いいえ、違います
「いやあ。相変わらず丁寧でいい仕事だね、ノーラちゃんは」
染め物工房の職人は、そう言ってノーラの手元を覗き込む。
ノーラは王城の仕事が休みのこの日、染物工房にやって来ていた。
給料が入ってすぐに絹のハンカチを買ったノーラは、染色をさせてもらおうと訪ねたのだ。
エリアスへのプレゼントを悩んだ結果、ハンカチを自分で染めて渡そうと思いついたからである。
既に何でも持っているエリアスに既製品を渡すのも気が引けたので、せめて手を加えたい。
そう思ってすぐに、この工房を思い出した。
ここは貴族御用達の人気の店にも布を卸しており、特に濃い青の美しさが評判である。
ノーラは『紺碧の歌姫』と呼ばれているし、そうして歌っていたことでエリアスと再会した。
それに、エリアスの瞳も青いので、ちょうどいい気がする。
何にしても、もうすぐ舞踏会……つまりエリアスの誕生日なので、間に合って良かった。
「このハンカチくらい、無料で構わないのに」
「駄目です。この染液を作るのに、どれだけの苦労があるか知っていますから」
ハンカチを持参したノーラは、それを染液に浸していた。
染液が染み込んだハンカチは緑色に見えるが、軽く絞って広げると、みるみるうちに青色に変化し始める。
「何回見ても、不思議ですね」
「あとは色を固定させて、余分な染料を落とすだけだね」
「はい。急にお願いしてすみませんでした。おかげでとても素敵なものができます」
ノーラが布を色素固定液に浸けながらお礼を伝えると、老齢の職人は顔を綻ばせた。
「いいよ。ノーラちゃんには、バイトで沢山お世話になったからね」
そう言うと、職人はノーラが取り出した染液に違う布を入れ始めた。
「冬の川で水洗いなんて男性でもつらいと辞めていくのに、ずっと頑張ってくれただろう。ちょうど大口の注文が重なっていたから、とても助かったんだよ。……それで、これはプレゼント?」
一瞬手を止めたノーラに、職人は更に顔を綻ばせる。
「あの、お世話になった人にプレゼントしようと思いまして」
「うんうん、そうか。ノーラちゃんにも、ついに春が来たのか」
職人は嬉しそうに染液に入れた布をひっくり返す。
「え、あの。別に、そういうわけでは」
「ああ、うん。まだ照れる年頃だよね。いいんだよ。……ほら、そろそろ出して」
どうやら職人の中ではノーラに春が来た……即ち、恋人ができたことは揺るぎない事項のようだ。
恥ずかしいが事実ではあるし、何よりとても嬉しそうに話してくれるので、否定する気も失せてくる。
指示された通りにハンカチを引き上げると、ぎゅっと絞る。
「後は余分な染料を洗い落とすだけだね。ハンカチは小さいし、家で井戸の水を使って洗えば十分だよ」
「はい。ありがとうございます」
濡れないように包んだハンカチを鞄に入れると、ノーラは足取り軽く工房を後にする。
思った以上の給料だったので、ハンカチは絹の物を買うことができた。
それを青色に染めたのだが、事前に糸を入れてあるので、その部分は白く残る。
エリアスのイニシャルを入れたつもりだが、上手くいったかどうかは糸を外すまでわからない。
早く仕上がりを確認したくて急いで歩いていると、正面から来た男性がノーラの前で立ち止まった。
周囲にはお店もないただの路地なので、わざわざ立ち止まる理由などほとんどない。
何となく嫌なので、路地の中央に立つ男を避けようと端に寄る。
そのまますれ違おうとした瞬間、男がポツリと呟いた。
「……ノーラ・クランツだな?」
その言葉に男の顔を見ると、にやりと笑みを浮かべた。
「――いいえ、違います」
きっぱりそう言うと、そのまますたすたと歩く。
何の用かは知らないが、こんな場所で初対面で呼び捨てにするのだから、どうせろくでもない話だ。
ここはひとつ、聞かなかったことにしよう。
家に帰ってからハンカチの仕上げもあることだし、どうでもいい人にかまっている時間はない。
「ま、待て!」
慌てて追いかけてくる気配に、仕方なくノーラは振り向く。
「何か御用ですか」
「一緒に来てもらおうか」
これはまた、何とも個性のないセリフだ。
ノーラは『紺碧の歌姫』として歌っているので、それなりに顔が知られている。
建国の舞踏会の歌い手を務めたせいで、以前よりも認知度が上がってしまった。
更に一応年頃の女性なので、路地で変な男性に声をかけられることも少なくない。
稀に無理やり一緒に連れて行こうとする人もいるのだが、今回もその手の人間のようだ。
本当にノーラに用があるのなら、ちゃんと使いを出すなり手紙を出すなりすればいいし、家を訪問すればいい。
あるいは、自分の方から名乗るべきだ。
それをしないのは、それなりに後ろめたいことがあるからだろう。
となれば、話を聞く必要も従う必要もない。
ノーラは鞄をしっかりと肩にかけると、一気に走り出した。
「――な? ま、待て!」
男の慌てる声が聞こえるが、待てと言われて待つ人はいないし、そんな義理もない。
とりあえず大きな道に出れば人目があるので、攫うような真似はできないだろう。
方針を定めると、路地をジグザグに走って目くらましをしつつ、大通りを目指すことにした。