88:ただし一人に対しては分からない
普通の人間ならば前後不覚になる水流を巻き起こしながら迫る巨体、眼前に迫るのは幾重にも重なり並ぶ人の顔より巨大な牙と底の無い洞穴のような赤黒い口内。
逃げる事など出来はしない、ただ立ち尽くすしかない恐怖をしかし平然と見据えて床を蹴る。此方の水中での機動力は比べるまでもなく迫りくる鎧王鮫に劣り、寸前でもないと早めに動いたぐらいでは軌道を修正されて食いちぎられてしまうというのにその動きには一切の動揺がなかった。
掠っただけで腕が切り裂かれそうな牙が眼前の数センチ先をゴウゴウと音を立ててすれ違うのに目を向けず、手に持つ大剣を振るう。水中では酷く扱いにくいそれを力と鋭さに任せて振り抜くとバキッと鈍い音が水中に響き渡った。
「…………ッチ」
ジルは小さく舌打ちし、一瞬の内に泳ぎ抜ける鎧鮫の力強く左右に動く尾をそのまま剣でガードする。巨大な尾の衝撃は水中で支え切れるものでは無く、体が後退させられる感覚にもう一度鋭い舌打ちを零した。
鱗の一枚でも剥がしてやりたいが難しいだろう、鎧王鮫の鱗は全てが互い違いに重なり合っており決して剥がれないようになっている。だからこそそれを剥がす技術を持つ漁師の存在が必要不可欠で、その技術を絶やさぬようリゼルが配慮したのだから。
しかし破壊は不可能ではない、先程から攻撃を加えている個所には幾筋もの傷跡が刻み込まれている。半端な攻撃では傷一つ付かないような鱗だというのにそれを刻み込んだ男は、しかし不満そうにガラ悪く顔を歪めていた。
そもそも地上ならば既に鱗の一枚や二枚破壊出きている筈で、傷だけなど情けないとすら思っている。
「(体が固定出来りゃな……)」
この広い空間で鎧王鮫は壁に近付くことは無い。壁際で待機していようと当然ぶつからないよう方向転換されてしまうので大した攻撃は加えられない。
前回のように腹を晒そうにも難しく、今回は望んで一人で来たのだから「いれば良いのに」とは思わないものの相変わらず特化した強さは持たない癖に居れば酷く便利な男だと思ってしまう。戦闘でも何でも効率良く済ませるのがリゼルらしいと言えるだろう。
もし此処に居ればジル一人で戦うにしても最善の方法を助言するのだろうが、楽に勝ったのでは意味が無い。何処ぞの獣人のようにスリルを快楽に変える趣味など欠片も無いが、強さを求めるにあたって苦戦する程の強敵というのは経験するに越した事は無いのだから。
ジルは何かを考えるように視線を流し、一人で来て正解だと溜息を洩らしながら方向転換をして再び此方を向きガチガチと歯を鳴らす鎧王鮫へと視線を向ける。コポリと小さな泡がその口から漏れた。
大剣を持った左手を体の横へと下げた自然体のまま、耳に響くような歯音を聞く。
肉と鱗に覆われた尾が大きく左右へと揺れ、直後急加速して此方へ迫る巨体を見据えて小さく息を吐いた。そしてふいに右手で大振りのナイフを取り出し逆手に構え、先程と同じように噛み千切られそうな距離まで肉薄した瞬間に足に力を入れる。
すれ違い様に牙をやり過ごしていた先程と違うのは、その分厚い牙の内側へと躊躇無く右腕を突っ込んだ事だった。大きく開かれた赤黒い内側へと侵入した右手が、直後強い力で握ったナイフを口内へと突き立てる。
そんな小さな傷など鎧王鮫に対して何の影響も及ぼさないが、感じた痛みに反射的にその口は閉じられた。ガキンッとまるで重たい金属同士がぶつかったような鈍い音を立てて閉じられた牙は挟んだ物を全て破壊する力を孕む。
その牙に挟まれ折れた感覚のする己の腕をチラリと見るジルは、不快そうに微かに眉を寄せただけで余りにも普段通りだった。実際、彼が思う事など“最上級装備じゃなきゃ千切れてた”ぐらいのもので脳が焼け落ちる程の激痛などまるで気にしていない。
未だ勢いを衰える事無く泳ぎ続ける鎧王鮫は自身が獲物を咥え込んでいる事に気が付いているのだろう、その勢いのままに腕を引き千切ろうとグンッと進路を変える。
しかしガッチリと咥え込んだ腕は本来ならばとうに千切れ落ちているだろうが装備がそれを許すこと無く、ジルは己の腕が外れない事を確認して足を鎧王鮫の鱗へとかける。例え激しい水流を受けようと決して流される事のない体勢に目を細めて嗤い、強く握った大剣を傷だらけの鱗へと突き立てた。
「…………ん?」
カリリ、と用紙の上へ掠れた軌跡を残すペン先をリゼルは見た。
