1章-1 空に沈む
その少女リテュエッタは、遠い西の空に浮かんだ大陸をぼんやりと眺めていた。
詰まらない雲の切れ端のように、少なくとも数千年以上の間、この大地を見下ろしてきたとされる謎の浮遊物。
手の届くようで届かず、何か潜むようで、直接的には何の干渉もしてこない巨大な天体。
それは遙か西の空を、まるでナイフで刺したかのように細く長く穿っていた。
夕暮れに差し掛かった空は、既に濃い藍色を湛え始めている。
傍らには外套に身を包み、静かに寝息を立ててる男、レルゼアが居た。
更にその隣には、騎乗用の小さな飛竜も瞳を閉じて静かに身体を上下させている。
この仔にはティニーという可愛らしい名を付けてみたけれど、最初は彼から、情を移すような事をするなと咎められてしまったんだっけ。
柔らかく編み込んだ自身の黒髪が長く初冬の風に靡くのを手で軽く抑え付け、少女は、星がそろそろ顔を出さないだろうか、と、澄んだ天蓋を見上げてみた。
透き通った彼女の頬は、そら寒い宵の口に浮かべた花弁のように、白く自己主張して止まない。
視線を再び西の方へと戻しながら、小さな頃からあの空に浮かぶ大陸〝ステアフロート〟を眺めては、色々と想像していた事を思い出し、改めて懐かしい気持ちに浸る。
太陽のように目を焼く強さと雄々しさがある訳でもなく、星のような儚さや美しさもない。雲のように夜に熔け落つ事もなく、ただそこに横たわる。
あの謎の大陸が〝浮蝕〟を齎すといわれ、それによって人々が長年苦しみ続けていることは、無論誰もが皆、知っている。
そして浮蝕が過ぎ去れば、やがて目を見張るような肥沃な大地が戻ってくる。
吹き荒ぶ嵐のような、川の氾濫のような、謂わば自然現象。
それは光ではない何かによって産み落とされた、大いなる浮遊大陸の影であり、気紛れな昏き大地の斑。
そう真しやかに、言い伝えられてきた。
人々は、甘んじてそれを受け入れる外無い。
問題なのは、それがいつやって来て、いつ終わるか分からず、やがて瘴を呼び、引いては魔物を呼び寄せてしまうという、ただそれだけ。
当然影の元だからといって、忌み嫌う者も少なくはない。
それでも彼女は、昔から西の空を真一文字に横切るそれを眺めるのが、何となく好きだった。
あそこには一体何があるのだろう。
時折薄く見える緑の上辺は、群生する植物なのだろうか。
誰か住んでいるのだろうか。
どうして様々な場所から眺めても全く同じようにしか見えないのか。
今尚、不思議で仕方なかった。
かの浮遊物は本当に大陸なのだろうか。
何故、階段などと呼ばれているんだろう。
ただゆっくりと、そうした何かに想いを馳せるのが好きだった。
吐息は薄く白く、横風に千切られていく。
眼下に広がる鏡のように透き通った水面は、円い月だけを否定し、薄く輝き始めた数多の星々だけを湛えながら、彼女と同じように沈んだ空を見上げている。
そういえばあの時、この傍らで眠る彼と連れ立って旅立つと決めた時も、同じように遠い空をぼんやりと眺めていて、やらかしたんだっけ。
今思うと、唐突過ぎる事故と、かの病の先触れと、弾かれるような英断。
こうして僅かな日々を過ごして。
流れに身を任せて突発的に下したあの決断は、きっと正しかったんだって。心の何処かでそう信じ続けている。
だから、これで良いんだ、と。
彼女はそうやって自分自身を納得させ、少しだけ離れた場所に腰を下ろしながら、厚く鞣された外套で口元まで覆い、浅い眠りに就いた。
* * *
時は旅の始まりの頃。
リテュエッタは石造りの小高い塔、物見櫓の天辺で多くの洗濯物を干しながら、晴れ渡った露草色の空を仰いでいた。
(――今日はよく乾きそう)
雨期の終わりが近付き、空は少しずつ乾燥して冷たくなって来ているものの、まだ日差しは衰えきらず、ほんの少し汗ばむ陽気。
トレードマークの大きな三つ編みも風に靡いていたけれど、頭巾や前掛けは飛ばされないようにしっかりと結んである。
