45.空き巣
「疲れた……」
もうすぐ杏実のアパートだ。時間を確認しようと、携帯をカバンから取り出す
時刻はPM4時を過ぎたころだった
今日は朝から熱っぽかった。午後からさらに寒気があり、身体もだるくなってきたので、仕事を早退させてもらって帰ってきたのだ
トボトボとした足取りで歩きながら、さらに携帯のメール画面を開く
あれから三日
初日に颯人にメールして以来、杏実はメールを送れずにいる。何か送ってみようか……と何度携帯を取り出したかしれない。でもいざ送ろうと思うと、仕事と家の往復では、送るような内容も無く……何一つ浮かんでこなかった
もちろん颯人からメールが来ることはない
「はぁ……」
熱のせいか、その事実によるものか、杏実は短くため息をついた
門を入って、杏実の部屋の前に来る。いつものようにカバンから鍵を取り出そうとして、妙な違和感を感じた
―――――――部屋の明かりがついていた
あれ?
出るときに確認したはずだ。すでに熱っぽかったので、見落としたのだろうか
怪訝に思いながら、ドアに鍵を差す
「え?」
鍵は開いていた
そんなはずはない。さすがに鍵を掛け忘れることはないはずだ
どくんっ
心臓が嫌な音を立てた
まさか……いや……そんなわけない
嫌な言葉が脳裏に浮かび、すぐに首を振って否定する。杏実は震える身体を抑え込み、そっとドアノブに手をかけた
大きすぎる心臓の音に、周囲の音が聞こえなくなった
そして―――――――ゆっくりとドアノブを回した
ドアノブは音もなく回転し、杏実は鍵が開いているのを改めて確認する
怖い……
その思いを打消し、ゆっくりとドアを開けた
杏実の部屋は1K。ドアを開けるとたちまちに部屋の中が見渡せる
休日にきちんと整理したはずの部屋は荒らされていた。たんすの引き出しが開いている。部屋の中は、杏実の下着やスカートが、いたるところに散らばっていた
そしてキッチンの先――――――ベットの上には男の人と思われる大きな巨体が寝そべっていた
ひゅ……
その姿を確認したとき、恐怖で喉の奥が鳴った
その男は杏実のベットに仰向けになりながら、顔や身体の上に杏実の服や下着を乗せ、その匂いに酔いしれるように「はぁぁ……」と息を吐いた
その手の中には、杏実が昨日洗濯籠に入れていたはずのショーツが握られている……そしてなぜか床に、その男のズボンと思われるものが置かれていた
その男の奇行、自分の物がその男の手の中にあるのだという気持ち悪さに、吐き気がする
しかし恐怖で声が出なかった
その時、何か気配を感じたのか、目を下着で覆っていた男の身体が動いた
杏実はビクッとして、大きく身体を揺らす。その拍子に持っていたカバンが杏実の手から滑り落ちた
ガシャーン……!
大きな音がして、杏実のカバンが床に落ちる。その衝撃にカバンの中の財布や化粧品が、玄関に散らばった
「誰だ!!!」
その音にベットの男が勢いよく起き上がる
低くざらついた声だった
一瞬その男と視線が合う。恐怖に目に涙が浮かび、顔は確認できない。しかしぼんやりと、口の周りにひげが生えているやせ形の男だという事はわかった
男が起き上がってこようと、さらに身体を動かした
怖い……誰か……!!!
