幽々子・幽子 ~nexus~
(1)
幽々子は、富士見幽子として生きていたころの記憶を奪われた。
容姿も、がらりと変わった。
もはや、幽々子と幽子は別人である。
だが、幽子を知っている紫には、びっくりするほど、二人の面影が重なるときがある。
幽々子は、幽子と同じように、歌聖と讃えられた、有名な歌人の歌を好む。
その歌人と同様に、桜の花を愛する。
それはもしかしたら、幽々子の中に、かすかに幽子の記憶が残っているためなのか。
または、別人として生まれ変わっても、本質的な感性や好みは、ひき継がれるものなのだろうか。
「仏には、桜の花を奉れ。わが後の世を、ひととぶらはば……」
幽々子が、歌を紡ぐ。
「転生できない私が歌っても、説得力が無いわよね」
「……」
「でも、どうしてかしらね。桜にまつわる歌が好きなのよ」
このとき紫は、幽々子にどう応じるべきか、わからなかった。
ほとけには、さくらのはなをたてまつれ。
わがのちのよを、ひととぶらはば。
私が死んだ後、来世を祈ってくださる方がいるのなら、どうか私に、桜の花をたむけてください。
白玉楼の桜は、今年も美しく咲いている。
まるで誰かを弔うように。
(2)
(いったい、私の身の回りで、なにが起きているっていうんだ)
真実を手繰り寄せるための糸口を探しているのに、糸は複雑に絡むばかりで、ほどけようとしない。
(葵は、何者なんだろう)
いや、その問題は置いておこう。
「葵は、なにをしていたんだ」
こっちのほうが重大であるような気がした。
断片的な情報しか耳にしていないが、葵は、あの男と、なにかの約束を交わしていた。
そして、右大臣という言葉も聞き捨てならない。
あの、ガラが悪い男の背後には、右大臣がいる。
(ということは、あの男は、右大臣とのつなぎ役なのか)
男は、右大臣と誰とをつないでいるのか。
紛れも無い。
葵だ。
葵は言った。
予定外のことが起きたと。
これは妖夢が現れたことを指しているのだ。
そしてまた、言った。
もうちょっと待って。と。
なにを待たせているのだろう。
妖夢は、体を強張らせた。
箒を握る手が、きつくなる。
(葵は、なにをしようとしているんだろう)
話の雰囲気からして、それは絶対に、愉快なものでは無い。
「妖夢―。終わったー?」
葵が、門のほうにやって来る。
妖夢はすぐに、箒を動かした。
「もうちょっとで終わるよ」
葵は、明るく笑んでいる。
幼さが残る、あどけない顔で。
妖夢は、空恐ろしさを感じた。
こんな無邪気な顔をしているくせに、裏では、大人と暗い取引をしている。
人の心に巣くう魔性は、こんなあどけない女の子をも、食いものにしてしまうのか。
(ひとまず、葵を詮索するのはやめておこう)
大人と、堂々と駆け引きをすることができる葵だ。簡単に尻尾をつかませることは無いだろう。逆に、こっちが疑われてしまいかねない。
(しかし、人里離れたこの屋敷で、葵以外の情報源となると……)
選択肢は、限られていた。
心もとなすぎるけれど、行動をしなければ、なにも始まらない。
「幽子様は、普段はなにをされているの?」
幽子とは、食事をするとき以外に、かかわったことは無い。
幽子と関係を深めることを、葵が快く思わないからだ。
「どうしたの。急に」
案の定、葵は警戒色を強めているようだった。
しかし、葵の様子だって不穏なのだから、細かいことは気にしていられない。
「ここに置いてもらうことになったのに、ちゃんとお礼を申し上げていなかったから。私も落ち着いてきたし、一度、ゆっくりお話ができればと思って」
「ふーん……」
葵は、あからさまに妖夢の顔色をうかがう。
わずかでも疑わしいところがあれば、幽子には近づけないという心の声が、ありありと感じとれた。
(やっぱり葵は、私を幽子様に近づけたくないんだな)
それは、葵の黒い企みを実行させるためなのだろうか。
(3)
幽子は普段、屋敷の奥御殿にいるらしい。
そこで庭を眺め、ときには歌を詠んだりして、静かにすごしていると、葵が教えてくれた。
