択一~determination~
(1)
「幽子を助けるですって!?」
紫の声が上ずる。
途方も無い話であった。
「そうよ」
しかし彼女は、さもあたりまえに言ってのける。
そうだった。この女はこういう奴だった。
自分の信じるものが絶対の正義だと疑わず、他人からの忠告には耳を貸さない。
それは誰よりも、紫が良く知っていた。
「断ったら、どうなるの?」
「幻想郷にも、西行妖があるわよね」
彼女は、紫の質問には応えてくれなかった。
「冥界の、ある屋敷の郊外に生えているわ。もはや、桜の花を咲かせることは叶わないけれど」
「私が咲かせる」
この女の言うことは、いちいち紫の気に障る。
いや。紫だから、過敏になっているのだろう。
「そんなことをしたらどうなるか、わかっているの?」
「知らない。知る必要も無い。私は、幽子に会いたい。幽子を蘇らせたい。それだけ」
「少し、時間をちょうだい」
「決断は、お早めに」
そして彼女は姿を消した。
藍が、茶を運んで来た。
二人分の湯飲みを持て余していたが、とりあえず、紫のまえに茶を置く。
「藍」
「はい」
紫に手招かれたので、藍は椅子に座った。紫が茶を飲むのを待ってから、自分も湯飲みを口に運ぶ。
「どう、されますか?」
藍が遠慮がちに聞く。
紫はなにも言わない。言えない、というほうが正しいのだろう。
「西行妖が開花したら、どうなるのでしょう?」
それで藍は、質問を変えた。
紫は、音を立てずにゆっくりと息を吐いてから、
「良いことが起こるはずは無いわね。特に、幽々子の身には」
濁した表現で、言う。
「では、幽子様を助けた場合は……」
「藍」
「は」
「私にだって、わからないことはあるわ」
「失礼しました」
「いずれにしても、運命は、この妖怪の賢者に決断を迫るつもりのようね」
紫が椅子から腰を上げる。
長い金髪が揺れた。
(そのとき私は、大事な友人と幻想郷の秩序とを、天秤にかけないといけないかもしれない)
それが、とてつもなく残酷なことと知りながら。
科学技術の発展は、人々の生活に大きな恩恵をもたらした。
生活の利便性の向上は言うまでも無く、妖怪など、得体の知れない存在も否定された。
人間は、見えないものを恐れ、現象に名前が付くと安心する習性がある。
だから、原因不明の事件が起きたなら、妖怪の仕業ということにしていた。
しかし、妖怪の姿は曖昧で、はっきりしない。姿をとらえることができないから、さらに怖い。
その恐れが、妖怪を具現化させた。
妖怪は思念体だ。
姿形があるようで、実体はあやふや。
そのため、妖怪が存在しないと信じられれば、妖怪は存在することができない。
現世で存在を否定された妖怪たちの拠り所になっているのが、幻想郷。
そこに住まう人間たちが、妖怪を認識することによって、妖怪たちは自我を保つことができる。
その上空。
空のはるか彼方には、幽明を分かつ門がある。
そこには、外の世界では薄れてしまった、あの世と、この世という概念があった。
あの世と呼ばれるのが、冥界。
地上で亡くなった人間の、霊魂の待機所である。
昼夜の区別は無く、常に薄暗い。
集落のようなものも無く、一つの建物があるだけ。
長い石段を上った先に建っている屋敷を、白玉楼という。
「妖夢―。おーい、妖夢―」
幽々子が縁側からその名を呼べば、
「御用ですか?」
従者はすぐにやって来る。
「庭の手入れの途中なのですが」
めんどうくさそうにしながら。