首を回し周囲を見渡すが、人影は認めない
逃げなきゃ……
それだけはわかった
杏実はとっさに震えてすくむ足を、こぶしで一度大きく叩き、必死で踵を返すと、全速力でアパートを飛び出した
「はぁ………はぁ……」
後ろは振り向かなかった。必死で人通りの多い通りを目指す。依然続く恐怖に、自分の息遣いしか聞こえなかった
ようやく繁華街についた。人の多さにホッとして速度を緩める
恐る恐る後ろを振り返ったが、先ほどの男が追いかけてくる様子は確認できなかった。とりあえず落ち着こうと、その場で大きく深呼吸をした
ずいぶん長い間走っていた気がする
しかしアパートから繁華街までせいぜい500メートルほどだ。――――――杏実にはすごく長い時間に思えた
「痛っ……」
我に返ると、足の踵に痛みを感じた。パンプスで全力疾走したために、靴擦れをおこしたようだ
髪も汗で濡れてぼさぼさになっていた
ふと腕を見ると、カバンがない
そう思って……当たり前だと思い出す。あの時落としたのだ。左手に無意識に握っていた携帯以外、杏実は何も持っていなかった
これからどうしよう……
アパートに帰ることは到底考えられなかった
とにかくまだ神経が興奮していて、まともに何も考えられない
「あ……警察!」
ふとそう思いつき、杏実は駅前の交番まで歩くことにした
歩きながら………ようやく興奮が収まり冷静に考えられるようになってきた
――――――あの男の人は例の空き巣に違いない
今回の空き巣は、女の人の部屋だけを狙った犯行だということだった……鍵もかけていたにかかわらず。きっとその住民の帰宅時間も入念に調べていたのだろう
今まで誰も遭遇したことが無いということだったが、今日杏実は仕事を早退し、いつもより早く帰ってきたのだ………そのため皮肉にも遭遇することとなったのだろう
今回の件において、杏実は重要な目撃者という事になる。思い出すだけで吐き気がしそうだったが、犯人逮捕のため協力することとなるだろう
交番に着いた。思い切ってドアを開ける。しかし………部屋の中は空っぽだった
ちょっと拍子抜けする
机の上に札があり「パトロール中。御用の方は手帳に記載の上、○に電話してください」と書いてあった
仕方なく杏実はその電話のところまで歩いていき、受話器を取った
しかしボタンを押そうとした時、ハッとする
先に警察に連絡しても大丈夫だろうか?
ここで警察に事情を説明すれば、部屋を確認しに警官とアパートに帰ることになる
警察沙汰になれば、大事だとアパートの住人や近所の話題になるだろう。しかし大家は常にアパートにはいないので、事態は後で知ることになる。そうなると大家さんに迷惑がかかってしまうかもしれない
この危機的状況に及んで……どうしようかと迷う
しかし杏実のことをとても気にかけてくれている大家さんだ……迷惑をかけるのは申し訳なく思った
やっぱり警察よりも先に大家さんに連絡しよう。たぶんもう犯人は杏実の部屋から逃げているだろうし、今交番には誰もいない。多少通報の時間が前後しようとあまり支障がない気がする。大家さんに報告した後、警察に連絡すればいい
そう思って交番から出る。そして少し歩いて近くの生垣に座ると携帯を開いた
そして……再びハッとした
大家さんの番号は携帯に入れていないのだ。家電の横の手帳にメモしてある
「はぁ……」
八方ふさがりの状況に、ため息をついた。交番は目の前だったが、今は大家さんより先に話そうとは思えなかった
もう犯人はいないと思っても、一人でアパートに帰るのは怖い
どこかで待ち伏せされているかもしれない
どこへ行こう……
その時、ふと―――――颯人のことを思い出した
「何かあれば遠慮なく連絡しろ」と言っていたのを思い出したのだ
きっと颯人ならアパートまで一緒に帰ってくれるだろう。そう思い立って、急いで通話ボタンを押した
るるるるるるるる…
呼び出し音が鳴る。しかし2コールが終わったとき―――――ハッとして電話を切った
今の時間はPM5時前だ……まだ就業時間だろう。こんな時間に連絡すれば迷惑に当たる。急いで「間違えました、なんでもありません」とメールしておいた
「はあ…………」
再びため息をつく
圭のところへ行こうかと思った。しかし定期も財布も持っていない。ここから5駅も離れているホームに自力で行くのは無理だ
それに……行けばきっとすごく心配をかけてしまうだろう
電話で事情を話すのも、余計にやきもきさせるだけだと思い、連絡するのも止めた
誰も頼れないと思った
家を飛び出して新しい土地で8年。初めて心から孤独だと思った……
当てもなく立ち上がる
どこへ行くか………決めていない
どこへも行くところなんてない
杏実は当てもなくゆっくりと歩き始めた