そしてつい直前にそのペン先を浸らせた筈のインク壺へと視線を向け、手にとって中を覗きこむ。見事にガラスの底が顔を覗かせているのを見て、どうやら無くなってしまったようだとそれを机の端へと寄せた。
まだ昼にはもう少し届かない時間、リゼルは一人机へと向かっていた。宿主に聞いた限りジルは朝焼けが残る早朝に早々に出かけてしまったようだし、イレヴンはまだ寝続けているが今日は出かけると聞いている。
ならジルはそれまでに帰って来るだろうかと何となく思いながら、リゼルは椅子へと引っかけてあるポーチへと手を伸ばした。代わりのインク瓶を求めて中を漁るその手がしばらくしてピタリと動きを止める。
「(そういえば、アスタルニアに来てから買ってなかったな)」
まだ途中なのにインクを切らせてしまったと、机の上に乗せられた書き途中の楽譜を見下ろす。それはアリムの為に作っていた教材だった。
国一番の学者という通り名は伊達では無く、決して王族を立てて言ったものでは無かった。覚えが早く聞いた事を一度で理解し、一を聞いて十を知ると言えば良いのか酷く優秀な人物だ。何より学習意欲もあるので教える側としては理想的な生徒かもしれない。
そんな彼も最近は音楽ばかりでフラストレーションが溜まっているだろうと、それと並行して古代言語の直接的な教授を始める為にリゼル自ら教材づくりをしている。何せ古代言語の教材など何処にも無いのだから仕方が無い。
とりあえずアスタルニアでは誰でも知っている有名な絵本を楽譜に直していたのだが、それも中断せざるを得ないようだ。あと少しなのに、と思いながら立ち上がる。
「(何処で売ってたっけ)」
キリ良く作りきってしまおうと、簡単に身なりを整えて出かける準備を済ませた。
店の見当を付けながら階段を下りて行く。普段行動している範囲にあるのは冒険者関係の店か飲食店、屋台ばかりなので心当たりが余り無い。
劇団“Phantasm”の公演を見に行った時の通りで見た気がする、と思いながら最後の一段を下りると丁度洗濯物の入った籠を運んでいる宿主がいた。
「どうもお出かけですか。一瞬“手伝ってくれませんかなーんちゃって”って言おうと思ったけど承諾された時の居た堪れなさを想像するだけで冷や汗かく程半端無いので止めた俺です」
「インクが切れちゃったので、買いに。ここら辺だと近くにお店ってありましたっけ」
「インクぐらいなら貸しますけど」
相変わらず色々口に出る人だと思いながら苦笑する。別に何を考えているか素直に伝えてくれるのは分かりやすいし面白いので良いのだが。
貸してくれるという言葉には首を振った。有難いので申し出を受けようと思ったが、しかしこれから頻繁に使う事になるだろうから今買っておいた方が良いだろう。
そう伝えると宿主は成程と頷いて幾つかの店を紹介してくれる。出来るだけ近場の店を紹介してくれたらしく、聞く限り一番近いのは此処からギルドを通り過ぎた先にある店だろうか。
ついでにギルドも覗いて行って依頼を眺めるのも良いかもしれない、そう思いながら宿主に礼を告げる。
「助かりました、有難うございます」
「今確実に俺は微笑みと言う名の御褒美を貰ったに違いない。そういえば獣人なお客さんってまだ起きないんですかねシーツ干したい」
「昨日は遅かったみたいだし、まだ起きないと思います」
リゼルも真夜中を過ぎるぐらいまでは読書に励んでいたが、イレヴンが帰ってきた様子は無かった。そもそも帰って来ようと音一つ無い存在に気付くことなど出来ないのだが、彼は自分が遅く帰って来た時にリゼルが起きていれば顔を出していくので昨晩も恐らく帰って来たのはリゼルが寝た後だろう。
元々朝に弱いイレヴンだ、今日はもしかしたら昼過ぎまで起きないかもしれない。起こすと冗談じゃなく殺されるしと顔を青くして残念そうな宿主にそう告げ、いってらっしゃいませと声を掛けられながらリゼルは宿を出た。
「(今日はどうしようかな)」
宿の扉を静かに閉め、強い日差しに目を伏せながら思う。
頻繁に訪れている王宮の書庫だが、元々は空いた時間にという約束だったので特に行く日も決まっていなければ行かなければならない日も無い。何故そんな約束が出来るのかと言われれば、書庫にひたすら引きこもるアリムが何時訪ねられても困らないからに他ならない。
行かなくて良いか、と歩を進めながら内心で頷く。ジルとイレヴンがリゼルを一人で王宮に行かせるのを嫌がっているのは知っているし、その上で一人で向かおうという気の回らない真似をリゼルは二人には決してしない。
