薔薇:101本→「私は貴方をこれ以上ないほど愛しています」
ルシウス・コルヴィナスが剣を振る度、石畳が割れ、破片が飛び散る。冷たい月光が差し込む回廊に、英雄卿と異界の神に仕える騎士の影が交錯した。
ルシウスの剣は重く、速く、鋭い。ひと振りごとに空気が震え、耳をつんざくような金属音が響き渡る。人の動きというよりは嵐、あるいは暴風暴雨、天災が人の形になって暴れているような容赦のなさ。ただの人間が受けきれるものではない。
それでもルイス・ロートンは退かなかった。
異界の神の祝福というのは、何も彼の騎士に万力を与え超人的な剣技を授けるものではなかった。何しろ異界の神は「すでに滅んだ世界」あるいは「続けられなかった世界」にしてしまった無能者だ。そうした存在にどのような権能が残っているかと言えば単純。それはしぶとさだ。死にぞこない。世界が終わっても未だ図々しく存在している生きぎたなさ、往生際の悪さ。
そうしたものが異界の神の権能として、ルイス・ロートンに注がれた。
ルイスの剣は痩せ細った火のようだった。圧倒的な災害であるルシウスの押し潰されそうな圧力の中で、ただ必死に燃え残ろうとするか細い火。正面からぶつかるたびに甲冑は軋み、腕は痺れ、肺は焼けるように苦しかった。だが、彼は決して膝を折らなかった。生き汚い異界の神の騎士となったからだ。
「……俺は、今度こそ、騎士になるんだ……ッ!」
ルシウスの剣を受け流し、ルイスはかろうじて致命傷を避ける。石畳に深い亀裂が走り、飛び散った砂塵が視界を白く覆った。
その隙にルイスは踏み込み、渾身の一撃を突き出す。しかし、銀の閃光がそれを無造作に弾き飛ばした。
「騎士など」
憧れに値するものでもないと、ルシウスの低い声が響く。その声音はルイスの奮闘に対し賞賛が含まれているようにも感じられたが、しかし、どこまでも冷ややかだった。
言葉と同時に、剣が振り下ろされる。ルイスは咄嗟に受け止めるが、体勢を大きく崩し、壁際まで弾き飛ばされた。肺が押し潰されるような衝撃に、血が喉を逆流する。
「ヴィクトリア・ラ・メイが、全ての元凶だったんです……!コルヴィナス卿!」
ルイスは必死に叫んだ。
自分が知り得たヴィクトリア・ラ・メイの「真実」あるいは本性、性根を語った。これはもちろん、ルイスに自覚のあってのことではないが聊か公平さには欠ける告発だった。しかしヴィクトリア・ラ・メイが事実として自身の破滅を「設定」し、その通りになるように周囲の悪意や敵意を黙って受け入れていたことを言葉にして語った。
倒すべきリストに載っているルイスの言葉をルシウス・コルヴィナスが黙って聞く時間を設けたのは、少なからずルイスの言葉の中にはヴィクトリアへの敬慕が感じられたからだった。語りながら、ルイスは涙していた。図書室で、学園で、ヴィクトリア・ラ・メイの指先や声が優しかったことを、どうしてもルイスは言葉の中に含ませずにはいられず、それをルシウスは受け取った。この青年とヴィクトリアが「友人」であった時間を知り、ルシウスは自分の知らない情報を受け取る気になったのだ。
「……つまり、この悲劇、惨劇、俺の憎悪の何もかもはヴィクトリア様が望まれたことだと?」
「!そうです!そうなんです、コルヴィナス卿!」
ルイスの顔に希望の色が浮かび、輝く。英雄卿と称えられた方がこれで正気に戻られるだろうという期待。卿の抱いた敵意も憎悪も何もかも、それらは養殖されたもので、貴方に相応しいものではないと、ルイスは剣を降ろす。
「っ!メフィスト!?」
「ッチ、避けやがったか。魔弾を避けンなよ、クソが」
ルイスが剣を降ろした瞬間、銃声。後方にて観戦しているメフィスト・ドマが銃を構えていた。その魔弾はルシウスを狙っていたが、剣で防がれる。メフィストが撃っていなければ、その動作はルイスの首を落としていた。