一息に干し終えた後、彼女は腰くらいの高さで凹凸の続く縁の高い方に飛び乗って、スカートの端から覗く華奢な両足を空の方角へと投げ出した。
〝――危ないからそんな事しては駄目よ〟
記憶に甦る姉ミレイユからの小言。何度も口酸っぱく言われ、最近は自重していたのに。快い晴天を前に、とうとう我慢が効かなくなってしまっていた。
こうして遠い空をただぼんやりと眺めるのは、いつくらい振りの事だろう。
雲は薄い筋状で、交易都市ミルシュタットの西側を占める旧市街の全体、起伏のある雑多な屋根の絨毯が遠くまで見渡せていた。
かつて訪れた大きな浮蝕によって、ミルシュタットの中心部は現在東側、背を向けた新市街の方へと移ってきている。
こまごまとした街並みや霞む稜線の向こうには、細く長く、かの浮遊大陸が鎮座していた。
彼女は空に向かって少しだけ手を伸ばしつつ、最近感じ始めた微かな違和感について、何となく思いを巡らせていた。
やがて不意に秋の強い吹き下ろしが、彼女の後ろへと駆けていく。
干し終えたばかりの大きなテーブルクロスは無事だろうか。
飛ばされていないかとつい気を取られ、無理な体勢で振り返ろうと、ついその身を大きく捩ってしまった。
(……いけない!)
軸にしていた左手が滑る。
そうして底の無い陥穽へと引き擦り込まれるように、彼女は雲の少ない天を仰いだまま、大の字になって背中から落ちていった。
(――――私、死ぬんだ……)
秋の綺麗な空を眺めながら、ああ、そっか、なんて暢気に考えながら。
仄かな浮遊感が彼女の本能に死を悟らせる瞬間、少女は落下点に置かれていた木箱の群れに深く沈み込んでいった。
旅の男レルゼアが無意識に顔を上げると、狭隘な空の隙間にその光景が垣間見えた。
先程まで手頃な宿を探して散策し、土地勘の無いまま当て処無く歩いていたところ。
そうして少しずつ入り組んだ生活圏へと迷い込んでしまったため、辺りを見渡せる少し小高そうな場所を目指し、浅い坂道を登っている途中だった。
人型の影が垂直に動いた直後、その流れを目で追うと、木片の砕ける甲高い音と鈍い衝撃音が同時に響く。
普段なら無用なトラブルを避けるべく、そのまま姿を眩ますか、念のため一瞥してから去るかを選んだところなのに。
この時は相当疲れ切っていて、そう頭を働かせる事が出来ず、自然と足が先の音の源へと向かってしまっていた。
そうして距離にしてたった数十歩、落下地点まで一番に駆け付ける。
せめて柔らかい何か、干し草辺りでも詰まっていれば、多少は衝撃が和らいだかもしれないのに。
悲しい事に木箱は、殆ど空っぽだった。
落差は大人の背丈にして優に七人分以上。
割れた箱の支柱は少女の胸を背中から深く刺し貫いており、即座に助からないと判断出来る。
ぐったりとした彼女から染み出た赤黒い滲みは、粗い石畳の隙間を、まるで迷路のようにぐねぐねと静かに侵食していった。
裏路地には幸か不幸か他に人がおらず、そのため幸いにも犠牲は彼女だけで済んだようだ。
ただ全身を強く打ったこの少女は、不思議な事にまだ微かに胸を上下させていた。
(――あれだけ深く肺を刺し貫かれて、呼吸……をしている?)
念のため屈み込んで鼻や口元に軽く手を当ててみると、ほんの僅かだけれど、得もいわれぬ不快な痛みが襲う。
記憶に新しい、そのじくじくとした感覚は、彼に強い焦りを想起させた。
(――――この子は死ねない、このままここに置いておいては不味い)
先の轟音によって、既に猥雑な野次馬の気配が背中の方に届き始めている。
レルゼアは不意に覚悟を決め、外套を半分だけ外して彼女を背負い上げ、再び大きく羽織って傷付いた彼女を覆い隠すと、強く歯を食い縛って、駆け出していた。
〝ごぷっ〟というこの娘を板切れから引き剥がした時の小さな呻きは、じっとり耳の底にこびり付き、しばらくの間頭から離れる事はなかった。