第61話 解き放たれた翼
二日目の旅もまた、果てしなく長かった。
彼らは人目を避け、昼のもっとも賑わう刻には森や河辺の陰に潜み、移動の大半を夕暮れから夜明けにかけて進めた。
夕陽が沈みゆき、空は深紅に染まる。荒原の影が長く伸び、馬蹄の音が乾いた土路を叩く。風には干草と湿った泥の匂いが混じっていた。
その時、アッシュの脳裏に澄んだ声が響く。
【アッシュ……竜がいる。近づいてる。】
リメアの足は止まらない。けれど首をもたげ、薄く翼を広げて、暮れなずむ空を見据えた。
アッシュの眼差しが鋭く沈む。手綱を強く引いた。
「……前方か?」
リゼリアも気配の異変を察し、すぐに姿勢を正す。
「王国の竜騎士……?」
風がうなる。草原の奥から、低い鳴き声がわずかに伝わってきた。
それは獣ではない――竜の息遣いだ。
遠くで羽ばたきの重音が重なり、やがて風と分かつほどの圧が空気を震わせる。
リメアが頭を上げ、喉の奥から低い唸りを漏らした。
幼い竜の声に、怯えの色はなく、確かな警告が宿る。
アッシュは息を詰め、馬を止めた。
「降りろ。」
自らも飛び降り、リゼリアを林の影へ退かせる。指はすでに魔導銃の引き金へ。
馬たちは竜気に怯え、震えながら嘶く。
次の瞬間、空を覆う影――四頭の竜が降下した。
翼が空気を叩き、耳を裂く轟音が夜を震わせる。
四人の竜騎士が姿を現した。胸には王国の紋章。冷たい目。
先頭の男が嘲るように笑った。
「やはりな……あの王女め、何か隠していると思った。叛国者を庇い、よくも堂々と匿ったものだ。」
アッシュは黙ってその視線を受け止めた。
「――言葉は要らない。」
魔導銃が閃く。
轟音とともに、弾丸が一騎の竜鞍の帯を断ち切った。
巨竜が身を翻し、騎士ごと地に叩きつけられる。
「貴様ッ!」
残る三人が同時に銃槍を構え、竜を駆る。
咆哮、土煙。爪が地を抉り、空気が爆ぜる。
アッシュは一瞬で後方に跳び、刃先をかわす。衣の裾が裂け、風が唸る。
リメアが躍り出た。幼竜の翼が夜気を裂き、アッシュの前に身を張る。
その咆哮はもはや子の声ではなかった。
竜たちの声が空を裂き、草木が伏す。
銃火が閃き、弾丸がアッシュの肩を掠めた。血が飛ぶ。
彼が踏み込みかけたその時――
澄んだ歌声が夜を割った。
リゼリア。
林の縁に立ち、微かに首を仰ぐ。唇からこぼれる旋律は祈りのように静かで、風と共鳴する。
竜たちの瞳が、揺れた。
翼が震え、動きが乱れ、そして地に降り伏した。
低い鳴き声。混乱。戦意が消える。
「何をしている! 立て!」
騎士たちは必死に手綱を引くが、竜は動かない。
アッシュは目を見張った。
――これは支配ではない。解放だ。
「下りろ!」
隊長が怒鳴り、騎士たちは竜を捨てて突進する。
リメアが吠える。翼を張り、アッシュの前に立つ。
鱗が暮色を映して光り、幼い身で一歩も退かない。
【――守る。今度は、あたしが。】
銃声と刃音。
アッシュは引き金を弾き、閃光の中へ踏み込む。
一人の剣を弾き、肘で鳩尾を打つ。
もう一人が槍を突く。刃を滑らせ、柄を断ち切り、膝で鎧を砕く。
残る二人が左右から迫る。剣が唸り、火花が飛ぶ。
アッシュは腕を翻し、連撃を受け流して蹴り返す。
リメアが唸りを上げ、突進。泥が舞い、一人を地に弾き飛ばした。
刹那のうちに、戦は決した。
倒れ伏す四人の騎士。呻きと呼吸だけが荒地に残る。
アッシュは静かに剣を納め、一本ずつ縄で縛り上げる。
「……縄を解いたら帰れ。次は、容赦しない。」
低い声が、鉄のように響いた。
誰も逆らわなかった。
リメアが彼の足元に寄り、尾を巻く。
なお警戒を解かぬまま、目だけで彼を見上げる。
伏した竜たちは、まだ地に沈んでいた。
戦意を失い、ただ困惑と痛みに息をつく。
リメアが静かに歩み寄る。
そしてアッシュとリゼリアを見た。
【……この子たちを、自由にしていい?】
リゼリアが目を瞬かせ、アッシュを見る。
彼はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
リメアは頭を上げ、夜空に声を放つ。
その鳴き声は歌に応えるように響いた。
〈もう従うことはない。帰って。自分の空へ。〉
竜たちはしばし沈黙し、やがて翼を広げる。
鉄の鞍が落ち、鈍い音を立てて砕けた。
風が唸り、草木を伏せる。
一声、また一声。
竜たちは夜を裂き、飛翔した。
その影が暮色の向こうへ消えていく。
リゼリアは黙ってその光景を見つめていた。
アッシュもまた、ただ立ち尽くして空を見送る。
――この瞬間から、リメアはもはや「従竜」ではない。
その声は、新たな竜王の証になるだろう。
馬が怯えて鼻を鳴らす。
アッシュはそっと手綱を撫で、鞍を締め直す。
リゼリアは地に散った荷を拾い集めながら、ふと彼を見上げた。
肩口の血が滲み、横顔はまだ硬い。
唇が震え、結局、かすかな声にしかならなかった。
「……無事で、よかった。」
アッシュは短く「……ああ」とだけ答え、荷を馬へ掛けた。
リメアが尾で彼の足を軽く叩く。
瞳が夜空を映して光る。
その空には、もう竜の影はない。
三人は再び歩き出す。
夜はすでに暮光を呑み、残るのは蹄と風の音。
彼らの進む先、リュミエラの方角へと――。