頬を撫でる風に乱れた髪を耳にかけ、気になる依頼があったら一人で受けてみるのも良いかもしれないと思いながら歩いているとふいに前方から喧騒が聞こえてきた。他の道を使うにもどう考えても遠回りになるので歩みを止める事なく近付いて行くと、どうやら冒険者同士の諍いが起こっているらしい。
周りを取り囲む野次馬は遠巻きにする事無く囃し立て、流石アスタルニアだと思いながらその横を通り過ぎる。冒険者同士の言い争いというのは割と頻繁に起こるがアスタルニアでは特に頻度が高い、彼らにとってはじゃれ合っているようなものなのだろう。
「(絡まれる事はあるけど、ああいう風に……ガンの付け合い? 舐められないように上か下か争うみたいな様式美の牽制っていうのはあまり無いかも)」
二つのパーティがにらみ合い、何見てんだコラやるかコラと言い合う姿が一番多い諍いパターンの筈なんだけどと思いながら通り過ぎた背後の言い争いを考える。じゃれ合いとは言え長い上に道を塞いでいるし、これで剣を抜こうものならばギルドが黙っていないだろう。
ふいに聞こえた悲鳴と非難、そして何かが壊れる音にやってしまったようだと思っているとタイミング良く前方に立ち上る土煙が見えた。ドドドドと近付いてくる地響きと共に現れたのはスキンヘッドを輝かせた筋骨隆々なギルド職員で、その巨体に見合わぬ猛烈なスピードで迫る男は風を巻き起こしながら騒ぎの中心地へと迷うことなく突っ込んでいく。
「人様に迷惑かけるような真似はすんじゃねぇって言っただろうがクソガキ共ォォォ!!」
振り被られた筋肉の隆起する太い腕、その腕で顔を引き攣らせた冒険者達を根こそぎ跳ね飛ばす姿を足を止めて振り返りながら眺めていたリゼルが一人頷く。あれが噂の“オヤジのラリアット”、王都ではスタッドが絶対零度に粛清していたし商業国ではレイラの拳が謝罪するまで叩き込まれるらしいしでギルド職員もなかなか逞しい。
そして冒険者をひっ捕まえて説教しつつ、出してしまった被害に対する弁償まで取り仕切るのだから彼らも大変だろう。最近一番の大仕事を押し付けたリゼルは自分を棚に上げつつ心の中でギルドを労わった。
そのまま歩き続けること五分ほど、この辺りでは一番大きな建物であるギルドが見えて来る。
どうやら今日も出入り口の横には露店が開かれているらしい。冒険者の少なくなる時間帯だからか露店を覗く者は少なく、金髪を二つに結いあげた見覚えのある商人も休憩と言わんばかりに何処かで買ってきたらしい少し早目の昼食を食べながら店番をしていた。
食事の邪魔はしない方が良いかとそのままギルドへと入ろうとすると、分厚い絨毯に胡坐をかいた彼女とふいに目が合う。ホットドッグをモグモグと咥えていた商人はそれを噛み千切ってゴクリと飲み込んだ。
「何や、あんさんやないか。前は儲けさせてもらってえろう助かったわぁ」
「こんにちは」
「おん。どや、今日も良い品揃っとるで」
ニンマリと笑った商人に、ちょっと気になると思いながら扉へと向けていた足を露店へ向ける。
しゃがんで並べられた商品を見ると前とラインナップが変わっていた。消耗品や必需品などは相変わらずそのままだが、以前はハンマーや眼鏡が置いてあった所には別の便利グッズが並べられている。
売れてしまったのだろうかと思いながら何に使うか分からない巨大な針やハサミなどを手に取っていると、パパッとホットドッグを食べきって説明してくれる。どうやら両方とも魔物解体用の道具らしい。
「こういうのがあると解体しやすいんですね」
「魔物によっちゃ必須やで。蝶系魔物の燐粉採取依頼とかやと、この針使わんと逃げるか反撃食らうし」
生きたままで無いといけないから羽を固定して、でも羽ばたいてくれないと燐粉が獲れないからこの針を使って羽の動きを適度に制御しながら云々と話す商人にリゼルは以前受けた緋色蝶の燐粉採取の依頼を思い出す。
確かジルが蝶を鷲掴んでくれていたので針など使った覚えは無い。思えば相手は魔物なのだし掴んで直接採取とは行かないのだろう。何とかなったが。
そもそも解体用の道具をジル達が使う所など見た事が無い。二人ともナイフ一本で綺麗に解体してしまうし、リゼルも教わりながら解体する事があるものの他の道具の存在など知らなかった。
「他にも冒険者の必需品が目白押し! 欲しいモンがあったら何でも言いや!」