幽子が詠む歌は、とても上手で、気品に満ちているのだと、葵は、瞳を輝かせていた。
お姫様にあこがれる女児のそれだった。
それでまた、妖夢の思考は混迷する。
いったい、どこまでが本気で、どこまでが演技なのか。
妖夢が、屋敷の勝手がわからずうろついていたとき、ざらついた感覚を感じて後ろを振り向くと、そこには葵がいた。
いまとなっては、あのときに感じたものは、正しかったのではないかと思える。
葵は、確実になにかを抱えている。
それも、良くないものを抱えて、幽子のそばにいるのだ。
あの女の腹の中が、見えなかった。
(まぁ、いまは葵のことはいいか)
妖夢が、奥御殿に歩を進めると、その人はいた。
縁側に座布団を敷いて、庭を眺めている様が、ぴったりと幽々子の面影と重なる。
妖夢が、必要以上に幽子とかかわらなかったのは、葵が目を光らせているというだけでは無い。
幽子と深い関係を築かないほうが良いと思ったのだ。
「庭を、ご覧でしたか」
幽子は応えず、品の良い笑みをよこした。
近くに寄っても良いということだと思い、妖夢は縁側に正座した。
「お礼を申し上げるのが遅れてしまいました。急な来訪にもかかわらず、お屋敷に住まわせていただき、ありがとうございます」
「お礼には、およばないわ」
幽子は、庭を見つめたまま、言った。
「私の屋敷では無いもの」
「は……?」
「ここは、私の屋敷では無いの。だから、お礼は不要よ」
さて困ったのは、妖夢。
幽子が笑顔のままで言うものだから、困惑した。冗談で言っているのか、本音で話しているのか、判断しかねた。
(生前から、こんな性格だったのか)
容姿は、似ても似つかないけれど、言動の意図が汲みとりにくいという本質部分は、死してなおつながっているのか。
「荒れておりますね」
だから妖夢は、話題を変えた。
わからないことを、無理に深掘りしようしても、疲れるだけ。長年、幽々子に仕えて、身につけたことだった。
「このような庭では、心が癒されないでしょう」
奥御殿の庭も、表の庭と同様に、整っているとは言い難い有様で、殺風景だった。
「でも、手入れする者もいないし、しかたないのよ」
しかたがない。
幽子は、心の底からそう言っているように思えた。
それがひどく、ひっかかって、
「よろしければ、私が手入れしましょうか」
気がついたときには、そう申し出ていた。
(葵に、怒られそうだなぁ)
でも、すさんでいる庭をそのままにしておくことは、できなかった。
魂魄妖夢、哀しき庭師の性である。
(4)
「私から言われた仕事しかしないって、約束したでしょ!?」
葵からは、予想どおりの反応が返ってきた。
眉を吊り上げて、すごい剣幕で妖夢を怒鳴りつけてきた。
「葵に断らずに、出過ぎたことをして、ごめん。でも……」
「でも、なによ?」
葵が詰め寄ってくる。
その迫力に、妖夢は後ずさった。
しかたないと言った、幽子の顔を思い出す。
それは、荒れた庭のことにとどまらない気がしたのだ。
(だけど、私の勘でしか無いから、勘違いかもしれないし……)
ということなので、葵を納得させる言い訳が思いつかなかった。
「妖夢の嘘つき!」
妖夢がなにも言えずにいると、葵はさらに妖夢を責めてきた。
だが、嘘つき呼ばわりされて、カチンときた。
「ていうか、葵はなにが気に入らないの。私の仕事ぶりは、葵が一番良く知ってるでしょ」
今日まで、妖夢はまじめに仕事をしてきた。
葵がサボっている間、一人で仕事をしたこともある。そのことに文句を言ったことも無い。
いきなり現れた妖夢のことを警戒するのはわかる。でも、仕事を誠実にこなしていることは、疑いようが無いはずだ。
「だって、幽子様の庭の手入れなんて……」
「私が幽子様に近づくのが、そんなに嫌? それとも、葵にとって、なにか不都合なことでもあるの?」
言ってから、これはマズいかと後悔した。
怒っていたせいで、踏み込んだことを口走ってしまった。
葵と得体の知れない男の話を盗み聞いていたことを、悟られてしまうかもしれない。
「不都合なんて、無いよ。あるわけないでしょ」
