第四十一話 凛夜の章② ― 紅の導き ―
夜が明けることなく、時間だけが過ぎていくような数日だった。
久遠凛夜は紅明のもとに引き取られたものの、言葉も、涙も、出てこなかった。あの夜を越えてなお、鼓動だけが身体の奥で虚しく響いている。父と母が命を賭して残してくれた命。それを抱えながら、少年は生きていた。
紅明は、凛夜に多くを語らなかった。
ただ静かに、彼の傍にいた。
広い屋敷の一室。古びた木の床に、しんとした空気が漂う。そこが、凛夜の新しい生活の始まりだった。
「ここは、隠れ家のようなものだ。お前のような者を守るために、古来より続いてきた結界の内にある」
紅明の声は淡々としていたが、その中に微かな慈しみがあった。
「お前の両親は、強く、そして正しい陰陽師だった。お前の中には、その血が脈々と息づいている」
凛夜はそれに、何も返さなかった。
「……だが、お前はまだ、それを望んではいないのだろうな」
その言葉に、少年の肩が微かに揺れた。
紅明は、凛夜に無理をさせようとはしなかった。語りかけることも少なく、ただ静かに見守っていた。
けれど、時折、凛夜は夢を見た。
それは、あの夜の再現だった。父と母の最後の声、仮面の男の冷ややかな気配、妖魔の咆哮――。
そして、手を差し伸べる紅明の影。
夢から醒めるたび、凛夜は、暗闇の中でひとり汗に濡れていた。
ある晩、凛夜はそっと部屋を抜け出し、屋敷の庭へと足を運んだ。夜の空気は冷たく、星だけが寂しげに輝いていた。
「眠ねぇのか」
紅明が、庭の端に座っていた。いつからそこにいたのか、まるで最初から凛夜を待っていたようだった。
「……夢を見るんだ」
凛夜が小さく口を開く。
「父さんと母さんが、何度も死ぬ夢」
紅明は何も言わなかった。ただ、月を見上げていた。
「どうして、あんなことになったんだ……俺が、何をしたっていうんだ……!」
震える声に、怒りと悲しみが滲む。
「お前は、何もしていない。ただ、狙われた。お前の血が、特別だからだ」
「特別なんて、いらなかった……!」
吐き出すように叫ぶ凛夜を、紅明はまっすぐに見つめた。
「では――どうする?」
「……?」
「お前の中に流れる力を、無視して生きるか。あるいは、その力で、君の両親の仇を討つか」
その言葉に、凛夜は初めて紅明を見た。
その目には、深い悲しみと、同じだけの怒りがあった。
「俺に……できるのか?」
「できるように、俺はお前を育てる」
紅明の声は、強く、そして静かだった。
「俺もまた、かつて大切なものを失った。お前と同じように。そしてその時、俺は決めた。決して繰り返さぬよう、己の力を鍛えると」
凛夜は、しばらく黙っていた。
やがて、その小さな手が、拳を握る。
手の中には、唯一持ち出せた母の指輪――
その指輪を強く握りしめる。想いと覚悟を込めて。
「……教えてくれるか?」
「望むのならば、すべてを。だが、道は平坦ではない」
「かまわない。俺は……もう、逃げない」
月明かりが、凛夜の頬を照らした。
その瞳には、幼さの残る怯えと共に、小さな決意が宿っていた。
紅明は頷くと、懐から一本の短剣を取り出した。陰陽師が式を刻むために使う、霊具のひとつだ。
「まずは、これに触れてみな。お前の内にある霊力が反応すれば、それはお前が『陰陽師の子』である証となる」
凛夜が短剣に手をかけた瞬間、微かに光が揺れた。
紅明の目が、わずかに細まる。
「……やはり、お前には血が流れている」
凛夜の物語が、今、静かに動き出した。
失った夜の果てに――
彼はまだ知らない。己の名が、やがて“夜を越える者”となることを。