第三十二話:暁に立つ影
街に漂っていた瘴気は、凛夜たちの勝利と、紅明の一撃によってすっかり霧散していた。
崩れた瓦礫の中、本部から避難していた職員たちが徐々に戻ってくる。負傷者の搬送、後始末、被害確認と対応に追われながらも――その目は、ひとりの男に惹きつけられていた。
紅明。
あの老練な男が、青年の姿をとって立っていた。逢魔の誰もがその変化に目を見張った。
「うそ……あれ、紅明様……?」
「なにあの筋肉……ちょっと……え、え、え……カッコよ……っ」
「写真! 誰か写真撮ってぇぇぇ!!」
現場対応中にもかかわらず、一部の女性職員たちは完全に機能停止していた。
(……やれやれ)
凛夜は頭を抱えたくなる衝動をこらえながら、師に向き直る。
「師匠……その姿、一体……」
紅明は軽く肩をすくめると、ぼやくように言った。
「まあ、昔のツテを使ってな。ちょいと“裏の霊薬”ってヤツを手に入れたんだよ。完全な若返りじゃねぇ。一時的なもんさ。力を引き出すだけに、代償もでけぇが……」
「代償……?」
「ああ。効果が切れたときの“反動”だ。心身に一気に負荷が来る。動けなくなるかもしれねぇし、下手すりゃ意識を数日失うこともある。まぁ、リスク込みの“賭け”ってわけだ」
「……!」
凛夜は一瞬言葉を失い、それでも必死に口を開いた。
「そんな危険なものを、どうして……」
紅明は、燃えるような眼差しで凛夜を見据えた。
「おまえが生き残るためなら、そのくらい安いもんだ」
その言葉に、凛夜は息を呑んだ。何かを言おうとして――結局、黙って頭を下げた。
沈黙。
そしてその時だった。
……カッ。
誰もが気づかない“気配”が、空気の裏側を撫でた。闇が震え、空間が揺らぐ。
凛夜もカガリも、もちろん逢魔の誰ひとりとして、その存在に気づかない。
だが――紅明だけは、眉をひそめて目を細めた。
「……見てやがるのか。おまえ……」
その視線の先に、姿はない。
だが、確かに“それ”はいた。
――芦屋冥道。
逢魔創設以前より日本に潜む、呪詛と怨念を司る最古の陰陽師。その男が、遥か高所から静かに、観察していた。
「ふむ。流石だな、紅明。俺の存在に気づくか」
感情のない独白が、闇の中に溶けた。
「しかし、焦る必要はない……舞台はまだ整っていない。今は――“駒”の動きを眺めるとしよう」
その声が消える頃には、影もまた、完全に姿を消していた。
紅明は、しばらく黙ってその空間を見つめていたが、やがてフッと息をついて笑った。
「……さてと。こっちの用は済んだ。あとは……まあ、せっかくの若い肉体だしな」
振り返ると、満身創痍の凛夜とカガリに片手を挙げる。
「おつかれさん。オレはこれから、街でちょいと“若さ”を楽しんでくるぜ」
「ま……待ってくれ、師匠!」
「凛夜、おぬし追うでない。どうせナンパか飲み歩きじゃ」
「ふはは。わかってるなら話が早ぇ」
夜の街へと、紅明は軽やかに姿を消していく。夕闇の中に、その背中は、どこか誇らしく――同時に、どこか切なさを孕んでいた。
その夜、逢魔の女性職員の間では、極秘裏に「紅明ファンクラブ」の設立が発表される。
その勢いはすさまじく、わずか数日で「肉体派師匠推進部」「紅明語録保存会」「特製カレンダー制作部」が結成されたのは、また別の話である。