episode.44 有るのか無いのか
あの後の記憶がない。
気づいた時には、既に、基地内へ戻ってきていた。
付き添ってくれていたフランシスカによれば、私は、ぼんやりとしてはいたものの歩いて基地まで帰ってきたらしい。気を失ったり倒れたりはしていないようだ。
にもかかわらず記憶がないのはなぜなのか……。
それは一つの大きな疑問だ。
けれども、今はそんなことよりも、リュビエにさらわれたトリスタンの身を案じることの方が、必要なことである。トリスタンがどんな目に遭わされるか分からないから。
トリスタンが連れていかれてから、ちょうど一日が経過した夜。
「マレイちゃん、会いに来たよっ」
一人自室でどんよりとした空気に包まれていると、何の連絡もなく唐突に、フランシスカがやって来た。恐らく、精神的に落ちている私を心配して、会いに来てくれたのだろう。
「……フランさん」
寝巻きのままベッドにもたれかかっている私を見た瞬間、彼女は目の色を変える。
「どうしてそこなの!?」
フランシスカは当たり前のように室内へ入ってくる。
そして、ぼんやりしている私に接近すると、立つように促してきた。
「せめてベッドの上で休みなよ! ほら、立って。ねっ?」
「ここが落ち着くの……」
「駄目駄目! そこじゃ休まらないよっ!」
いや、ここが気に入っているのだが。
「ちゃんと立って、ベッドの上に移動してっ」
フランシスカはかなり厳しい。従わない限り、永遠に言われ続けそうな気すらする。
だから私は、ついに妥協し、立ち上がった。
言われるままに、ベッドの上へと移動する。
「トリスタンがいなくなったのがショックなのは分かるよ? でも、それでマレイちゃんが自暴自棄になるのは駄目。トリスタンがそんなことを望むわけがないのは、分かるよね?」
彼女はなぜこうも上から目線なのだろう。
「……分かるわ」
私は、小さな声で返し、ベッドに横になる。
横になった方がいい空気だったからだ。
それから暫し沈黙があった。
フランシスカは、私が横になるベッドの傍で、何も言わずにじっとしている。いつもは活発でお喋りな彼女が大人しいと、不気味な感じさえした。
そんな不気味な中で、私から話を振るというのは難しい。だから私も、ベッドに横たわったまま、口をつぐんだ。
そして、沈黙はまた続く。
——どのくらい経っただろうか。
二人きりの沈黙に耐えられなくなった私は、ついに口を開く。
「トリスタンは……どこへ行ってしまったの」
彼女の聞いたところで、トリスタンの行方が判明するわけもない。聞くだけ無意味なことだ。しかし、思いつく話題がこれくらいしかなかったので、この話題を選んだのである。
「フランに聞かれても分かんない」
「そうよね……」
なんとなく気まずい空気になってきた。
フランシスカは、あまりご機嫌ではなさそうだ。
「グレイブさんがゼーレのところへ行くって言っていたから、情報を聞き出してくるんじゃないかな」
その言葉を耳にした瞬間、それまですっかり忘れていたゼーレの存在を思い出した。
「そうだ! ご飯!」
よく考えてみれば、今日一日彼に会っていない。一度も食事を持っていっていないことに気づき、青ざめる。お腹を空かせて弱っていたらどうしよう、と思ったからだ。
私は慌てて上体を起こし、転がるようにベッドから下りた。
その様を見たフランシスカは驚いた顔をして言う。
「ちょっと、いきなり何っ!?」
目を見開き、口をあんぐりと空けている。よほどびっくりしたらしく、可愛くおしゃれな彼女には似合わない、情けない顔つきをしていた。
「ゼーレの食事!」
「え? え?」
「持っていって、食べさせないと!」
速やかに靴を履き、部屋から出ようとした時、フランシスカが私の片腕を掴んだ。
「待って、マレイちゃん。そんなに慌てないで」
早く行きたい衝動をこらえ、フランシスカへと視線を向ける。
すると、彼女の真剣な表情が見えた。
華やかな睫毛に彩られた瞳が、こちらを真っ直ぐに見据えている。心配しているような色がほんの少し滲み、しかし曇りのない瞳。それはまるで、トリスタンの瞳のようだった。
「牢番の人があげてるから、多分大丈夫だって! マレイちゃんが無理することないよっ!」
私は何も言い返せない。
フランシスカとトリスタンが重なって見えたからだ。
「……そうね」
私は大人しく引き下がった。
地下牢にいるゼーレの様子が気にならないと言えば嘘になる。だが、フランシスカを振り払ってまで彼に会いにいく気にはならない。
「ゼーレだって、マレイちゃんに会いたいとか思ってないって!」
グサッ。
何かが胸に突き刺さる、鈍い音が聞こえた気がした。
「そう。そうよね」
私は呟く。自分を納得させるように。
……いや。そもそも、「ゼーレは私に会いたいと思っていない」ということに納得できない心が存在する理由が、まったく分からないのだが。
そこへ、フランシスカが突っ込んでくる。
「どうして残念そうな顔してるのっ?」
純真な眼差しを向けられた。
しかもきわどいところを突いてくる。
「もしかして、ゼーレに捕虜以上の感情を抱いているとかじゃないよね?」
お願い、それだけは言わないで。
そんなことはあり得ないし、許されたことではない。
「まさか」
私はフランシスカの丸い瞳を、迷いなく真っ直ぐに見つめ返す。
「役割だから、ってだけよ。それ以上のものなんてないわ」
ゼーレは敵。あの夜、私からすべてを奪った、最大の敵だ。
生まれ育った村を焼いた彼を、人々や私の母を残虐に焼き殺した彼を、許すなんて絶対許されないこと。
——そのくらい、分かっているわ。