「この後、稽古もしたいので、御用があるのならば、手短にお願いします」
御用があるのならば、と、妖夢が微妙に含みのある言いかたをしたのには、理由がある。
「ふふふ。呼んでみただけ」
幽々子は、音符が弾むような、嬉しそうな声色で言う。
「またですか」
この女主人は、たびたびこうして、用事も無いのに妖夢を呼びつける。
「あら? 稽古と私、どちらが大事なの」
「はい。もちろん、幽々子様です」
抑揚の無い声で、妖夢は応える。
幽々子の従者という立場上、名前を呼ばれたなら、妖夢は駆けつけざるを得ない。
掃除中だろうが、剣術の稽古をしていようが、就寝中であっても。どうせまた、用事が無いのに呼ばれてるんだろうなと、わかりきっていても。
「妖夢の顔が、見たくなったのよ」
ぬけぬけと、そんなことをのたまわる西行寺幽々子。
白玉楼の女主人にして、冥界の管理人である。
(2)
道場の神棚に対座して、瞳を閉じる。
ひざ元には、大小の木刀。
ひたすら己に向き合い、ただ、ただ、自らの心の奥へと意識を沈めていく。
右手に長刀、左手に小太刀を収めて、静かに立ち上がる。
一礼をしてから、両の太刀を構える。
妖夢の視線の先には、何者がいるわけでも無い。
だけど妖夢には、その影がはっきりと見える。
敬うべき人。
そして、畏怖と嫉妬の対象。
老齢だが、体躯はがっしりしていて、腰が据わっている。いつでも打ちかかって来いと言わんばかりに泰然自若としている。
若いころは、もっと筋肉質だったかもしれない。いまは、筋肉が落ちて、ややほっそりとしているが、そのぶん、無駄が削がれて精練された印象だった。
背丈は妖夢の倍くらいだ。彼を師匠と仰ぎ、剣術の修行を始めたてのころは、妖夢の何十倍も背が大きく感じたものだった。
つい、と、かすかに右足を滑らせる。
腰を落して、長刀を振るう。
最初は、両手で一本の木刀を握っても、振ることすらままならなかった。
だから、いつも簡単に真剣を扱っている師匠のことが、化け物のようにも思えた。
影は、妖夢の斬撃を受け止め、小太刀を繰り出してくる。
「ふっ……!」
小さく息を吐き、後ろに飛びすさって、宙返りで一回転。なめらかに着地。
影には……、師匠にはこの動きはできない。小柄な体を活かした、妖夢ならでは動きだからだ。
道場の床を指先でとらえて、跳躍。
上段から切りかかる。
鍛錬を積み、少しずつ刀の扱い方がわかってくると、今度は、師匠の存在が小さくなる。無用に師匠のことを恐れすぎていたのだと。
だが、実際に師匠と打ちあえば、もののひと太刀で、妖夢の木刀は弾き飛ばされた。
じんと、手に残る痛み。
あの痛みは、生涯忘れることは無いだろう。
影は両刀を交差させて、妖夢の上段切りを防ぐ。
くるりと空中で一回転をした妖夢が着地した瞬間をねらい、影は太刀を振り下ろしてくる。
床を蹴って、それをかわす。
この人には、一つ選択を誤れば、たちまちに負ける。
ときにその幻影が強大になりすぎ、どうあがいても追いつけないと嘆くときもあって。
ときにその幻影が脆弱になりすぎ、もはや鍛錬は終わったと過信するときもあって。
妖夢の鍛錬は、ずっとのその繰り返し。
剣術の道は、果てしなく長い道のり。
(越える……!)
この人を越えて行く。
単に、この影を倒せばいいというものでは無い。
能力で上回るだけでは意味が無い。
越えて行くのだ。
越えて、この先に続く道に足を踏み出す。
(越える、越えてみせるっ……!)
