episode.32 すぐには変われないけれど
「そうだ!」
私はゼーレのことを思い出し、トリスタンから一旦離れる。そしてゼーレの前へしゃがみ込み、声をかける。
「大丈夫?」
「恩を売るのが好きですねぇ」
俯いたままの彼の返答は、氷河期のごとき冷たさだった。
かなりのダメージを受けているように見えるが、彼は淡々として、疲れの色など僅かも見せない。
「なぜそうも必死なのです? 私に恩を売っても、得などないでしょうに」
「恩を売るとか、そんなのじゃないわ。ただ、純粋に心配になったの」
その言葉に偽りはない。
なぜかと聞かれれば、これといった明確な理由を答えることはできないだろう。ただ、私の口から出る言葉が偽物でないということだけは、間違いなく真実だ。それは自信を持って言える。
「純粋に心配? ……相変わらず、馬鹿げたことを」
「馬鹿げてなんかないわ」
私はゼーレの肩に手を当てる。なぜ肩かというと、腕は背中側で拘束されていて触れられないからだ。
「それよりも、怪我が酷いわ。早く手当てした方が……」
そこまで言った時だった。
トリスタンが私とゼーレの間に割って入り、述べる。
「僕が救護班に連絡する。だから、マレイちゃんはもう、ゼーレのことは気にしなくていいよ」
トリスタンは恐らく、私を気遣ってくれているのだろう。彼は優しい人だから、きっとそうに違いない。
「救護班待ちで、間に合う?」
「うん、大丈夫だよ。すぐに連絡するから」
「そう。それならいいけど……」
私はトリスタンを疑う気などない。だから、彼が「大丈夫」と言うなら、大丈夫なのだと迷いなく信じる。
ただ、ゼーレが傷ついていることも事実だ。傷が作り物なわけではないので、致命傷にならないかという心配はある。
——もっとも、憎き敵である彼を心配する必要など、本来なら微塵もないのだろうが。
そんなことを考えていると、俯いていたゼーレが唐突に顔を上げた。
「マレイ・チャーム・カトレア、貴女……実に奇妙な趣味をお持ちなのですねぇ」
「えっ?」
一瞬、何を言われているのか理解ができなかった。
だが、少しして、皮肉られているのだと気がついた。ゼーレの発言は嫌みなのだと。考えてみれば、彼らしい皮肉ではないか。
「大切なものを奪った私が目の前にいるのですよ? それも、抵抗できない状態で。となると、貴女が今すべきことは、本来、一つだけのはずです」
銀色の仮面のせいで直では見えないが、目を凝らしてよく見てみると、呼吸が荒れているのが分かった。ゼーレもまったく平気というわけではないようだ。
「奪った者から奪い返す。私を——」
そこまで言った時、ゼーレの体から急に力が抜けた。鎖に縛られているのもあって完全に倒れ込みはしないが、意識がはっきりしなくなりつつあるようだ。
「ゼーレ! 大丈夫?」
私は彼の仮面に覆われた顔を覗き込む。顔は直には見えないが、近づくと疲労感がひしひしと伝わってきた。
「……不気味な女ですねぇ。そういう奇妙な行動はもう止めて下さい、気味が悪い……」
今のゼーレの声には張りがない。彼らしからぬ弱々しさだ。
実は結構疲労しているのかもしれない、と私は思った。
「あまり無理しちゃ駄目よ」
「そもそも、貴女が素直に来てくれれば、こんなことにはならなかったのですがねぇ……」
彼は不満げな声を小さく漏らす。さりげなくブツブツ言うところは、彼らしい。
「それは嫌よ、帝国を壊そうとする人たちの仲間にはなれないわ」
「本当に……頑固な女です。大人しく従えばいいものを」
「悪かったわね、頑固で。でも私は帝国軍の人間になってしまったもの、もう遅いわ」
ゼーレはその性格ゆえに、気丈に振る舞っている。だが、本当は辛さもあるのだろう。敵地に一人で拘束されているという状況だ、辛いのも無理はない。
「どこかが痛むの?」
「うるさい、ですねぇ……」
「ごめんなさい。多分もうすぐ救護班が来るわ、それまでの辛抱よ」
私は勇気を出して微笑みかけてみる。しかし無視されてしまった。
……仕方ないか。
つい先日まで敵だったのだから。
待つこと数分、救護班が到着した。私が思っていたよりかは来るのが遅かったが、来てくれただけで今は良しとしよう。
グレイブに一方的に攻撃を浴びせられたゼーレの体は、救護班の者ですら驚いたほどにズタズタだったらしい。
彼女が急所を避けていたため、ゼーレは生きていられたようだ。彼女が敢えて急所を外した意図は不明だが——取り敢えず命に別状はなさそうで良かった。
そしてトリスタンの方も、リュビエの蛇毒に関する心配はあったが、もう大丈夫そうだった。
特に症状もなく、健康そのもの。
そんなトリスタンの様子を見、私は安堵した。
その日以降、私は本格的に訓練を始めた。
帝国軍に所属している以上、戦えないわけにはいかないからだ。
持久走や上体起こしなどの基礎的なトレーニングはフランシスカに見てもらう。そして、実戦に近い戦闘に関しては、主にトリスタンに指導してもらった。
フランシスカもトリスタンも、夜間は、化け物狩り部隊の隊員としての仕事がある。だから、私が見てもらうのは主に昼間だ。
そう言うと、夜は暇かのように思えるが、案外そうでもない。
ゼーレの身の回りの世話があったからである。
いや、「世話」と言っては失礼かもしれない。正しく言うなら、食事や簡単な体調確認などである。
本来それらは牢番の役割だ。しかしゼーレの場合は厄介で、食事を運んでも食べず、牢番が声をかけても無視をするらしい。そんなことで、彼が唯一反応する私が、その役目を負うこととなってしまったのである。
おかげで昼も夜も忙しく、非常にハードな生活になっている。
だが、忙しさには慣れている。だから平気だ。
アニタの宿屋にいた頃の経験が、今こんな風に形を変えて、役に立っている。そんな気がするのだった。