「コルヴィナス卿……!?」
ルシウスの青い瞳は冷酷な光を湛えている。まるで戦場における神の審判のように、ひとつの命を計るために存在しているかのようだった。
「なぜ……貴方は操られていたのですよ!?」
「……事実をしり、真実と言うものを知り…………それでも、その上で、俺のヴィクトリア様への愛情は変わらない」
静かに、ルシウスは告げた。ルイスの話を淡々と聞きながら、ルシウスは若者の一方的な訴えに不快に思うことなく、それどころか段々と、思考が晴れていた。燻り、自分でもどう扱えばいいかわからない葛藤や衝動が静かに消えていくことを感じさえした。それであるので、ルイスに対しては一閃で終わらせようという気にもなったのだが、メフィスト・ドマによりそれは阻止された。
「貴方はヴィクトリア・ラ・メイに利用されていたのですよ!貴方を駆り立て、憎ませて、王家に剣を向けるよう……彼女が企んだんだ!」
「だからなんだそれがどうした」
「!?」
ルシウスはふぅ、と前髪をかき上げる。亡霊のような顔をしていた男が、自身の言葉の通りとてもすっきりとした顔をしている。
「つまり、それは、そうか。つまり、ヴィクトリア様は少なくとも、あの瞬間、あの最期の時はご納得されていたのか。それだけが救いだ。あの最期の時、あの方は目的を遂げたと、ご自身の役目を全うされ、今は安らかに眠れているということか」
その事実はルシウスの心を救った。あの最期。惨たらしく、あまりにも酷い最期だった。苦しみはあっただろう。痛みはあっただろう。それでも「それが目的」であったのなら、少なくとも悲しみの中でお亡くなりになられたわけではなかったのか。
彼女の望み、そうなることを願った末の事だったというのなら、ルシウスは「あぁ、よかった」と、涙を流して喜びたいほどだった。
「……!?……???」
理解が及ばないという顔をするルイスに、ルシウスは目を細める。恐れ多い考えではあるが、我が子とも思うヴィクトリア様が自分にどんなことをしてきても、憎む理由にはならないのだ。むしろ、願ってくれたこと、望んでくれたことがあるのかと、それを嬉しく思う。
ルシウスは頭を振り、剣を構える。
「つまり、私の報復は、復讐は、ヴィクトリア様が望まれたことということか」
「……なぜ、利用されることも厭わないのですか!?」
「?ヴィクトリア様が望まれた事であろうとなかろうと、この感情は私のものだが」
ルシウスは剣を振るう。メフィスト・ドマの弾丸を弾き飛ばした。会話をしている間にも隙あらばと狙ってくる周到さ。それでいて悪魔は会話には参加せず、その視線の多くはカッサンドラに向けられている。ついで程度で命を取れるとは思っていないだろうが、片手間に相手の命を奪ってもいいという気安さ。
メフィスト・ドマの弾丸を打ち払いながら、ルシウスは自分の思考をまとめる。
「ヴィクトリア様が彼らの悪意を黙って見ていたとして、そもそも抱いた彼らの敵意や悪意は彼ら自身のものであり、その愚かさや、行った振る舞いは畜生のするものだ」
大切な愛しい名付け子にされた仕打ちに関して、報復しないという選択肢はなく、また、彼らの振る舞いに対してルシウスが抱いた感情は、ルシウス自身のものだった。
「……ッ!」
再開される攻撃に、ルイスは立ち上がった。すでに彼の膝は震え、呼吸が荒く、指先の感覚すら失いかけている。それでも彼は剣を構え直した。名目的には殿下を守るため、この世界に根付いた信仰を守るため。だが実際は、そうではない。
「……なんなんだ、なんでみんな……こうなんだ!」
ルイスは腹を立てる。どいつもこいつも、自分に正直に過ぎる。自分の考え、自分の行動に対して「間違っている」とは微塵も思わない。思う必要性を感じていない。
