第32話 波止場の狭間、沈黙の選択
アッシュは茶碗の縁に指先を当て、軽く叩いた。
そして静かに言った。
「……ブレグ。」
カヴィの表情からわずかに笑みが引いた。
視線がアッシュと布の包みの間を往復し、一瞬で何かに気づいたようだった。
「そうか……あの箱は、ヘルンがブレグに託したやつか。」
アッシュの目が細まる。
「知ってるのか?」
「ただの知り合いじゃない。」
カヴィは声を低く落とし、真剣な口調で続けた。
「俺が連邦に行ってた理由は、ブレグが死んだという知らせを持ち帰るためだった。……それを、ヘルンに伝える。」
アッシュの目が一瞬だけ沈む。
「お前もヘルンと繋がってたのか。」
カヴィは肩をすくめるだけで答えない。
「さてね、どうだろうな?」
アッシュの声が低くなり、わずかに鋭さを増した。
「……なら、何でヘルンは死人に荷を託した? 生きてるって知ってたなら、お前が直接運べば良かったんじゃないのか。」
「そこが奇妙なところさ。」
カヴィはアッシュをじっと見つめ、唇の端を持ち上げた。
「だが一番の驚きは、お前が――その箱を渡さなかったことだ。まさか偽物に気づいたとはね。」
アッシュは冷たく言い放つ。
「俺は、不公平な取引が嫌いだ。」
「……そうかもな。」
カヴィはまた肩をすくめた。「もしかしたら、ヘルンが途中で気を変えて、お前に預けるつもりだったのかもしれない。」
アッシュの身体がわずかに前傾し、声に重みが増す。
「くだらない話はもういい。時間を無駄にする気はない。」
立ち上がろうとしたその瞬間、リゼリアが彼の手の甲にそっと手を添えた。
声は穏やかだったが、そこに含まれる一抹の圧は拒絶を許さなかった。
「前線に立ってた人って、どうしても焦るのね……こういう時は、落ち着いて話を聞いて。」
彼女はそのままカヴィへと向き直り、唇にわずかな笑みを乗せる。
「あなた、耳がいいのは分かったわ。じゃあ、私たちがここを離れる方法も――知っているんでしょう?」
カヴィはその問いに愉快そうに笑った。
「方法なんて、いくらでもあるさ。港が封鎖されたとはいえ、すべての船が出港できないわけじゃない。」
「へえ?」
リゼリアが興味なさそうに眉をひそめる。
「一つは非合法な航路――漁船が使う裏道だな。貨物も人も少なく、島を迂回するコース。連邦でも王国でもない、どこの支配にも属さないルートだ。……リスクについては説明不要だろうが。」
カヴィは手に持った茶碗をくるりと回した。
「もう一つは、国の旗を掲げた正式な船に乗ること。たとえば、王国の商船。あれなら検問も敬礼して道を開ける。」
彼はそこで一拍置き、目線をアッシュへと滑らせる。
「もちろん――乗るには、許可が必要だけどな。」
アッシュの表情は変わらなかったが、指先が無意識に机を軽く叩いていた。
リゼリアは皮肉を込めたような微笑みを浮かべる。
「それってつまり……警告?」
「どうとでも取ってくれて構わないよ。」
カヴィは気にする様子もなく肩をすくめる。
「出港の自由を持ってるのは、結局――権力を持つ者、金を持つ者……あるいは、“貸し”を持つ者。」
「……ふふ、あなた、そういう人たちに興味があるみたいね。」
リゼリアが冗談めかして言うと、カヴィは否定せず、ただ静かに茶を飲み干した。
「さっきの話、全部タダでくれてやるよ。面白い話があったら……また寄ってくれ。」
アッシュはそれを聞いても大きな反応は見せず、ただ手元の茶碗を机の中央へと押し出す。
「……考えておく。」
淡々とした声は、まるで価値のない取引について語るかのようだった。
カヴィはその返答に驚いた様子もなく、眉をひとつ上げてにやりと笑った。
「港がまだ騒がしいうちに、じっくり考えることだな。潮は、待ってくれない。」
リゼリアが茶を一口飲み、アッシュに向かって言う。
「……行きましょう。」
リメアは焼きパンをかじりながら、二人を見上げる。
尻尾をふりふりと揺らして、まるで「まだ食べてるよ」と無言で訴えていた。
アッシュが立ち上がろうとしたその時、カヴィの声が再び背後から届いた。
「……今夜の港は落ち着かないぞ。北へ二本通りを行ったところに『塩の樹亭』って宿がある。そこの主は古い友人でな、勝手に誰かが入り込むことはない。」
リゼリアはちらりと彼に視線を送る。
「……ずいぶん親切じゃない。」
アッシュは懐から数枚の硬貨を取り出し、テーブルに置いた。
「情報料だ。」
だがカヴィはそれを押し戻し、意味深な微笑みを浮かべた。
「いらないさ。……俺は、“貸し”を売る方が好きでね。」
アッシュは彼を一瞥したが、それ以上何も言わずに茶館の扉を開け、外へと出た。
扉が閉まり、薄暗い明かりが切れると、海風が正面から吹きつけてくる。
塩気と魚の匂いを含んだ冷たい風が、茶の香りよりもずっと鋭く、現実に引き戻すようだった。
陽の傾いた港は、先ほどよりもさらに騒がしく、叫び声と船の鐘が入り混じっていた。
まるで、嵐の前触れのように――そのざわめきが、不穏な気配を告げていた。