喰み出した野獣、刃乱した除者⑬
ひゅおう――潮の香りを載せた風がひとつ吹き抜けた。
対峙する小さき少女の影と、すらりとした優男の影。
彼らは確かに、同胞だった。しかしここに来て両者は互いに確信する。
決別せざるを得ないと、心に決める。
「……山犬」
先に口を開いたのは天だった。冷めた目で見詰める少女は「何?」と促す。
「神殺しは託しました。賤方はフリュドリィス女王国での任を最後に、自らの命題を棄却します」
山犬がそれを受けて返した言葉は、「あ」と「そ」の二音だけだった。
「せめてもの償いに、今夜の警備は賤方が担当しましょう」
「いーよ別に、気を使わなくても。どーせやること他に無いんだから」
「そうですか。では……」
そうして踵を返そうと重心を移動させたところで、二基は同時に気付く。
天は屋上の縁が接する水面に、ばっと振り向いた山犬は星の瞬く夜空に。
それぞれが目を見開いて、その襲来を睨み付けた。
「天ちゃん、皆を起こして! 戦闘要員は寄越して!」
「一人で平気ですか?」
「煩いなぁ、まだ同胞だと思ってくれてるなら信頼してよ」
「……分かりました。今しばらく時間をいただきます」
そして踵を返すや否や、天は健脚を以て階段を飛び降りる。踊り場から踊り場へとひとっ跳びに墜落し、勢いを殺さぬため壁をも蹴って疾駆する。
ガチン――人造霊脊を円転させ、666にも999にも即時変身できるように身構えた山犬の双眸は、その三体の影を捉えた。
ざぱりと水から上がってきた天使が一人。
ふわりと空から舞い降りた天使が二人。
水色や青、藍や紺と青系統の配色を持つ一人はまるで天のような綺麗な顔をしている。佇まいも静かでどちらかと言えばたおやかだ。
黄味の強い金髪に琥珀色や茶色といった黄系統の配色を持つ一人は山犬に似ていた。パリパリと紫電を纏い、性根の曲がった悪童のように口角を上げる様もまたそっくりだ。
燃えるような赤と血のような紅といった赤系統の配色を持つ一人はノヱルに似ていた。すらりとしているが彼に比べてやや筋肉質で、剛毅そうな印象を受ける。
そして目を見張ったのは、それぞれが背に有する翼の数――四対八枚という脅威的な数。
頭上に冠する光輪の形状すら、もはや王冠を超えた幾何学模様の塊だ。
「お初お目にかかります。ワタシは神の洪水、与えられし位階は智天使」
「やっほーお初ー! ボクは神の雷電、貰った位階は智天使」
「初めましてと言っておく。オレは神の蝗軍、賜った位階は智天使」
「……これはどうもご丁寧に。山犬ちゃんだよ」
目で、耳で、鼻で、舌で、そして肌で解る、その強大さ。
凶悪なまでの強さを感じ取った山犬は、だからこそ退けないと悟り、防御に徹するか否かを思考した。
【神殺す獣】では駄目だ、とても勝ち目は無いだろう。だからこの場は【饕餮】で凌ぐしかない。
しかし、天は別として、エディや調査隊の面々の攻撃は果たして通るのか? 悪戯に被害を出すだけじゃないのか? 山犬の脳裏では様々な形の疑問符が踊り出ては溢れていく。
だが迷っている暇はない。その時間はそのまま隙となる――それを本能で理解しているからこそ、山犬は円転させた人造霊脊に霊銀を通し、喉に収まったリング状の魔術式を全身に裏返して施す。
山犬の変身魔術の一つ、【饕餮】はあらゆる攻撃を喰らい、それを自らの動力へと転換する最強の盾だ。
いくら高位の天使とはいえ、その盾を貫くことは出来なかったのだろう。
だからその対処法とは――盾を構える前に、貫くこと。
「ずどーん!」
山犬は目を見開いて驚愕した。
ぱりぱりと紫電を纏っていた黄色い少年天使の突撃を、視認することが出来なかったのだ。
気付けば雷を纏った身体は彼女を置き去って遥か後方へと移動を完遂しており、そして山犬の豊かな胸の狭間には天使の拳ひとつ分の穴が空いていた。
すでに【饕餮】は発動されている。しかし発動から効果が及ぶまでにはほんの少しのタイムラグがある。
効果のあるなしに関わらず、発動してしまえば山犬は【饕餮】が切れるまでの間、自動的に再生するという機能を失う。当然だ、全ての攻撃を無に帰し吸収するのだから。
だから、その穴は自動的には塞がらず――間の抜けたように、山犬の矮躯がどさりと石床に伏したところで、漸く彼女の全身は魔術式を纏って黒く変色した。そして、使用者の意思の欠如によってすぐに解かれることになる。
「何だよぉ、全然手応え無いじゃんかぁ」
まるで山犬のような口調で、少年天使は愚痴を零す。
「神の雷電、無理もありません。所詮はヒトに創られた紛い物の命。神に創られたワレワレには到底及びませんよ」
「ああ、神の洪水の言うとおりだぜ。で? ソイツの身体を持ち帰ればいいんだっけか?」
赤い天使が短く生え揃い整えられた顎髭を摩る。
「神に賜ったのは、愚劣にも自らを“神殺し”と宣う下賤を一人……この少女でいいでしょう」
「確かにこいつは、こんな形して同胞をたらふく食っていやがったな」
「ええ? あの大きな赤い狼ってこの子なの!?」
「神の雷電、アナタは“神の眼”の同期データをちゃんと確認していないのですか?」
「えー、だってやたら冗長なだけで面白くないじゃんか」
黄色い少年天使があからさまな溜息を吐く。それに肩を竦めたもう二人の天使は、互いに顔を見合わせ、仕方が無いと言う風にやはり溜息を吐いた。
「神の蝗軍、お願いしてもいいですか?」
「ああ。って言うか元からオレの仕事だったろうがよ」
倒れ伏した少女の身体に手を差し向けた赤い屈強な天使。その腕が末端から分解されていき、迸る炎は紅蓮の色をした蝗の群れへと形を変える。
「さぁ、愚図愚図しているとカレラがやって来ますよ」
「で? 誰が残るんだ? オレは運ぶ役割があるから無理だけどよ」
「一応、身体を一割程度残せばアナタにも務まるんですけどね?」
「こいつより強い奴がいるんだったらボク残りたいけど?」
「どうですかね……一応、蒼い髪をした剣士も相当の手練れのようですが……ワタシには通用しないと思います」
紅蓮の蝗たちが山犬の身体に纏わりつき、その翅をはためかせて宙に浮かす。
移送の準備が整ったその時、屋上に彼らは現れた。
「お待ちなさい」
先陣を切ったのは天。その後ろには、すでに戦闘準備を整え終えた調査団の六人。
そして水面からざぱりと、天使たちを取り囲むように屋上へと上がった沈む人族の戦士が八人。
三対十四――しかし天使たちは周囲を見渡し、それぞれが呆れた顔を見せた。
「この程度の軍勢で勝てるとでも思われているのでしょうか……甚だ、愚かしいとしか……」
「何だよ何だよこんなもんかぁ……やっぱりとっとと帰っておけば良かったぁ」
「ふん、これなら一割残すどころか、一分で十分じゃないか? なぁ?」
彼ら智天使たちにどのような機能があるかは判らないが、彼らは明らかに戦場に立った戦士たちの顔を見てそのように嘲ている。
そして宙には、紅い羽虫を纏って宙に浮かぶ山犬の意識ないだらりとした身体があり、エディはそれを見て口調を荒げた。