「あぁ、そうか……!なら、そうだ!」
あくまでも、どこまでも、ルイスも、彼も、この場にいる、この観劇に上がる多くの者がそうであるように、ルイス自身も利己的な自分の目的を受け入れた。
「なら俺は、騎士になってやる……!正しいものを自分で選んで、守る騎士に!」
ルイスは自分が愚かで卑怯で臆病者だったと自覚した。ヴィクトリア・ラ・メイのこと、多くの事、自分が理解できなかった様々な出来事や思惑を受け止めて、受け入れて、そしてルイスが感じたのは「誰もが自分で選んでいて、自分が選択したことを正しいと貫いている」ということだった。
ルイスはここで自分が何を守るのかを決めて、それを全うできなければ、もはや自分は生きていけないと感じていた。災害、天災、暴風、暴力が人の形をしたルシウス・コルヴィナスを相手にしても引かない騎士という装いだけでも手に入れなければ、自分は今後、何を自分だと認識して生きていけばいいのかと、ルイスはそれを恐れていた。
叫びは震えていたが、そこには確かな意志があった。ルシウスは一瞬だけ眉をひそめる。その目には軽蔑も嘲笑もなく、ただ淡々とした興味だけが宿っていた。
「……愚直だな」
再び剣が振るわれる。雷鳴のような衝撃が回廊を満たし、瓦礫が崩れ落ちる。火花が散り、剣戟の音が回廊を満たす。
「あーぁ、まぁ、よくやってる方かな?」
そのすぐ脇で、メフィストはまるで舞台の観客のように片肘をついて壁にもたれていた。黒衣を翻すその姿は、戦場にあるまじき余裕を漂わせている。
ルイスの必死の剣捌きを眺めながら、メフィストの口元には皮肉げな笑みが浮かぶ。彼の目には、血を流しながら必死に食らいつく青年の姿は、健気であると同時に哀れでもあった。英雄と凡庸の差は、どう足掻いても覆せない。異界の神の祝福は、致命傷を受けても死なないものだが、それはそれとして、ルイスの寿命を削っている。魂の賞味期限がどんどん失われていくのをメフィストは魔眼で確認していた。
ルシウスが大地を踏み砕くたびに、回廊は地鳴りのように震えた。その圧倒的な力を前に、ルイスはよろめきながらも立ち上がる。その姿にメフィストはふと肩を竦める。
「人間の意地ってやつは嫌いじゃない。負けるとわかっていても立ち上がる。そういうのは見物してて退屈しねぇな」
ふと、メフィストの目が別の方向に動いた。戦場の喧騒のすぐ外で立ちすくむ、ひとりの少女――カッサンドラ。クラウディアの身体を抱きしめ、彼女は何かを決めきれず、ただただ揺れる瞳で死にゆく老女を見つめていた。
メフィストはカッサンドラが泣くと思った。知らない相手でも、目の前で、自分の腕の中で人が死ねばたいていの人間は泣くだろう。人の命にはそれだけの重さがある。クラウディアの傷はどうしようもなかった。宰相クロヴィツが必死に止血しようと試みたが、流れ出る命は受け止められない。
「どうした?」
ひょいっと顔を覗き込む。泣くなら胸を貸してやるぜ、という気持ちで声をかけると、赤い髪に青い瞳のカッサンドラは、何かを真剣に考え込んでいる。その目にはクラウディアの命に関しての衝撃や、彼女の身体を膝に乗せる責任に関してのものはない。カッサンドラの中では何か別の興味、関心、考えるべきことがあるようだった。
*
私は自分の立ち位置と目的を改めて考えた。
「……まず、この展開が……嫌っ」
目の前で、腕の中でクラウディアが死んでいく。クロヴィツさんが泣いている。この展開が、とても嫌だった。クラウディアのことは良く知らない。ただそれでも、会話をした。彼女が私の言葉で、私が演じた薔薇の大君の言葉で微笑んで安らいだ。
その人が死んでいくのが、ただ単純に、どうしようもなく嫌だった。
(……関われると、思ってるの?)