稽古に熱が入ってきたとき。
「妖夢さん」
道場に、藍が入ってきた。
緊張が和らいで、影は消えていく。
妖夢は、影が去って行くのを、名残惜しく見ていた。
「鍛錬中でしたか。失礼しました」
「いえ。こちらこそ、お構いもせずに失礼しました」
藍は、道場に入ると神棚に拝礼した。
「良い字ですね」
神棚の掛け軸には、堂々とした毛筆体で、〈誠心〉と記されてあった。
「師匠の書です」
褒められると、妖夢は自分のことのように喜んだ。
「ここは、空気が清い」
藍は、道場を見渡した。
ほどんと、妖夢のための鍛錬場と言って良かった。
妖夢は、幽々子の剣術指南役でもあるので、肩書きからすると、幽々子に剣術を教える立場だった。
ところが妖夢の日常は、幽々子の身の周りの世話と、庭の手入れに終始していて、それがすっかりと馴染んでしまった。
「これだけ立派な道場を、私一人で使うのは、もったい無いのですが……」
「妖忌殿は、隠居されたのでしたよね」
「はい。いつの間にかいなくなっていました」
道場の主である師匠は、もの心ついたときには隠居をしてしまった。
それ以来、妖夢は鍛錬を積みながら、この道場を護っているのだった。
「ところで、藍さんは、今日はどんな御用でお越しになったのですか?」
別段、他意の無い日常会話だった。
「ええと……、それはですね……」
ところが藍は、どうしたことか、気まずそうに視線をそらした。
「……? 紫様もお越しになられているのですか?」
「あー、えー、ええまぁ、はい。いま、幽々子様とお話をされておりまして……」
そんなに応えにくい質問をしただろうかと、妖夢は首をかしげた。
しかし、この藍の様子には既視感がある。
幽々子に振り回されているときの妖夢と、よく似ているのだ。
紫と幽々子は、質は違うけれど、なにを考えているのかつかめないときが非常に多い。
(ここは、深く聞かないでおこう)
そんな主人に仕える苦労は、共有できる。
なにかと気苦労が耐えない者同士、相身互いである。あんまり藍を困らせるようなことは、したくない。
妖夢は木刀を手にし、基礎の型を始めた。
藍は、ほっとして、道場の隅っこに正座した。紫に、妖夢を見張っていろと命じられたに違い無い。
(なるほど。私に聞かれたくない話か。いったい、なにを話してるんだか)
考えてみたところで、紫と幽々子の頭の中なんて、読めるはずも無い。
妖夢にしても藍にしても、変わり者の主人を持つと、苦労することばかりだ。
(3)
日課の鍛錬を終えた妖夢は、自室に戻った。
藍に、着替えに戻ると告げると、迷っていたふうではあったが、私室にまでくっついてくることはしなかった。
肌着をたたんで、洗濯籠に置いた。
短い時間の鍛錬だったが、しっかり動いたので汗をかいた。
妖夢が素肌をさらすと、白い肌がほんのりと桜色に上気していて、まるで雪が溶けるように、ふつふつと汗が湧いていた。
(本当は、稽古着を使いたいんだけどなぁ……)
気持ちをきり替える意味でも、剣術の稽古をしているときは着替えたいのだが、さっきのように、いつ幽々子から呼ばれるかわからない。
だから妖夢は、常に普段着で生活をするようにしていた。
妖夢は、無垢な乙女を連想させる肌に手ぬぐいをあてて、汗を拭いていった。ふと、その手が左の鎖骨の下で止まった。
もう傷跡は残っていないが、師匠に、何度かここを刀の先で突かれたことがある。
いじめられていたわけでは無い。
いつか真剣で戦うことになったときのために、刀で斬られる痛みを味わっておくこと、血を流しておくことは、刀を持つ者にとって、大事な経験だ。
それに、刀で斬られる痛みを知っておけば、他人に対して、みだりに刀を向けるようなことはしなくなる。
まして、師からひき継いだ楼観剣と白楼剣は、魂魄の苗字を授かった者しか扱うことができない、神聖な品だ。
この刀たちを誰かに向けるときは、己と、そして魂魄の誇りを賭けるときでなければならないのだ。
「妖夢―。妖夢やーい」
遠くから、幽々子の声が聞こえた。
(またか……)
と思いながら、
「ただいま参りますー!」
