episode.88 辛さの意味
それから三日。
シブキガニを殲滅するべくダリアへ行っていたグレイブたちが、帝都へと戻ってきた。
その夕方、今回の任務に関する報告とのことで、召集がかかり、私は指定の部屋へと向かう。指定されていたその部屋は、シブキガニ殲滅の任務が始まる前に一度呼び集められた部屋と、同じところだった。さすがに二度目は早く行ける。
「こんばんは!」
扉を開け、元気よく挨拶をする。
今は夕方で、昼という感じでも夜という感じでもない。そのため、「こんにちは」か「こんばんは」か迷った。が、外が暗くなりつつあることを考慮し、一応「こんばんは」を選択した。
しかし中には誰もいなかった——いや、それは間違いだ。
椅子がいくつも並んだその部屋の一番端、かなり目立たない位置に、ゼーレが座っていたのだ。
つまり、正しくは「誰もいなかった」でなく、「一人だけいた」だったのである。
「……カトレアですか」
彼はほんの一瞬こちらを一瞥し、ぽつりと呟いた。しっとりとした小さな声で。
「もう来ていたの? 早いのね、ゼーレ」
「早くはありません。既に、開始予定時刻の二十分前ですからねぇ」
「二十分前って、だいぶ早いと思うわよ……」
ゼーレは割れた仮面をまだ着用している。もはや顔の半分ほどしか隠せていないというのに、彼はまだ、着けたままだ。隠せているつもりなのだろうか。
「その仮面、外さないの?」
私は彼が座っている方へ歩いていきながら、気になったことを尋ねてみた。そして、彼の隣の椅子に腰かける。
「今のところ……外す予定はありませんねぇ」
「なぜ?」
外す気は微塵もなさそうな様子を不思議に思い、さらに尋ねてみた。
すると彼は、愚痴を言うような声色で答える。
「じろじろ顔を見られると不愉快だからです」
それを最後に、場は静まり返ってしまった。
私とゼーレ二人だけでは、なかなか話が続かない。
どうにかしようと話題を探してみたけれど、結局良さげな話題は思いつかなかった。何を話しても彼を傷つけてしまうような気がして、こちらから話を振る気にはなれないまま、ただ時間だけが流れていく。
「……カトレア」
やがて、口を開いたのはゼーレ。
気まずそうな顔をしながらも、視線はこちらに向けている。
「一つ、質問をしても構いませんかねぇ」
「もちろん。構わないわよ。何?」
私は彼の翡翠のような瞳へ視線の先を向けた。
それにより、ゼーレの顔に浮かぶ気まずさの色は、さらに濃くなる。何だか少し申し訳ない気もするが、彼から視線を逸らすことはしなかった。
「もし仮に」
仮面の隙間から視認できるゼーレの唇が、控えめに動く。その息遣いからは、緊張している様子が窺えた。
「私が貴女を愛していると言ったら……貴女はどうします?」
聞いた瞬間、心臓が大きく鳴った。
ゼーレの質問があまりにも予想外のものだったからである。
「どうしてそんなことを聞くの?」
私は、動揺を必死に抑えつつ、彼を見つめて問う。
きっと冗談なのだろう。本気になって馬鹿らしい、と私を嘲笑うための質問に違いない。だって、それ以外に、彼がこんなことを問う必要性がないから。
けれども、私の目に映る彼の表情は、真剣なものだった。
他人を馬鹿にするための冗談を言っているとは到底思えない、繊細な表情をしている。
「ゼーレ、冗談なら止めて。そんな冗談……笑えないわ」
そう言うしか、私には手がなかった。
でも、仕方がないのだ。急に意味の分からないことを言われたのだから。
「この程度で本気になって馬鹿らしい、って、私を笑うつもりなのでしょう」
今だけは、馬鹿だと笑ってほしかった。そんなわけないでしょう、と、いつものように嫌み混じりで言ってほしかった。
そうでなくては、彼の意図が微塵も理解できない。
「……そうですねぇ。私も……そうやって笑えたなら良かったのにと思います」
ゼーレはほんの僅かに俯いていた。
その口元には、寂しげな笑みが、うっすらと浮かんでいる。
「出会いたく……なかった」
彼の口から零れ落ちた言葉に、私は戸惑うしかなかった。
「え、何? いきなりどうしたの?」
私は敢えて、何事もなかったかのように尋ねてみた。戸惑いは隠し、平静を装って、口を動かす。
所詮私が行うことだ、薄っぺらい演技の域を出ない。
だが、それでも少しは、この激しい動揺を隠せているはずだ。
「……辛いのです。もう、貴女といることが……」
「辛いって……どうして急にそんなことを言うの? もしかして私、何か嫌なことをしてしまっていた?」
「……そういうところです」
「へ?」
つい情けない声が出てしまった。
このタイミングで情けない声は、正直少し恥ずかしい。
「そうやって優しくされるから、辛いのです!」
「えぇ!?」
ますますわけが分からなくなってきた。優しくされるのが辛いだなんて、明らかに変だ。
「優しくされればされるほど貴女が頭から離れなくなるから嫌なのです!」
ゼーレは口調を急激に強める。怒った時のトリスタンをも凌駕するほどの迫力に、私はただ、慌てることしかできない。何がどうなっているのか分からないからである。
「え。え。ちょ、どういうこと……」
「分からないでしょうねぇ、貴女には!」
「ご、ごめんなさいっ!?」
もはや、なぜ謝っているのかも分からない。
これは何なの!?
「あのっ、えと……ごめんなさ……」
彼を本気で怒らせたら、何をされるか分かったものでない。だから私は、ゼーレを落ち着かせようと、取り敢えず謝っておく。
するとゼーレは、やっと言葉を止めた。
己の額へ手を当て、少しして、はぁ、と溜め息を漏らす。
「失礼。少々取り乱しました」
どうやら冷静さを取り戻したらしい。
私は内心、安堵の溜め息を漏らした。二人きりの時に怒らせてしまうというのは怖いものだ。
それからゼーレは、わざとらしく、一度咳払いをした。
「どうやら察してはいただけないようですねぇ……」
おっ、ゼーレの嫌みが……!
「仕方ありません。この際、直球でいきましょう」
「ちょ、直球?」
「そうです。貴女の物分かりが悪すぎるからですよ」
おぉ……!
ゼーレの性格の悪さが戻ってきた……!
なぜか少し嬉しい。旧友と再会したような気分だ。
「分かったわ! 何でも言って!」
やっぱりゼーレは嫌みを言っている方がいいわ。その方が安心して話していられるもの。
直後、仮面の隙間から見える瞳が、私を直視した。
まるで、この胸を貫くかのように。
「こんなことを言う資格はないと分かったうえで言わせていただきます」
そこで一旦言葉を切り、心を整えるように深呼吸を行うゼーレ。
口の器用な彼が、わざわざ深呼吸してから言わなくてはならないようなことだ。きっと、とても大事なことなのだろう。
「私は貴女を、愛してしまったかもしれません」
……えっ。