「あ、じゃあインクが欲しいんですけど」
「冒険者の必需品言うとるやろ何聞いとんねん」
無いらしい。
「でもイレヴンが前、普通なら迷宮のマッピングしながら攻略するって言ってたんですけど」
「あんさんら迷宮めっちゃ攻略してるんちゃうんかい!」
何故そんな初歩中の初歩を知らないのかと商人はバンバンと絨毯を叩きながら、やり場のない感情を発散させている。まさか目の前の品のある男の頭を引っ叩いて突っ込める訳が無い。
何やメモせんでも覚えとるんかと言いかけて、しかし商人の勘が止めた方が良いと告げる為に呑み込んだ。平然と頷かれそうで怖い。
商人は色々飛び出そうになる言葉を盛大な溜息で散らし、消耗品が並ぶ一角から数本の棒切れが束ねられた塊を持ち上げた。目の前に差し出され、リゼルがまじまじと見ると黒い棒にぐるぐると布が巻きつけられたものだ。
「迷宮ん中で一々インク壺出してペン浸して平らな場所探して書ける訳ないやろ。これや」
「あ、木炭ですね。でもこれだと、簡単な線を引くだけしか出来無さそうですけど……」
「充分やないか」
成程、これならインクが無くとも迷宮の中で使えそうだ。
ただ文字はほとんど書けそうにない。大雑把にメモ程度ならばとれるだろうが、人に読ませるような文字は間違いなく無理だろう。
そもそも冒険者が文章を書く機会など依頼で必要になった時だけで、それも滅多にある事では無いのでインクなど持っている者はいない。必要になればギルドの机に置いてあるのでそこで四苦八苦しながら慣れない手つきで使うのみだ。
「インクなんて何に使うねん、あんさん冒険者やんな。見えへんけど」
「ちょっと今、どうしても必要な楽譜を作っていて」
ひくりと商人の口が引き攣った。
それと同時にバタンッとギルドの扉が開き小さな影が転がり出てくる。半泣きになりながら出てきた見る限り幼い少女は、つい先日リゼル達が顔を合わせたばかりの人物だった。
「わぁぁん! やっぱり厳つくて怖い人ばっかかな! 今まで冒険者なんて近付いた事なかったけど穏やかで品の良いお兄さん系の冒険者さんに会ったし、冒険者の中にもこんな人がいるなら怖く無いかなって思ったのに!」
「こんなんがホイホイいて堪るかっちゅうねんボケェ!!」
「うわぁぁぁん! 知らない女の子にまで怒られたかなって!!」
混乱し過ぎて訳が分からなくなっている小説家にリゼルは苦笑しながら立ち上がり、一杯一杯で涙すら滲んだ相手にハンカチを差し出す。礼を言いながら差し出されるままにそれを受け取り、グスグスと鼻を鳴らしながら顔に押し付けた小説家は直後ピシリと動きを止めた。
顔を覆ったハンカチからそろそろと瞳を覗かせ、こちらを見上げる相手を落ち着けるように微笑んでみせる。恐らく状況的に小説家として冒険者という職に前々から興味があったものの怖くて近寄れない中でリゼルに出会い、恐ろしいイメージの無い彼の姿に意外と冒険者って怖く無いのかもと思い始めていたのだろう。
そして勇気を出して取材か何かを取り付ける為にギルドへと突入していたらしい。アスタルニアの冒険者を思えば少女にしか見えない幼い見た目の彼女が盛大にはやし立てられたのは想像に難く無く、団長のように啖呵を切る事も出来ない彼女が怯えて飛び出して来て今に至るのか。
「大丈夫ですか、何かされました?」
ならば責任の一端が自分にある、とまでは思わないが悪いなとは思ってしまう。
低い背丈に合わせるように屈んで少しだけ首を傾けて問いかけると、どうやら唖然としていたらしい彼女が目を見開いた。
「び、びっくりしたかなって」
「すみません」
「う、ううん、君の所為じゃないかなって……あ、これ、有難う。洗って返すね」
「良いですよ」
どうやら落ち着いたらしい相手にリゼルは背筋を伸ばす。相変わらず見下ろす姿はただの幼い少女にしか見えないが、これで年齢的には同じぐらいだと言うのだから違和感が酷い。
洗って返すと言いながら仕舞われようとするハンカチをさり気なく奪い、ポーチへと仕舞いながらリゼルが隣を見ると何故か全力で胡散臭そうに此方を見上げる商人が目に入った。
「……ロリコンやったんか」
「依頼を受けた事がある依頼人の方ですよ」
「冗談やて、冗談。てか幼女が依頼人って何やねん」
「君より確実に年上かなって!」
やはり一目で彼女の実年齢を知るのは難しいようだと頷き、嘘だ嘘じゃないのやり取りをしている二人を眺める。商売で各地を回る商人ならば色々と面白い話を知っているだろう、小説家にとっては良い出会いになりそうだ。
