episode.80 覚悟を
ゼーレに向かって駆け出した、ネコ耳の少年クロ。
彼はベッドの方へ接近しながら、両の手の爪を伸ばす。これまた信じられないことだが、本当に、爪が一メートルほどに伸びたのだ。こんなことができるとは、もはや人間ではない。
「ばいばーい!」
クロは、長い爪のついた両手を、ベッドに向けて振り下ろす。
だがゼーレは、咄嗟にベッドから飛び降りていた。さすがの反応速度だ。しかし着地の際、顔に苦痛の色を浮かべる。
「……くっ」
「あははっ。痛そーだねー」
笑いながらすぐに再びゼーレの方を向くクロ。
「次、いっくよー!」
クロはさらに迫ってくる。
ゼーレはまだ立てない。ボスにやられた傷が深いからだろう。
このままではまずい——その思いが、私の体を動かした。
「止めて!」
ゼーレとクロの間へ入る。
しかし、本気でゼーレを狙いに来ているクロが、動きを止めるわけもない。鋭い爪が私の胸元へと近づいてくる。
「カトレア!」
耳に飛び込んできたのは、緊迫したゼーレの声。
クロの素早さは、私の想像を遥かに越えていた。腕時計に指を当てる時間なんて、あるわけがない。だが、何としても直撃だけは避けなくては。その一心で、私は体をひねる。
「……あっ!」
結果、クロの長い爪は、私の左腕と脇腹を抉った。
赤い飛沫が視界に散る。
一瞬後から襲ってくる痛みに、そのまま倒れ込んでしまう。
「カトレア!」
ゼーレの声が再び耳に飛び込んできた。
「何をしているのです! 馬鹿ですか、貴女は!」
その声は、らしくなく荒れている。いつもとは違い、激しい調子だ。
「あっちゃー。やっちゃった。お姉さん、ごめんねー?」
起き上がろうとしている私に、クロは軽いノリで声をかけてきた。さほど悪いとは思っていなさそうな雰囲気である。
「でもぼくは悪くなーいよー。お姉さんが急に入ってきたせいなんだからねっ」
……やはり、反省していない。
だが、こんなことをしている場合ではない。クロはまたゼーレを狙うだろうから、早く体勢を立て直さなくては。
しかし、体が思い通りに動かなかった。
脇腹の方はまだしも浅いが、左腕に負った傷は結構深そうだ。少なくとも、私が今までに受けた傷の中では、一番の酷さである。
ただ、それでも止まってはいられない。
私は可能な範囲で上半身を起こし、左手の指を腕時計の文字盤へと当てる。そして、右腕をクロへと向けた。
「なーんのつもりかなっ? お姉さんったら、ぼくに攻撃する気ー?」
クロはまだにこにこしている。余裕どころか、私のことなど微塵も警戒していない様子だ。
これだけ油断している相手なら、もしかすれば、一撃くらいは当てられるかもしれない。倒せるかどうかは別として、退けられる確率はゼロではないはずである。
「おもしろーい。お姉さんって、冗談が楽し——」
最後まで言わせないタイミングで、光球を叩き込む。
しかしクロは、高いジャンプでしっかりかわしていた。
「って、もしかして本気ー?」
近距離から仕掛ければ命中するかと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。だが、一度で諦める私ではない。
「これってー、もしやもしやー、冗談じゃなかったってことなのかなっ?」
「……ゼーレを狙うのは止めて」
その瞬間、クロのネコ耳がピクッと動く。
「へー。お姉さん、結構言うんだね。面白いや」
——直後。
クロがその場から飛び上った。
その赤い瞳は、今度は私を捉えている。どうやら、狙いが私に変わったようだ。良いのか悪いのかはよく分からないが、これでゼーレは助かるかもしれない。そういう意味では良かった、と私は思った。
両手の爪を下へ向けながら、私の頭上から下りてくるクロ。
私は咄嗟に体を動かし、立ち上がれないままではあるが、彼の着地を避けた。危ないところではあったが何とか回避。爪の餌食にはならずに済んだ。
だが、ゼーレと分断されてしまう。
「気に入ったから、お姉さんを先にやっちゃうねっ」
クロは標的を完全に私に変えた。
危険は伴う。けれど、私が相手なら、殺しにはこないだろう。生かしてはおくはずだ。
本気でかかってこられない分こちらが有利——なんて思ってはいたのだが。
「うあっ!!」
見えないほどの速度で接近してきていたクロ。
その爪が、再び私の左腕を切り裂いた。
「カトレア! すぐに止めますから!」
ゼーレの声だ。だが、物凄く遠くで聞こえたような気がする。
「さっせなーいよー」
クロは愉快そうに言った。
それから彼は、白いネコを大量発生させる。
普通のネコのようにも見えるが、一斉にゼーレの方へ向かっていったことを思うと、恐らくは化け物の一種なのだろう。ネコ型化け物といったところか。
「お姉さん。これでぼくと二人きりだよっ」
確かに、クロの言う通りだ。
あれだけのネコ型化け物に邪魔をされては、いくらゼーレといえども、こちらにまで手を回せはしないはず。
もはや私とクロの一対一。これは結構まずいことになってしまった。
「大人しくしてねっ」
「い、嫌よ!」
こんなものはただの強がりにすぎない。だが、こうでもしていないと、心が折れそうになるのだ。だからこうして、強気な発言をする外ないのである。
「そっかー。じゃあ仕方ないねっ」
楽しそうに言いながらさらに近づいてくるクロに向け、赤い光線を放った。しかし、やみくもに放った光線が命中するはずもなく、いとも簡単にかわされてしまう。
迫るクロの爪。
もはや私に反撃の手などありはしない。
「動かなかったら、苦しまずにすーむよっ」
苦しまずに済む——ほんの一瞬だけ、その方がいいのではと思ってしまった。
このまま痛みに苦しみ続けるより、終わってしまった方が幸せなのではないか、と。
けれども、私の本能は、それを許さなかった。
「……いいえ」
まだだ。私はここで終わるわけにはいかない。
しなくてはならないことや、したいことが、私にはまだたくさんあるのだ。
「貴方の思い通りになんてならない!」
私は覚悟を決めた。
クロを倒す、という覚悟を、だ。
彼との距離は数メートルしかない。数秒後には爪が突き刺さることだろう。
しかし、爪が刺さることはもう怖くない。いや、怖くないと言えば嘘になるが、それよりも「クロを倒す」という決意の方が強いのだ。目的を達成するためなら、痛みなど厭わない。
私はただ、クロの姿を懸命に捉えるように努めた。
「おしまいだねっ!」
——来る。
狙うのは、クロの爪が私の体に刺さる直前。
つまり、彼の気が緩む瞬間だ。