第五十話:篝の章4―届かぬ言葉―
それから幾月が経った。
藤原志晴は、生ける屍のように日々を彷徨っていた。
屋敷の障子を開け放ち、庭に沈む月を見上げては、呟く。
「……篝……すまない……すまなかった……」
かつて文を交わした筆はすっかり乾き、篝がくれた薬草の束も干からびたまま、机の隅に置かれている。
彼女の面影をとどめるものを手放すことなど、到底できなかった。
かつての志晴を知る者たちは、皆、言葉を失った。
その優しさも、穏やかな口調も失われ、ただ「ごめんなさい」「すまなかった」を繰り返す彼は、もはや誰の目にも「狂気の男」と映っていた。
けれど、志晴にとっては――それだけが、祈りだった。
もう届くはずのない相手に向けた、せめてもの懺悔。
ある夜、母がそっと見合いの話を持ってくる。
「志晴……もう、前を向いてもいい頃でしょう」
彼は静かに、しかし確かに首を振る。
「俺には……もう一度、いや、私にはあの人に会う資格すらない……」
誰が責めたわけでもない。
けれど、志晴の中にある罪は、誰よりも重かった。
それでも彼は、生きようとした。
この痛みを抱えたまま、生きて、悔いて、忘れずにいようと。
だが――それも、叶わなかった。
ある晩、冷たい雨が降っていた。
志晴は一人、篝が愛した小川のほとりに立っていた。
二人で並んで歩いた、あの道。
そっと手をつなぎ、花の名前を語り合った記憶が、胸を締めつける。
雨が降る中、志晴は静かに口を開いた。
「……篝……会いたい……ただ、それだけなんだ……」
足元に広がる水面に、月がぼんやりと映っていた。
「許されなくてもいい……けれど……一言だけ、伝えさせてくれ……」
そうして彼は、濡れた袴の裾を引きずりながら、水へと歩を進めた。
ひんやりとした流れが足首を包み、腰を、胸を、肩を――
やがて彼は静かに、空へと顔を向け、最後の言葉をこぼす。
「すまなかった……篝……愛している……」
その声は、水音にかき消され、やがて静寂に飲み込まれた。
志晴が亡くなったことを、篝が知ることはなかった。
あるいは、知ったとしても、それが慰めになったかどうかも、わからない。
けれど、その想いだけは、たしかに世界に残った。
――届かぬと知りながらも願った、赦しと、愛。
そしてその想いは、ひとつの呪いと化して――
やがて彼女を、完全なる妖魔へと堕とした。