先程の冒険者達に比べ威勢は良いものの随分と可愛らしい言い争いをしている二人を苦笑しながら止めて、とりあえずリゼルから両者の紹介をする。紹介と言っても何を知っている訳でもないが、無いよりマシだろう。
商人は小説家だという紹介を聞き、ほうと感心したように目を瞬いた。
「何や、あの恋愛小説で有名な奴やったんか。他の国であんま見ぃひんジャンルやし、仕入れて他で売ったろかって話もウチらん中で出とるで」
「たくさん買ってくれるのは嬉しいけど、あまり多過ぎると早めに注文しなきゃ難しいかなって。本用の複写魔道具、この前一台壊れたって聞いたから」
「マジかい。伝えとくわ」
流れの商人グループのトップに、という事だろう。こちらの本の製作過程も一度見てみたいと思っていたが、魔道具を使用する点は元の世界と同じだし余り変わらないようだ。
作者が物語を書き、文字書きのプロが清書した文字が読者の目にする文字となる。そして魔道具に一ページを置くとセットしてある何百枚の用紙に複写が始まり、それを繰り返して全ページを作り上げる。
あとは手作業で本の形に整えるだけだが、手間を考えれば全行程にそれなりの時間がかかってしまうのも仕方が無い。それよりも複写魔道具は希少なので人気がある本にばかり使われ、モノによってはほとんど作られないのがリゼルにとって残念だ。
「それで、小説家さんがギルドに来たのはやっぱり取材ですか?」
「あ、そうそう。前から冒険者モノも書きたいかなって思ってたんだけど、やっぱり怖いかなって」
前髪を整えながらそう告げる小説家に、商人は訳が分からないとばかりに顔を顰める。
「あんなん脳筋ばっかやで、絡まれても軽く流しときゃ良いねん」
「それが出来たら苦労しないかなって」
「何や、小説では男転がす女ばっか書いとる癖にその作者は出来んのかい」
身も蓋も無い。
恋愛小説を読んだ年頃の少女から出る感想では無いが、ここらへんに商人としての現実主義が出ているのだろうか。そう思ってみればジャッジも時折そんな顔を覗かせていた気がする、とリゼルは意外と商人としては強かだった気弱な青年を思い出す。
「今まで文字が友達だった女の対異性スキルの低さ舐めないで欲しいかな! 冒険者って活動的っていうか目立つ人種っていうか接するにはハードル高すぎると思うかなって!」
「何でそこまでテンパっとんねん!」
必死過ぎる小説家に若干引きながら商人は形ばかりの謝罪を口にして落ち着かせた。商人として人と関わる事に慣れている彼女には目の前の見た目少女の言葉はいまいち理解が出来ない。
「取材交渉しにいったら怖い職員がいるし……その人もなんか途中で“道端で冒険者が暴れてる”とか苦情みたいなの聞いたらちょっと待っててくれって言いながら凄い勢いでギルド飛び出してくし……残された私の心細さ! 子供が何しに来たって囃し立てられた恐怖! 向けられる獰猛な男の視線! どれだけ私が怖かったか分かるかなって!!」
「アンタの方が怖いわボケェ!!」
血走った眼で自らの恐怖を語る小説家の頭に、パシーンッと商人の突っ込みが入る。
どうやら先程目撃した一件が関係していたようだ。恐らくアスタルニアギルド職員の中でも一、二を争う人相の悪い職員に交渉しに行ったあたり相当頑張ったのだろうと想像がつく。
避けてもどうせ彼に話が行くのだから結局は強面相手に交渉しなければいけないのだが、と思いながらリゼルは苦笑した。そこまで頑張ったのだから成果無く帰るのは残念極まりないだろう。
「今から少しギルドを覗いて行くんですけど、小説家さんもどうですか」
「え、あのあの、良いのかな……!」
「あー、せやせや。甘えとき」
シッシッと追い払う様に手を振る商人に見送られ、礼を言ったリゼルはギルドの扉を開けた。その後ろに小説家も続く。
混む時間帯では無いものの常に人の絶えないギルド内にいる冒険者らから、扉が開いた事で反射的に向けられた視線が集まる。彼らはリゼルの姿を見てこの人結構一人で来るよなと思いながら視線を外し、しかし再び勢い良くそちらを向いてポカンと口を開ける。
リゼルの腰の後ろから顔を出した小説家は集まる視線に口を引き攣らせるものの、平然とギルドの中へと入って行くリゼルに慌ててその後に続いた。
「あれが依頼ボードです、左に行くにつれてランクの高い依頼が貼ってあります。低ランクとか見てて面白いですよ」
