第四十六話 ― 凛夜の章7 ― そして物語は動き出す。
次回からは篝の章。白鐘篝が妖魔カガリへと身を堕としたエピソードです。
あの邂逅から数年。凛夜はすでに逢魔の精鋭として名を馳せていた――
夜の森は、凛とした冷たさに包まれていた。
血の匂いが微かに残るその場に、凛夜は一人、佇んでいた。
少年の顔には、戦いの余熱がまだ残っている。
しかし、目だけは静まり返った湖のように、冷たく澄んでいた。
倒れ伏す妖魔の骸。その中には、先ほどまで激しく暴れていた巨大な獣の姿もある。
それを仕留めたのは、凛夜一人だった。
「ふん……。また、こんなもんか」
独り言のように、呟く。
声に揺らぎはない。情もない。あるのはただ、圧倒的な冷酷さ。
それでも、どこか無理をしているようにも見えた。
そこに、ふいに現れたのは、ひとりの妖魔の女性だった。
「ほお……これはまた、見事な手際じゃのう」
縁側で茶をすするような、のんびりとした調子の声。
その場に似つかわしくないその響きに、凛夜は眉をひそめた。
「……誰だ、お前」
「名乗るほどの者でもないがの。まあ、ただの通りすがりじゃよ。なに、ちとこのあたりに妙な気配を感じてな、様子見に来たというわけじゃ」
凛夜は目を細め、その女の気配を測った。
一見して只者ではない。だが、それが敵か味方か、判別できない。
「……このあたりは危険だ。下がってろ。俺の邪魔をするな」
「はっはっは、若いのう。礼儀もなにもあったもんじゃないわ」
口は悪いが、女の声音にはどこか慈しみのようなものがあった。
それが逆に、凛夜の警戒心を煽る。
「その目……まるで人を斬ることに躊躇いもないようじゃな」
「……存在する価値もない奴らばかりだ。俺は――俺の復讐のために生きてる。それ以外に意味なんていらない」
カガリの目が一瞬だけ鋭く光る。
(……そうか。これが、あの子の選んだ道か…儂の事は憶えてはおらんのじゃな)
しかし彼女はそれを表に出さず、いつものようにふわりと微笑んだ。
「……まあ、良い。せいぜい気張るといいわ。どうしてもというなら、その復讐の相手にたどり着くまでの道、少しばかり手伝ってやってもええぞ?」
「ふん、冗談じゃない。誰の手も借りる気はない。……お前も邪魔するなら斬る」
ピリ、と空気が張り詰める。だがカガリは、まったく怯まず肩をすくめた。
「はっはっは、やれやれ……ほんに最近の若いもんは怖いのう」
凛夜は剣を収めると、踵を返す。
「……やらないというらないならそれでいい。次会ったとき、敵なら斬る。それだけだ」
「(……この子、まるであの時の儂のようじゃの)
その背に、カガリは小さくつぶやいた。
「……おぬしの道が、どこへ向かうのか。見届けさせてもらうとするかのう」
その声は、森に溶けていった。
――そしてこの出会いの記憶は、後に凛夜の心に微かに残ることとなる。
けれど、あの出会いが運命を変えるものだったと気づくのは、もう少し先のこと。
(そして、すべてが始まった)
時は流れた。
久遠凛夜は、もはや「少年」ではなかった。
鍛錬の果てに磨き上げた術。
幾度も死地をくぐり抜けてきた胆力。
情を切り捨て、任務に徹する冷徹さ。
そのすべてが、「逢魔」の陰陽師たちの中でもトップクラスの実力者として、彼の名を確かなものとしていた。
陰陽術の理を重んじ、感情を捨てたかに見える彼の姿に、誰もが一目置いた。
けれどその内側では、今もなお、黒く沈殿したままのものがある。
――怒り。悲しみ。喪失。
それらは決して癒えぬまま、ただ静かに、底へと沈み続けていた。
そんな折だった。
凛夜の元に、ある討伐命令が下る。
「対象:妖魔“カガリ”。かつて最強と謳われた個体。各地で悪事を働いている。討伐せよ。」
その名を聞いた瞬間、凛夜の胸に微かな違和感が走った。
どこかで聞いたことがある。
いや、違う。もっと深く、もっと――温かくて、切ないような……
「……何を考えてる」
己を戒めるように、凛夜は小さく呟いた。
記憶のどこにも、そんな女はいない。
情に揺れてはならない。過去に囚われてはならない。
ただ、今の任務を遂行する。それだけだ。
やがて凛夜は、任務地に辿り着く。
そこでついに、彼はその妖魔――カガリと対峙する。
彼女の瞳を見つめた瞬間、凛夜の心は激しく揺れた。
瞳の奥に、ただの悪意ではない、深い悲しみと憎しみが隠されていることに気づいたのだ。
それは――自分と同じものだった。
凛夜は、一瞬その感情に飲まれそうになりながらも、心を殺した。
「情」を殺し、過去を殺し、己の感情を封じてきたのは、これまでも同じだったからだ。
彼は深く息を吸い込み、刃を振りかざす。
これは、己の定めた生き方。
悲しみも憎しみも、すべては祓うべき妖魔の証しなのだ。
凛夜の決意は固い。
これから始まる戦いの幕は、今、切って落とされたのだった。
これより凛夜とカガリは、幾度も戦うこととなる。
憎しみを棄てきれなかったかつての少年と、心の奥で滅びを望む、一人の悲しき女性の運命が交差した瞬間だった。