念を入れているのが、怪しく思えた。
葵だけが幽子のそばにいたいのは、悪い企みを実行する機会をうかがうためではないのか。
(その真相を探るためにも、私もできるだけ幽子様の近くにいたほうがいいな)
となれば、是が非でも庭の手入れはさせてもらわないといけない。
「不都合が無いなら、構わないでしょ。庭が整っていたほうが、気持ちがいいに決まってるんだから」
「……」
葵は、苦々しい顔をして、黙ってしまった。
承諾はしたくないが、反論のしようも無い。
どうあっても、妖夢と幽子の距離を縮めたくないのだ。
(やっぱり、裏があるんだな)
(5)
(芸事を極めることは、みな等しいと、師匠は言っていたな)
妖忌には、優れた庭師としての顔もあった。
その妖忌が言うには、料理も、書物を記すことも、庭を造ることも、根底に流れているものは同じだそうな。
さらに言えば、剣術も、元の部分を視てみれば、同じもの。
それぞれ、やっていることは違えども、そのときの心の在り様は、変わり無い。
妖夢の本業は、剣術家だ。
だから、庭の手入れなどしていては、剣術の稽古がおろそかになるのではないかと思っていた時期があった。
しかし、少しずつその世界に浸っていけば、それが間違いであることに気づく。
無駄を省いて、精錬させること。試行錯誤を重ねて、腕を磨くこと。少しの遊び心を混ぜてみること。
そして、どれほど鍛錬を積もうとも、その道には、果てが無いということ。
それらはすべて、剣術にも通ずる。
「終わりが見えないな、これは」
妖夢は、枝切りばさみで植木を刈りながら、弱音を吐いた。
地面に落ちた葉や枝を、葵が熊手でかき集めている。
「……」
妖夢をひとにらみして、無言で作業している。
あなたがやるって言いだしたことでしょ。
葵の目は、そう言っていた。
(わかってるよ。そんなことは)
いまの弱音は本気ではなくて、小休止がてらの軽口だ。
それなのに葵が、それに乗っかってくれないから、妖夢が本当に弱音を言ったみたいになる。
(思っていたよりも、強情だな)
葵とは、ぎくしゃくした関係になってしまった。
妖夢が日常会話を振っても、
「そうね」
とか、
「あっそう」
といった、愛想の無い反応しか返ってこない。
葵はあきらかに意識して、この仕事をお願いとか、これやっておいてとか、最低限のことしか口にしないようにしているのだ。
いまも仏頂面で、黙々と妖夢の助手を務めている。
しかし幽子がたまに顔を見せて、ごくろうさまとねぎらいの言葉をかけてくると、満面の笑みを見せる。妖夢へのあてつけである。
(ここまで嫌われるとはなぁ)
妖夢はいまや、屋敷の居候兼使用人の立場を確立しつつある。
一日のうちに何度も葵と顔を合わせることになるから、終始、葵が不機嫌だと、どんよりした空気を吸い続けないといけない。
これはけっこう、精神がすり減る。
葵には、疑わしいところが多い。
だが、普通に会話するくらいの仲ではありたい。
ありたいのだが……。
「葵、次はこっちの植木を整えよう」
妖夢が声をかけても、葵は無言を貫いている。
(なんで、知らない世界にやって来てまで、こんな苦労をしないといけないだろう)
自らの不運を嘆く妖夢。
だけどこれは、妖夢の苦労譚の、序章にすぎない。
(6)
「食料が届かない?」
葵は、無言のままにうなずいた。
「いつもは、どのくらいの間隔で届くことになってるの?」
「7日に一度」
そう言われて妖夢は、この間、食料と燃料が運ばれてきた日のことを思い出す。
たしかに、葵と怪しげな男が密談していた日から数えて、7日はゆうに過ぎている。
そして、葵が妖夢にそっけ無い態度をとるようになってからも、けっこうな日にちが経っていた。
食料が届かないと、陸の孤島であるこの屋敷では、死活問題に発展する。
それでも葵が、今日も今日とて、必要以上のことを口にしないのは、食料と燃料の備蓄が充分だからだ。
(だけど、このままずっと補給が無いままだと、まずいな)
そのときは、幽子と一緒に、飢えるしかない。