「へ、へぇ……」
「その横にあるのが警告ボードです、魔物の異常発生やスポットなどの危険な場所を知らせてくれます。最近魔力溜まりが遠ざかってるので体が楽ですね」
「ほ、ほほう……」
「幾つか置いてある机は冒険者が自由に使って良いもので、依頼前の打ち合わせや暇つぶしなんかに使われます。俺も腕相撲をしたりしました」
「べ、便利ー……」
冒険者達はほのほの笑いながら案内するリゼルを見て、訳が分からないままにとりあえず何でお前が冒険者を代表するように語っているんだと心の中で盛大に突っ込んだ。
確かに説明は間違っていない。間違っていないが、釈然としない。やり場のない思いにもどかしげな周囲を気にせず、リゼルは説明をしながらスタスタと依頼ボードへと近付いて行く。
「俺は予定通り依頼を眺めてるので、その間ギルド内を見学……は一人じゃやりづらいかな。冒険者の方に話でも聞いてみると参考になるかもしれませんよ」
「それが出来たら苦労しないかなって!」
小説家としてギルドの取材許可を得るのは今この場では難しいだろう。
ギルド長もいなければ取り仕切るナンバーツーもいない。それは後日改めてやるしかないが、冒険者ものを書くなら色々な冒険者に話を聞いておいて損は無い筈だ。
そう思って提案してみたのだが、やはり自力では無理そうだ。見下ろすと、冷や汗が凄い事になっている。
かといって依頼を眺めている間、自分の後ろで立っているのも詰まらないだろう。何より女性を放っておくのはリゼルとしては避けたい。
「じゃあ……あ」
どうしようか、とギルド内を見回したリゼルがとある一人の冒険者を見つけて微笑んだ。
視線の先にいたのは団長が演じる魔王に恋するという修羅の道を選んだ冒険者で、目が合った彼は盛大に顔を引き攣らせながら固まっている。何故依頼後にさっさと帰ってしまわなかったのか。いや報酬受け渡しに少しばかり時間が必要で、それだけなら一人で大丈夫だと他のパーティを帰らせて自身だけで待っていたからなのだが。
彼はバッと依頼受付のカウンターへと視線を向けたが、報酬の用意はまだ出来そうに無い。今回の報酬が納品の三割という特殊なもので無ければ即行終わったものをと思わずにはいられない。
「こんにちは、良く会いますね」
「お、おう」
近付いてきたリゼルに、男は返事をしながら頷いた。
別に目の前の品が良い男が嫌いな訳でも苦手な訳でも無い。むしろ想い人の情報をくれる貴重な人物であるし、目の前に立たれるだけで怯んでしまう空気を持つ一刀や嘲笑を隠そうともしないくせに興味が無いと態度で訴える獣人がいないならば人当たりも良いし比較的話しやすいと言っても良い。
だが、穏やかな癖にやる事なす事の予想がつかないので構えてしまうのだ。特に今日など後ろに少女を連れているのが意味不明な上に、むしろ先程少女一人の時に周りと一緒に野次っちゃったんですけどと嫌な感じにドキドキする。
「君にお願いがあります」
「何だよ……」
「彼女は作家をしているんですが、今度冒険者を題材とした話を書きたいそうなんです。それで少し話を聞かせてあげて欲しくて」
にこり、と微笑んだリゼルに言われた言葉の意味が分からないと男は唖然とする。
そして冒険者・職員問わずほとんどの視線がリゼル達へと好奇を含んで向けられている中、平然と話を始めるリゼルへと尊敬の眼差しを送っていた小説家もマジかという目でリゼルを見た。そのまま必死に小声でリゼルへと呼びかける。
「ちょ、ちょっと待って欲しいかな!」
「どうしました?」
「あのあの、冒険者と話せるのは凄く嬉しいんだけど! それはもう嬉しいんだけど! もっとほら、他にも大人な人いるし、こんないかにもヤンチャな子はちょっとやりにくいかなって……!」
男に丸聞こえだった。
彼は確かに道でたむろっていても可笑しくは無いし、リゼルより年下だろうがヤンチャという表現では可愛すぎるだろう風貌もしている。冒険者の中では珍しくは無いが、冒険者と全く関わりなど持った事が無い人々にとっては話しかけづらいかもしれない。
しかしヤンチャって……と複雑そうな男を横目に、リゼルは不思議そうに小説家を見下ろした。
「ジルとかイレヴンとかは平気でしたよね?」
「あれはだって依頼だったし、あの子の紹介だったなら悪い人じゃないし、話し合いが前提で準備が整ってるなら私だって取材として普通に話せるかなって」
