「やりすぎです」
パン。ジェイダがエヴァンの手を叩いた。大して痛くないが、火傷でもしたような衝撃を受けてケイリーの手を離す。
「大丈夫ですか」
黒縁眼鏡越しにちら、とエヴァンに咎める視線を投げてから、ジェイダがケイリーの手を取った。手首に視線を走らせる。流石に加減はしていたので赤くもなっていない。
「良かった。大丈夫のようですね」
ケイリーの手首に変化がないのを確かめてほっとしたのだろう。ジェイダがかすかに息を吐く。
嫌味でも優越感からでもない自然な気遣い。ほら見ろ。この人はこんなにも綺麗だ。
「なっ、なによ、馬鹿にしてっ」
勢いよく手を引っ込めたケイリーが、目に涙を浮かべて体を震わせる。キッとエヴァンを睨んだ。
「こんな女がいいなんて趣味悪い! そんな男こっちから願い下げよ!」
吐き捨てて踵を返すと、足音も荒く走り去っていった。
走り去るケイリーを冷ややかに見送ったジェイダが、エヴァンに薄青の瞳を向ける。
「全く。一体何をやっているのです。彼女の手首が無事でようございました。もし手首にあざなどつければ訴えられますよ。軽率な」
「申し訳ない」
ぴしゃりと叱られてエヴァンは両手を上げた。手首を確認していたのは、どうやら彼女を心配したのではなく、エヴァンを心配してくれての行動だったらしい。
それが嬉しくてにやついていると、怒りに燃える目で睨まれた。
「しかも何ですか。あの恥ずかしい褒め言葉は。よく思ってもいないことがずらずらと出てくるものですね。呆れを通り越して感心します」
「本心ですよ」
「は?」
間髪いれずに答えれば、眼鏡の奥の瞳が小さく見開かれた。
思ってもいないとは心外だ。そこはきっちりと訂正させてもらう。
「本心です、ジェイダ嬢。貴女は美しい。誰よりも聡明で性格も良い。それに」
一歩進み、エヴァンはジェイダとの距離を詰めた。
「誰よりも可愛い人だ」
「かっ、かか可愛い」
吐息のかかるほどの距離で告げれば、音を立てるほどの勢いでジェイダが真っ赤になった。
「こ、この女たらし。女なら誰にでも言っているのですか」
「心外だな。自分から女性に言ったのは初めてですよ」
「~~~~っ」
言葉にならないらしく、口をパクパクと開け閉めする。何度も大きく肩を上下させてから叫んだ。
「馬鹿ですか。貴方の目は節穴ですか。いいお医者様を探して差し上げます!」
「心配には及びません。視力はいい方です」
「ああ言えばこう言う!」
「ぶっ、はははは! やはり貴女は可愛い人だ」
普段ほとんど変化のないジェイダの態度や表情が、自分の言葉でコロコロ変わっている。それがおかしくて、思わず吹き出すと、プイッと顔を横に背けられた。
「貴方には何を言っても無駄のようですね!」
「そうですね」
確かに何を言っても無駄だろう。怒るジェイダをもっと見たいのだから。
エヴァンは空を見上げた。空は夕焼けのオレンジからさらに明度を落とし、薄暗くなりつつある。
「この後飲みに行きませんか。イザベラ様の許可は取りますよ。俺も勤務時間外です。それとも酒は飲めない口ですか。でしたら食事だけでもどうです。今の我々は協力関係にあるんですから親睦を深めるのも悪くないですよ」
「……この流れでよく誘えますね」
震える声で問われ、エヴァンは口を閉じた。
やってしまった。怒らせすぎた。本心の言葉を信用してくれないからと、つい急ぎ過ぎた。
自分の意見を通すため、相手を丸め込もうとしてしまうのはエヴァンの癖だ。交渉相手にはそれでいいが、好きな女にそれをやってどうするのか。
「すみません。早急すぎました。飲みに行くのはまた今度」
もっとゆっくりと信頼を勝ち取ろう。エヴァンは一歩下がってジェイダから距離を取ろうとしたが、小さな呟きが引き留める。
「……です」
「え?」
あまりに小さくて聞き逃した。
距離を離すと余計に聞こえないので、一歩下がるのをやめて耳を寄せる。
「…………」
寄せた耳に届いたのは、いつもははきはきと喋るジェイダらしくない弱いささやき。
顔を背けているから、見えるのはきゅっと結ばれた薄い唇と、黒縁眼鏡の奥で伏せられた瞳。薄紅に染まった耳と頬。
白く細い指先にそっとつままれたエヴァンの騎士服の裾。
『ですから。飲める口だと言いました』
エヴァンの目から、口元から、肩からふっと力が抜けた。