廊下のかなたへと返事をして、着衣を整えた。
従者用の部屋を出て草履を履き、主客殿へ。
本来は、客を迎えるための広間だけど、幽々子はだいたい、そこで食事を摂ったりお茶をしたりしているので、ほとんど幽々子がくつろぐための部屋と化している。
「なにか御用ですか?」
「お腹がすいた」
間髪を入れず、幽々子はぽんぽんとお腹を叩いて見せてくる。
「そうですか。ちょうど夕餉の支度をするところでしたので、少しお待ちください」
いちいち言わなくても、妖夢は規則正しく日々の生活を刻んでいるのだから、妖夢がこれから、夕食の準備にとりかかることくらい、幽々子だって知っている。
これはいつもの、かまって病が発動したのだ。
「そう。それじゃあ、お願いね」
妖夢の返答に満足したらしく、幽々子はにっこりと笑う。
主客殿の北の縁側。
そこは、幽々子が好んでくつろいでいる場所だった。
庭の木々は妖夢によって手入れされ、白砂を用いて、枯山水が描かれている。
扇を広げた幽々子は、目を細めて庭を眺めた。
「妖夢の枯山水も、様になってきたわね」
「いえ、私など、まだまだ未熟者です」
謙遜では無い。
師である妖忌が整えた庭は、世の中の在りようだとか真理だとか、目で見ることができないものを捉え、それをのびのびと描いているように感じた。だから師が描く枯山水は、とても雄大で、果てが無かった。
妖夢が創る庭は、師匠が表現していたものを、どうにか記憶からほじくり出してきて、表面上だけ真似しているにすぎないのだ。
だから妖夢の描く枯山水は、どこか窮屈で息苦しい。
剣術にしても同じだ。
師は、ただ強いというだけでなく、心が優れていた。
泰然としていて隙が無く、それでいて柔らかい。
それに比べて妖夢は、まだ、師匠の手のひらの中から抜け出せていなくて、堅苦しい。
「あら。未熟ということを自覚できるのも、立派なことよ」
笑いながら、幽々子。
「ゆっくり、大きくなったらいいわ。あんまり早く大人になられると、焦っちゃうもの」
「はぁ」
こういうとき、妖夢は反応に困る。
幽々子は妖夢の主人だが、たまに、母や姉のような接しかたをしてくる。
これをされると、こそばゆくなってしまう。
「食事の準備に行ってまいります」
慇懃無礼に頭を下げて、妖夢は幽々子から離れた。
その背中が見えなくなるまで、幽々子は妖夢を見つめていた。
(4)
―――剣術は、生きることに似ている―――
いつだったか、妖忌は妖夢に説いたことがある。
その意味するところがどこにあるのか、妖夢にはわからなかった。たぶんいまでも、よくわかっていない。
師匠の説教は、雲をつかむような話ばかりだった。
あるときは偉大な剣術家で、あるときは優れた芸術家で……。師匠は雲のように、そのときどきで、自由自在に姿を変える。
その実態は、哲学者のようであり、衆人から離れたところで、世の中の在り様を見守っていた。
だから、隠居生活というのは、彼にとっての天職だろう。
剣を握ることも、庭を整えることも、書をしたためることも、師匠にとっては同じことだったのかもしれない。
表面的に行っていることが違うだけで、変えてはいけない部分は、変わらずにずっとそのままなのだ。
妖夢は包丁を手に取った。
今日はやけに、師匠の存在が色濃い。
―――剣術も生きることも、捨てていくこと―――
妖忌の持論だった。
剣を握り、誰かと相対すれば、あとは選択の連続。
自ら仕掛けるか、様子を見るのか、相手の刀を受けるのか避けるのか、避けるのならば、どの方向に避けるのか……。
複数あるうちの選択肢から、一つを選ぶということは、他に浮かんだ選択肢を捨てるということなのだと、師匠は説いた。
捨てて、捨てて、最後に残るのは、「するべきこと」と、「こうしたい」の二択。
「するべきこと」を選択するということは、「こうしたい」という自分を殺すこと。非情の選択と言うこともできる。
「こうしたい」を選択するということは、欲求に応えるということ。情に流されているとも言える。
(頭がこんがらがりそうになって、私は聞いたっけ)
どっちが正解なの?