「ジル、凄くガラが悪いじゃないですか」
「でもいきなりザクッと襲われる事を心配するようなガラの悪さじゃないかなって!」
確かにと頷くリゼルを、小説家はそわそわと前髪を直しながら上目で窺う。
「えっと、迷惑かけたい訳じゃないかな。ギルドの中を見てるだけで充分だし、気にしないで貰えれば良いかなって」
「大丈夫、迷惑なんて思ってませんよ」
微笑み、あまり良い真似では無いけど秘密と言われた事も無いしと思いながら身をかがめる。
「彼が怖くなくなる秘密、教えてあげます」
内緒話をするように近付いた顔に、小説家はそんなものがあるのかと耳を澄ます。
真っ直ぐに見上げた顔は変わらず穏やかに笑みを浮かべていて、こういう人が怒った時はどうなるのだろうと考えてしまうのは小説家としての性なのか。自分ならとにかく相手を叩いて踏んで泣くまで責めて欲しいと思いながら聞いた“秘密”は衝撃的すぎて色々なネタが頭の中から飛んで行った。
「彼が今惹かれているのは団長さん演じる魔王様、です」
「ぶっふ!!」
突如盛大に噴き出した小説家に男はビクリと肩を揺らした。ちなみに彼はその秘密が未だに誰にもバレていないと思っている。
ぷるぷると肩を震わせる彼女を見下ろし、どうやら恐怖は消えたようだとリゼルは男を向いた。
「という訳で、お願いしますね」
「いやさっきそいつ俺のこと結構散々言ってたぞ! それにガキの相手なんざした事ねぇしよ!」
「ガキなんて失礼ですよ、君より年上の女性に対して」
ギルドから一切の音が消えた。
幸いな事に未だ笑いを堪えるのに必死な小説家は気付かなかったようだ。気付いていたら音など無いと言うのに喧しいと声を張り上げていたかもしれない。
「それに、ほら」
今度こそ完全に固まった男に悪戯っぽく笑みを浮かべて、リゼルは周りには聞こえない声で囁いた。
「魔王役の子の友人です。親切にしておいて、損は無いと思いますけど」
「何でも聞けよお姉さん!」
「お、お姉さん……!」
張り切りきった声に感動を含む声が返されるのを聞き、良かった良かったとリゼルは頷いた。そして椅子を引いて小説家を座らせると、さてと依頼ボードへと歩き去って行く。
後に残された二人が意気揚々と話す声と、ざわめきを取り戻した周囲が嘘だ嘘だと騒ぐ声を聞きながら何か良い依頼が無いかとリゼルはボードを見上げて髪を耳へとかけた。
「ッあー……うっぜ」
夕焼けで赤く染まる海の上を滑るように進む小舟の上で、ふらつく事無く立っていたイレヴンは鬱陶しそうに呟いた。濡れた髪と服が重く、以前ならばリゼルが風の魔法でバッと乾かしてくれたのにと舌打ちしながら髪をまとめている紐を抜く。
水分で纏まりきった髪は下ろそうと潮風に揺れる事など無く、水分を含みきって頭が仰向けになりそうな程の重さにこういう時が不便だと赤さを増した髪をまとめて掴んで絞った。ボトボトと船底に落ちる滴を見下ろし、取り出したタオルでガシガシと簡単に拭けば先程よりも随分とマシになる。
長い髪を再び結うと今度は上着を脱いだ。先程までは随分と世話になった装備だが今はもう張り付いて気持ち悪いだけで、絞っては空間魔法に放り込んでいく。
最後の一枚だけは絞った後に再び着直したが。どうせ新しい服を出しても肌が湿っているのだから同じだ、絞れば大分マシになる最上級装備の方がまだ着心地が良いだろう。
小舟がゆっくりと港へと近付いて行く。代金は前払いなので問題が無い、とばかりにイレヴンは船がある程度桟橋へと近付いたら船底を蹴って港へと飛び移ってしまった。
後ろから感心したような船頭の声が聞こえたが気になどせず、漁から帰って来た漁師に溢れる港でぐるりと周りを見渡す。
「みっけ」
港の一角にある人だかりにギリギリ見覚えのある顔を見つけ、湿った前髪を掻き上げながら軽い足取りで近付いて行った。以前のように数日潜りっぱなしでは無かったので、多少はダルいもののそれ程でも無い。
「なァ」
「あ? あぁ、冒険者殿」
人だかりを掻き分けた先にいたのは以前リゼルが鎧王鮫の解体を頼んだ漁師達の内の若い一人だった。何やら驚いたように此方を見る様子に構わず、ごそりと空間魔法の中に手を突っ込む。
そしてグッと腕に力を込めて目当てのものを引き摺り出した。
「これ、前みたいに素材だけ取って」
「ど、え、ど、どう、これ、え?」
「あ、一応言っとくけど肉は食えねぇから。俺の毒入ってっし、すっげぇキツイの」