「葵、配給が届かないの?」
幽子が、台所に姿を見せた。
「そうなんです。これまで、こんなことは無かったのに」
「とうとう、右大臣様の嫌がらせが始まったのかしら」
自虐的に、幽子は笑った。
「いや、それは……」
無い。
と推測できるが、そう思った根拠を聞かれると困るので、妖夢は口をつぐんだ。
仲介人の男を通して、葵になにかを依頼していたことからも、右大臣とやらは、幽子に対して、自分が直接的に手を下したくないのだ。
「私が、様子を見てきます」
「妖夢、危ないわ。野犬もいるし、山のどこかに、賊の住処があるという噂もあるわ」
「ご心配にはおよびません」
たすき掛けをして、つっかえ棒を二本、手に取った。
「剣術には、自信がありますので」
明るく言ったが、それでも幽子は心配そうだった。
「私も一緒に行く」
「えっ!?」
葵が、強張った表情で言う。
妖夢は驚き、幽子はさらに不安を募らせていた。
「自分の身は、自分で守れるから」
その顔つきからは、なにがあってもついて行くという、強い意志を感じた。
もしかしたら、これも葵の企みのうちなのだろうか。
(それなら、あえて葵と行動を共にするのも手か)
それで、葵の企みを看破できるかもしれない。
「幽子様、申し訳ありませんが、ご同行いただけませんか」
「え……」
「屋敷に、お一人にするわけにはいきませんので。御身は、私が責任をもってお守りします」
ひざまずいて、幽子につっかえ棒を渡す。
この人は、本当の主では無いが、誓いを立て、覚悟をもって幽子を守るつもりだった。
「あの、幽子様」
「な、なに?」
「お言葉と、剣を賜りたいのですが」
主として見立てる人から垂示と剣を与えてもらわないと、儀式は終わらない。しかし幽子は、こういう経験が無いのか、照れて固まってしまった。いつもは達観した雰囲気をまとっているから、年齢以上に大人びて見えるけれど、困ってどぎまぎしている幽子は、初心でかわいらしかった。
「ええと……。じゃあ、怪我をしないようにね」
妖夢は、ぷっと吹き出し笑いをして、
「精進いたします」
二本の棒を、頭の上に頂いた。
場所は台所で、剣は戸締り用のつっかえ棒。そして幽子の、母親からの注意みたいな垂示。
締まりが無い儀式だった。
それを、おもしろくなさそうに見ていた葵は、
「家事もできて、庭の手入れも剣術も得意なんて、妖夢って、変なの」
ひさしぶりに、まっすぐな感情を妖夢にぶつけた。
(7)
妖夢たちは、夜明けとともに、早めの朝食を摂って屋敷を出た。
いまは冬だ。日が短いし、それに、高い木々のせいで、陽がかたむき始めると、すぐに陽の光が届かなくなってしまう。
夜の寒さも厳しく、野宿は無理だから、動き回れる時間は限られている。
(しかし、この広い山中、どこへ行ったらいいのか)
あては無いが、とりあえず三人は、山道を下ってみた。
妖夢一人だったら、気兼ね無く、あちこち走り回ることができるのだが、人間の女性を二人連れての山道歩きだから、移動速度はたかが知れている。
これでは、今日のうちに手がかりを掴むのは難しい。
「妖夢。そちらには行けないわよ」
道を外れて捜索をしてみようとした妖夢を、幽子が止めた。
「そうなんですか」
最初の一回は、気にならなかった。
しかしだ。
「そっちは行けないよ」
「そちらに行っても、なにも無いわよ」
葵まで加わって、たびたび同じことを言われて、おかしいと思った。
「二人は、山の全貌を把握しているのですか」
「そういうわけでは無いけれど……」
「行けないものは、行けないんだよ」
返ってくる応えも、あやふや。
こんなに広い山なのに、二人が、妖夢の行動範囲を限定させるものだから、なんだか一本道を歩いているような気分になってきた。
「あっ」
妖夢は、道に跡がついているのを見つけた。
「車輪の跡だな」
それは、なにかの荷物を運んでいたのであろう、車輪の跡があった。
「念のために聞くけれど、この山に、他の人間が住んでいるということは無い?」
妖夢が尋ねると、幽子と葵は、首を振って否定した。
