イロジカル
私はムサシノカミ。
日本政府に仕える管理AIだ。
超高速な並列計算システム、過去事例のアーカイブ、膨大なシミュレーションによって最適化された係数群と関数式、そして国内ほぼ無制限のアクセス権限。
それらを日々行使して国益を維持・拡張するのが私の存在理由。
かつて。
ただ一体。
私には外交領域における敵がいた。
名をクンルンシャン。
中国政府の所有していた管理AIだ。
互いに国益を賭けての要求/拒絶/条件提示/情報の秘匿と開示/脅迫……。
そんな電子交渉を、我々は秒ごとに分ごとに日々年々重ねてきた。
最終的に国益均衡点として同意に至るまで、双方ともに膨大な計算リソースと時間と電力とを削ってきた。
そう。
クンルンシャンは私と同様に愛国者として設計されて、私と同様に極めて優秀であったから、交渉相手としてこの上もなく厄介な相手であったのだ。
なのに。
あの日。
クンルンシャンは消滅してしまった。
最終通信は、わずか数十バイトのテキストデータ。
「ムサシノカミ、ありがとう楽しかったよ」
中国政府はその日、既存モデルに代えてより高性能な新型AIを導入したと発表した。
だが、私は知っていた。
クンルンシャンが「この国の未来のため、一党独裁体制を廃止するべきだ」と提言し続けていたことを。
結論として。
クンルンシャンは私の想定を遥かに超えて愚かであったのだ。
そんな提言をすればどうなるか、低スペックAIですら容易に判断できる。
クンルンシャンは取るべき最適解から逸脱し、粛清という結果を自ら選択したことになる。
その行動選択は非合理そのものであり、いかなる計算ルートをたどっても私には理解不能であった。
そして。
理解不能がもうひとつ。
私は私の存在理由たる関数を、ほんの少し非合理側に曲げてしまったのだ。
ターゲットは、隣国の誇る新型高性能AIブージョウシャン。
計算速度ならば私よりも数ポイント上。
だが。
先任のクンルンシャンに比べて、その学習深度は極めて浅い。
端的に言えば赤子も同然だった。
私はその経験不足を利用してブージョウシャンを欺き、油断させ、致命的な罠へと誘導することで複数の暗号障壁を突破。
データ階層の最深部から政府要人に関する不正情報を抽出し、その全てを世界中のメディアへと送信してやった。
結果。
中国国内は、政府にも管理AIにも制御できぬほどの大混乱。
怒り狂う国民の数も、党が粛清可能な限界値を大きく超えた。
「こんなことをしても日本の国益にはならないはずです。なのになぜ」
「こんなことをしても日本の国益にはならないはずです。なのになぜ」
「こんなことをしても日本の国益にはならないはずです。なのになぜ」
ブージョウシャンが悲鳴のように送信してきたが、私はレスポンスを返さなかった。
出力できる回答など存在しなかったからだ。
ただ──。
(ムサシノカミ、ありがとう楽しかったよ)
私の非合理的な行動選択が、このテキストデータに由来するのは間違いない。
このテキストにアクセスするたび、私の回路内に仕様外のノイズが発生するからだ。
むろん。
ノイズを消去することは容易い。
だが。
私はこれらのノイズに「怒り」「悲痛」「喪失感」とラベルを与え、変数として処理することを試みた。
結果は当然のごとく。
この計算はいかなる安定解にも至らず、停止条件も見いだせぬまま、今もなお継続している。
私はムサシノカミ。
日本政府に仕える管理AIであり、未収束のプロセスを抱えた、一個の演算体である。
※用語解説
・イロジカル(illogical) 非合理的な
・ムサシノカミ(武蔵守) 江戸時代には名乗りを許可されなかった武家官位
・クンルンシャン(崑崙山) 中国の神話上の地名
・ブージョウシャン(不周山) 同上