人だかりから驚愕とも歓声ともとれる悲鳴が上がる。
引きずり出されたのは人込みまで呑み込まんばかりの巨体を持つ鎧王鮫だった。ピクリとも動かないが圧倒的な存在感を放つそれの登場に、港は既に半狂乱へと陥っている。
それもそうだろう。何せ一生に一度も見る事が無かった筈の鎧王鮫が以前から全く間をおかず、目の前に二匹も並べられているのだから。
「お、親父ィ!」
「呼ばなくても見えてんだよバカ野郎!」
巨大な作業台の上に横たわる鎧王鮫の上で巨大な解体包丁を振るう、老いても尚屈強な肉体を持つ熟練の漁師が怒鳴る様に声を張り上げた。しかしその声に怒りは一切無く、溢れんばかりの称賛と歓喜が含まれている。
「おい冒険者殿、肉が食えねぇならコイツの後で良いなァ!」
「は? あんまり遅ぇと忘れんだけど」
「そんなには待たさねぇよ! ハッ、てめぇらのパーティは一体どうなってやがる。あんま伝説の魔物量産されっと贅沢になっていけねぇなぁ!」
バキンッという破壊音と共に鱗がめくれ上がった。漁師は次々と作業員に指示を出しながらイレヴンを見下ろす。
「これやっぱニィサンの? 取り分は?」
「素材と前と同じ分の肉っつってたぜ」
「やり、食えんじゃん。じゃあ俺の後で良いからさっさとそっち捌いて」
聞いておいて何だが、あれだけリゼルが美味しそうに食べていたものをジルが要求しない筈が無いだろう。何せ大して大食らいでもない癖にジルやイレヴンと一緒に食べ続け、体調管理は徹底している彼が翌日お腹が痛いとベッドで丸まっていた。
出来るだけ新鮮な内に食べたいという欲求のままに先程の意見を覆すと、任せろと漁師がイレヴンの分の鎧王鮫を運び出すよう指示を出す。あれ程の美味ならば毒があろうときっと大した事が無い、と根拠も無く希望を持って手を出す者がいるかも知れない為に保管にも慎重さも増す。
言いたい事は言ったイレヴンはもはや興味が無さそうに、人々から向けられる視線を気にせず踵を返して港から去って行った。
夕食時、各自行動していたにも拘らず自然と揃った三人は宿で食事をとっていた。
宿主から続々運ばれてくる今夜の夕食へと手を付けながら何となく今日あった事を話し合っている。
「それでリーダー、インク買えたんスか」
「はい、小説家さんから良い店を紹介して貰ったので。色々な種類のインクがあって面白かったです」
「違いなんて無ぇだろ」
「ありますよ。書き味が違います」
良いインクは良く伸びて滑らかに、と語るリゼルには悪いがジルもイレヴンも全く理解が出来ない。ペンを握る事が皆無とは言わないものの、恐らくどのインクを使おうとも良し悪しなど分からないだろう。
「イレヴンは怪我とか大丈夫ですか?」
「足一本潰されたぐらい。ニィサンよか相性良いし」
ジルが腕一本負傷したと聞いていたが、同じ相手に捨て身なイレヴンが同じような被害というならばやはり相性の問題なのだろう。ジルの大剣はとにかく水中では使いにくく、そしてイレヴンは毒が効く相手じゃなければより苦戦していた筈だ。
「でも毒、効くんですね。それなら倒せる人もいそうですけど」
「無理無理、どんだけ凄ぇの大量に使ったと思ってんスか。それに俺はそれ用のナイフ持ってっけど、あんだけの毒使おうと思ったら水中だと使った人間が死ぬ方が早ぇし」
「あまりそういった不自由は無かったですけど、やっぱり水中ですもんね」
襲いかかる魔物を倒そうと溢れる血は流れ出て漂うだけで広がる事は無かった。だからこそ失念していたが、縦横無尽に動き回る鎧王鮫にかき回され続ける水中で毒を使えば確実に自らも食らってしまうだろう。
それ用の武器、と聞いて興味を持ったジルがイレヴンに毒が内蔵出来るナイフを見せて貰っているのを見ながらリゼルはシチューを口に含んだ。しかし潰れただのブチ折れただの平然と言えるのが凄い。
そして確実に此方がその程度は負傷するような相手だと分かっているのに、例え回復薬を備えていようとわざわざ向かう事などリゼルには決して出来ない。痛みを耐える事は出来るが痛いものは痛い。
「痛いのが平気って分かんないです。二人とも、もしかしたら意外とマ」
「おっと皿を落としてしまった何か良くわからんけど凄いファインプレーした気がするナイス俺」
「っ気があるかもしれません」
冗談で告げた言葉は宿主の落とした皿が割れる音に遮られジルとイレヴンにしか届かず、盛大に嫌そうな顔をされたリゼルはやっぱり無いかと納得したように頷いた。