自問自答するのはまずその点。ただの傍観者。代役。ただ見ているだけで、お役御免になるのを待っている。
だが、今。クラウディアが目の前で崩れ落ち、あの壮絶な問いを投げかけられた瞬間から、胸の奥に燻っていた何かが形を変えはじめていた。それは私自身の、自意識のある日本人の会社員としての私の気持ちだけではなかった。
(……黙って見ていていいの?)
(なんで何もしないの?)
ルイスが血を吐きながら、それでも剣を振り上げる。ルシウスは無言で一撃を叩きつけ、回廊の柱が砕け散る。その音は、冷たい石造りの廊下にこだまし、まるで世界がひび割れていくかのように響いた。
――そして、その狭間で。カッサンドラの胸に、ふとした既視感が走った。
夢の中の続き。連れていかれた神殿の地下。祭壇。向けられたいくつもの短剣を必死に落として、防いで、銃声が木霊しながら、誰かが私の名前を叫んでいた。けれどその姿が倒れて、そして、私は今のクラウディアにしているように、誰かを膝に抱き上げた。
胸の奥で熱が灯るように、別の記憶が微かにざわめいた。聖堂の鐘の音、群衆の祈り、白い祭壇の上で捧げられる祈りの言葉。それは私のものではない――はずの光景。
だというのに、確かに私の中で「知っている」と告げる声がする。忘れられた何か。奪われた誰かの記憶。
「……わたしは……」
思わず声が漏れた。ルイスもルシウスも、激しい剣戟の最中で私の声など耳に入れない。メフィストだけが、壁際で余裕の笑みを浮かべ、まるで舞台の幕が上がる瞬間を待ち望む観客のように、私の方を見ていた。冷たい風が、石造りの回廊を抜ける。それは冬の風ではなかった。どこか神殿の奥、祈りの場から吹き抜けてきたような、温かな気配を帯びていた。
安全で、安泰な「傍観者」の立場から、私は踏み出そうとしている。それは私にあった生存保障が失われる感覚でもあった。
床に横たわるクラウディアの身体は、まだ温もりを失い切ってはいなかった。けれど、その胸はかすかに上下するばかりで、瞳はもう閉ざされている。
私は震える指で彼女の頬に触れた。冷たくなっていく感触が、逆に心の奥を熱くさせる。
(――わたしは、何をしている?)
剣戟の轟音が遠ざかって聞こえる。ルイスが押され、血を吐く姿も視界の端に映った。けれど、私の世界はクラウディアの胸の鼓動と、自分の胸の奥で響く声だけで満ちていた。
(――何のために、やり直してると思ってるの)
誰の声なのか、わからない。
けれど、祈りの言葉が自然と唇から零れ落ちる。
それは知らない歌だった。神への愛を謡うのではなくて、子守歌のように、安らかにと、穏やかにとただ願う聖女の歌だった。私の指先から柔らかな光が滲み出した。
こんな力、自分は知らない。けれど――知っていた。身体が、心が、祈り方を覚えている。
石造りの回廊に、仄かな金色の光が満ちる。戦っていたルイスもルシウスも一瞬、視線を光の方へ向けかけたが、すぐに戦いへと意識を戻す。
クラウディアの唇がかすかに震え、閉じた瞼が揺れる。
奇跡は確かに起こっていた。
死に傾いていた心臓が、ゆるやかに力を取り戻し、再び血を巡らせていく。クロヴィツが顔を上げた。その歪んだ、涙と苦しみでぐちゃぐちゃになった顔には、驚きと希望、見間違いかもしれない恐怖が様々に混ぜられていた。
私の歌は止まらない。
光が強くなり、回廊の冷たい石床に淡い輝きが映り込む。クラウディアの胸が確かに上下し、色を失っていた頬にかすかな赤みが戻った。
その瞬間、私の胸の奥に鮮烈な記憶が走る。
――祭壇の上に立ち、民衆の祈りを受け止め、神へと橋渡しをする「聖女」。
自分の名を呼ぶ人々の声。
そして、白い光に包まれて歌うように祈っていた「少女の姿」。
それは他人ではない。
紛れもなく、自分自身だった。
「わたしは……」
呟いた声は震えていた。
だが、次の瞬間、確かな言葉として紡がれた。
「わたしは――聖女、レイチェル……」