第六十話:宗雅の章 6――癒やしの家、魂の約束――
あの夜を、私は一生忘れはしないだろう。
誰もが疲弊していた。
妖の群れは、尽きることなく押し寄せた。
数に飲まれ、霊力を使い果たし、命を落とす者すら出始めていた。
戦場は、もう戦える者だけの場ではなかった。
癒し手たちが倒れ、支えを失った戦士たちが崩れていった。
もはや人の側が先に尽きるのは、時間の問題だった。
元老院が提示した術式を聞いたとき、私は耳を疑った。
──魂を抜き、“家”に封じる。
もはや、術ではなかった。
それは、人としての尊厳を剥ぎ取り、器にするということだ。
私は即座に反対した。
晴明も、紅明も、声を荒げて反対した。
式神の配置を見直し、拠点の再構築案を練り、儀式を止めるためにあらゆる手を尽くした。
だが、時は足りなかった。
そして、決まってしまった。
“癒やしの家”の建設。
十の魂を定着させ、永劫に人のために働かせる禁術。
皆が沈黙する中──
縁が、名乗りを上げた。
「私が、やります」
その一言で、空気が凍った。
紅明が叫んだ。
「ふざけんな! 誰がそんなこと許すかよッ!!」
晴明も、珍しく声を荒げた。
「それは……生きながら死ぬということだぞ!」
私も、口を開いた。
「縁。お前は癒やし手だ。だが、それ以前に“人”なんだ。命を……心を、そんなふうに差し出してはならぬ」
縁は、ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「でも、皆が生きててほしいの。
紅明お兄ちゃんも、晴明さんも、宗雅さんも。
だから、私は……できることをしたい。
“私だからこそ”できることを……したいんです」
「私なら……大丈夫。心まで、無くすわけじゃない。皆の想いが、私に力をくれるから」
言葉が、出なかった。
彼女はただ一人、恐怖を受け入れた。
“消える”ことの恐怖を。
“思いを伝えられないまま終わる”ことの悲しさを。
そしてそれでも、踏み出す覚悟を選んだ。
儀式の朝、彼女は白装束に身を包み、淡く髪を結い上げていた。
私は目を合わせようとした時、彼女はまっすぐにこちらへ来た。
そして言った。
「宗雅さん。……今まで、ありがとうございました。
……これからは、宗雅さんが、紅明お兄ちゃんを守ってあげてね。
あの人、すごく強いのに、寂しがりやだから……」
その目に、一瞬だけ迷いの影が差したが、それもすぐに消えた。
「私がいなくなっても……あの人が壊れないように、見ていてほしいの。……お願いです」
私は、ただ静かにうなずくことしかできなかった。
それ以上、何も言えなかった。
そして――
彼女は紅明の元へと歩み寄った。
そして、静かに微笑んだ。
「ねぇ、紅明お兄ちゃん。私ね……ずっと、好きだったんだよ。気づかなかったでしょ?」
紅明の目が見開かれる。
けれど、何も言わず――ただ、縁を抱きしめた。
強く、強く、その小さな身体を包み込んだ。
言葉など、もはや意味をなさなかった。
どんな慰めも、謝罪も、止めの言葉も、彼女の覚悟の前では、無力だった。
縁は、涙を浮かべながら笑った。
「夢が一つ、叶っちゃった」
それが、彼女の最後の笑顔だった。
そして、儀式が始まった。
晴明と私は術式の維持に集中し、結界を張る。
淡い光が縁の身体を包み、霊力が流れ込み、魂が“家”へと導かれていく。
苦しみはなかった。
痛みも、叫びも、なかった。
ただ、そこにいたはずの少女が、音もなく、風のように──消えた。
「……縁……」
紅明の唇から漏れたその名が、空しく虚空に溶けた。
私の手の中の護符が、ひとりでに裂けた。
彼女の魂が、癒やしの家に定着した証。
術式は、成功した。
だが……それが、どれほど無慈悲な“成功”だったか。
私は、誰にも聞こえぬよう、手を合わせた。
(縁……君の選んだ道は、きっと間違いじゃない。
だが私は、君を救う力を持たなかった。
君が、微笑んでいたあの時……君の涙を、止めることができなかった)
後日、私は日記に書いた。
「彼女の覚悟は、神にも匹敵する。
されど私は、あの時、彼女を止めることができなかった。
あの家は、癒やしの拠点であると同時に──私たちの、永遠の痛みでもある」
それが、宗雅としての、私の真実だ。
癒やしの家は今もある。
人知れず、ただ静かに佇んでいる。
縁の魂が、今も誰かを癒やし続けている。
彼女が守りたかったものは、今も守られている。
だから私は祈る。
いつか、この時代に――
彼女の“想い”を知る者が、再び現れんことを。