純粋な妖夢の疑問に、師匠は笑みを返してよこしただけだった。
正解は、いまもってわからない。
「妖夢」
「紫様」
ひょっこりと、紫が厨房にやって来た。
この御仁は、いつも神出鬼没である。
藍は従えていなかった。
「御用は済んだのですか?」
その用事が、幽々子となにかの内緒話をすることだと知っていたが、藪蛇を突くのは嫌なので、あえて深掘りはしなかった。
「ええ。お邪魔したわね」
「お帰りですか? いま夕餉の支度を整えますので、召し上がっていらしてください」
「ありがとう。でも今日は帰るわ。貴女のことだから、気を遣って私たちのぶんまで食事を用意してしまいそうだから、断りに来たのよ」
「それは、わざわざ申し訳ありません。またの機会に、ぜひ」
「そうね……」
紫の顔に、陰りが見えた。
腹の内を他人に見せることが少ない彼女にしては、異例のことだった。
「また、ね」
含みを感じたが、その奥にあるものがなんなのか、妖夢にはわからなかった。
「藍。藍やーい。帰るわよー」
そして紫は、白玉楼のどこかにいるであろう藍を呼んだ。
妖夢を呼ぶときの幽々子にそっくりだった。
胸に、奇妙な哀愁が漂った。
(5)
庭の塀の向こう側には、数えきれないほどの桜の木が植えられており、その桜も楽しみながら酒を嗜むのが、幽々子は好きだった。
桜はやっと蕾を膨らませ始めたくらい。花見をするのには尚早である。
それでも幽々子は、妖夢が料理を運んでいる間も、縁側の座布団の上でたそがれて、一分咲きとも言うことができない、桜の木々を眺めていた。
横顔を覗く。
その瞳に映っているものは、なんだろう。
「お待たせしました」
妖夢の声に反応した幽々子は、まるで、眠っていたところを起こされたようだった。
幽々子はさっきまで、どこに行っていたのだろうか。もしかしたら、幽々子自身、わかっていないのかもしれない。
幽々子は、幼子のように立ち振る舞うことが多いけれど、ときおり、浮世離れした雰囲気に包まれることがある。
「ほうほうほう。山菜料理が中心ね。さすが妖夢、わかってるわ~」
膳の用意ができると、幽々子は満足気に手を合わせた。
つくしの佃煮。
菜花としめじの辛子醤油和え。
こごみのクルミ和え。
タラの芽の天ぷら。
セリと人参のおひたし。
早春の山菜料理である。
そしてセリの根っこは別の皿に配膳して、わさび醤油を添えた。
このセリの根の土っぽさが、幽々子は好きだった。
こいつをサッと茹でて、わさび醤油でいただくのが至高。
と舌なめずりをせんばかりに、瞳を爛々と輝かせている幽々子は、大食漢のうえに雑食というわけではなく、食にやかましいので、妖夢も苦労なのである。
「それじゃ、いただきまーす」
さっそく幽々子は、料理に箸を伸ばした。
一杯めの酒だけをお酌して、妖夢は幽々子の後ろに座る。
そこには、幽々子と同じ内容の料理が並んでいる。幽々子に遠慮して、食器は幽々子が使っているものより、質が一段劣るものを使用することにしていた。
主人と従者という関係なので、別々の場所で食事をしたほうが良いのではと妖夢は思うのだが、幽々子はそれを激しく嫌がるので、食事を共にしている。
(存外、さみしがりやなのかな?)
上機嫌で料理に舌鼓を打っている、幽々子の背中を見やる。
この奔放な女主人に仕えて、どれくらいになっただろうか。
妖夢は半分人間で半分妖怪だし、幽々子に至っては、死ぬことが無い亡霊だし、常に薄暗い冥界で生活しているから、時間の感覚がおかしくなる。
(それにしても、ワカメはおいしいな)
最近、よく膳に並ぶことが多いのが、ワカメのふき味噌和えである。
幻想郷には海が無いので、海藻という食べものはとても貴重で、藍に分けてもらったものを、大事に保管している。
このワカメに、八丁味噌で作ったふき味噌を合わせれば、味噌の甘さとふきのとうの苦さ、そしてワカメのシコシコとした触感が混ざり合って旨い。
幽々子が気に入っているのを良いことに、妖夢も相伴にあずかっている。
こういう渋い料理が旨いと思えるくらいには、妖夢は大人になったようだ。
これから先、どのくらいの年月を、幽々子と共に過ごすことができるだろう。
半人である妖夢は、いずれ歳をとって、人間と同じように人生を終える。
それは、普通の人間にとっては、途方も無いほど長い時間なのだろうけれど、妖夢たちにとっては、一瞬の歳月。
「願わくは、花の下にて春死なん……」
お酒が入って、さらに機嫌が良くなった幽々子は、歌を詠んだ。
澄んだ美しい声が、冥界の空に吸い込まれていった。
(6)
妖夢は箸を動かす手を止めて、幽々子の歌に聞き入っていた。
願わくは、桜の下にて春死なん……。
それは、桜を愛した有名な歌人が読んだ歌。
もしも願いが叶うのであれば、人生を終えるそのときは、美しく咲き誇る桜の下にいたいものだ。という心境を表現した歌だった。
人生を悲観して、桜の下で生を終えてしまいたいという意味では無い。
いかに前向きに生きるべきか、いかに自分を満足させるか、という歌であると妖夢には感じる。
人はいずれ、生を終える。
半人である妖夢も例外では無い。
生きる、ということは、様々な選択をするということ。
どの選択が正解なのかわからないままに、選択を迫られる。
暗中模索の中で、唯一、はっきりとしていることは、生まれたからには、いつか人生を終わらせなければならないということだ。
(できれば、そのときを悔い無く迎えたいものだな)
妖夢は食事を再開した。
桜の下にて春死なん。
あなたは、どのように生きて、どのように死ぬのですか?