「ということは、宮中からの荷車に違い無いな」
「でも妖夢。車輪の跡は、屋敷とはぜんぜん違う方向に……」
「うん。もしかしたらと思っていたけど、予想が当たっちゃったみたいだ」
こういう、悪い予感ほどよく当たる。
「盗賊……」
幽子に、妖夢は静かにうなずいた。
(8)
「悪く思わんでくれよ。こっちも、生きていくのに必死でな」
「冬は、なにかと実入りが少ねえからな。おかげで助かったぜ」
男たちが、火鉢を囲んで酒を呑んでいた。
数は五人。
みんな無精ひげを生やしている。
身なりはむさいし、着物は粗末なのに、毛皮を着込んでいる。
「頭。こいつらは、どうしますか?」
宮中の使用人たちは、猿ぐつわをして口を塞がれ、縄で手足を縛られていた。
土間に座らされていた人足たちを、鉈を手にした賊の一人が見下す。
「顔を見られたからには、ただでは帰せませんぜ。なに、こんなに広い山だ。どっかに埋めちまえば……」
「馬鹿野郎」
頭と呼ばれた、上等の綿入れを羽織っている男は、椀の酒を呑み干した。毛皮も綿入れも、盗品だ。
「人買いに売っぱらうに決まってるだろ。人足は高く売れるのに、やっちまうなんて、もったいねぇ」
「頭は、抜け目がねぇや」
子分たちが、がははと野太い声をあげる。
「ま、運が無かったと思って、あきらめな」
ひとたび悪道に堕ちた人間は、情け容赦が無い。
縛られた人足たちの顔に、絶望の色が浮かんだ。
がたがた。
おんぼろ小屋の戸が揺れた。
「ん?」
「風か?」
がたがた。
また戸が揺れる。
「おい。見てこい」
頭があごを振って、子分に命じた。
土間に降りた子分は、巻き割り場に突き立っていた手斧を抜いて、戸に張り付いた。
「誰かいるのか」
外に向かって声をかけ、慎重に戸を開く。
「なんだ、おまえらは……、ぐぁっ!」
鈍い音と、男が倒れこむ音が聞こえた。
頭は刀を手にし、子分たちは、鉈を取って立ち上がる。
しかし、賊どもが構えるよりも早く、それは小屋の中に飛び込んできた。
「ぐぇっ!」
「いってぇ!」
一瞬で、四人のうち二人が後頭部を殴られ、膝をついた
「葵! 人足たちを!」
棒きれを構えている女と同じくらいの背格好の女が、懐から短刀を取り出して、人足を縛っていた縄を切った。
なにか気になることでもあったのか、女は、そちらに目をとられていた。
(いまだ!)
一人だけ残っていた子分の背中を押してやった。
「う、うわっ」
子分はよろけ、前のめりになって、転ぶ。
女が、それを避けている隙に、斬りかかる。
幼いが、顔立ちは悪くない。人買いに渡せば、高値で売れそうだから、傷ものにはしたくないのだが、四の五の言っている場合では無い。
人足を助けている女が手にしている短刀は、なかなかの上物のようだし、あれで我慢することにしよう。
そんな皮算用をしていると、みぞおちに激痛が走った。
「な、に……?」
いったい、いつやられた。
たしかに、こちらが先に斬撃を繰り出したはずなのに。
「いったい、何者……」
目のまえが暗くなり、意識が途切れた。
(9)
「凄腕の用心棒?」
「は。人足どもの間では、その話でもちきりです。刀も使わずに、賊をたたきふせたそうで」
「良くないな」
表情を変えずに言う。
「どうやら、手段を選んでいる場合では無いようだ」
「そのことで、お耳に入れたいことが」
従者は、正座をしたまま、主人のほうへと体を滑らせる。
「大僧正様から、もはや読経では、霊魂を供養しきれぬとの申し出がございました」
「なんと。大僧正様でも供養しきれぬと」
「石碑から怨念が漏れ出し、右大臣様が奉納なさった桜の木に、憑依していると。このままでは、妖の桜が生まれてしまうと申されております」
「僥倖。急ぎ、主上に上奏文をしたためるとしよう」
「しかし、先の大納言の娘は、いかがいたします。約定を交わしたのでは」
扇越しに、蛇のような目で従者をにらむ。
すぐに柔和な顔つきになり。
「証文をしたためたのは、はやまったな」
右大臣は、ぱちっと音を立てて、扇を閉じる。
それがなにを意味するか、従者は良く心得ていた。