この歌は、そんな問いかけであるのかもしれない。
妖夢のこの先の人生は、どうなるのだろう。
未熟者の自分には、どうやって人生を終えたいなど、まだ考えられない。
いまは、目のまえの日々をこなすことで手一杯だ。
「妖夢ぅ。一杯どぉ?」
「あ、おそれいります」
酒を呑んで、いい具合にできあがった幽々子に、酒を勧められた。
幽々子はできあがると、高確率で妖夢に酒を勧めてくる。
妖夢も酒は嫌いでは無いので、酌を断ることはしないが、
「でも、この後に片づけがありますので、あまり深酒はできませんよ」
と釘だけはさしておく。
酔っぱらって、そのまま眠ってしまってもかまわない幽々子とは違い、妖夢には仕事が残っているのだから。
「いいじゃない、たまには潰れるまで呑みましょうよー」
「はいはい」
幽々子の酌を受けて盃をかたむけた。
言われたことは真に受けず、ちびちびと丁寧に酒を体内に流し込む。
「なによその吞みっぷりは。ぐいっといきなさいよ、ぐいっと。貴女、妖忌の孫でしょ」
「私は師匠ほど、酒豪じゃありません」
妖忌は、いくら酒を呑んでもけろっとしている、うわばみとかザルとか呼ばれる人種だった。酒は好きだが、そこまでの特異体質では無い。
(あ……、れ……?)
指先から力が抜けかかった。
盃の中の酒が揺れる。
危うく酒をこぼすところだった。
(めまい……?)
違う。
じんわりと体が温かくなってきて、気持ちが良い。
その気持ち良さに抗えず、まぶたが落ちてきてしまう。
睡魔だ。
抗いようの無い心地よさに、体が左右に揺れた。
すると幽々子が振り返る。
まぶたが完全に閉じきるそのとき。
お、や、す、み。
幽々子の唇がゆっくりと動いて、そう伝えてきたのを理解したそのとき、妖夢の意識はぷっつりと切れた。
(7)
前のめりに倒れ込みそうになった妖夢の体を、幽々子は抱きとめる。
「上手くいったわよ、紫」
廊下の曲がり角から、帰ったはずの紫が現われた。
顔には、憂いの色が滲んでいる。
「ふふふ。どんな夢を見ているのかしらね」
妖夢の頭を膝の上に乗せて、幽々子は愛おしそうに、妖夢の銀髪を指で梳いた。
「白玉楼に仕え始めたころは、あんなに小さかったのに。もうこんなに大きくなって……。きっと、すぐに歳を取っちゃうんでしょうね」
「幽々子……」
紫は申し訳なさそうに、幽々子と妖夢を見下ろした。
「本当に、いいの?」
それは罪悪感からで無く、迷いから出た言葉だった。
幽々子が断れば、いかに紫であっても、この件を強引に推し進めることはできない。
心の片隅に、幽々子に断って欲しいという気持ちがあることは否めなかった。
しかし幽々子は、明るく笑う。
「紫のすることだもの。なにか理由があるんでしょ」
幽々子とは目を合わせないようにして、眠っている妖夢を両手で抱える。
「それじゃあ、約束どおり、しばらくの間、妖夢を借りるわね。妖夢がいない間のことは、藍に任せてあるから」
幽々子に背を向ける。
「幽々子」
「なぁに?」
「いえ……、なんでも無いわ」
謝罪の言葉が口から出かかったが、こらえた。
己の非を認めてしまったら、なにもできなくなってしまうから。