第62話 光の街、リュミエラ
夕陽の最後の光が遠くへ沈み、地平線に無数の灯が星海のように瞬き始めた。
――リュミエラ。伝説に語られる自由都市が、ついに目の前に現れる。
王国の石壁都市とは違い、ここに高い望楼はない。代わりに大きなアーチ門と、門口から続く喧噪の市が口を開けている。大通りの両側には雑多な建築が肩を並べ、鍛冶場は火花を散らし、工房は歯車の唸りを響かせ、塔の頂では魔導光球が浮遊していた。行き交う人波は装いもさまざまで、言い争いと笑い声が同時に溢れている。
「まずは酒場ね。噂を拾って、それから動きましょう」
リゼリアの瞳がきらりと光る。
三人は馬を引いて人波を縫い、灯り賑やかな一軒の酒場に腰を落ち着けた。中は騒がしく熱気に満ち、情報と与太話が杯と賽の音に混じって流れていく。
リゼリアは程なく、隅の卓で商人たちの会話を拾って戻ってきた。
「……『王子が反逆』なんて、もう古い話だってさ」
「王国の揉め事なんて関係ない、ってね。今は新しい魔導工房の開店でもちきり」
彼女は肩の力をわずかに抜き、目元に安堵を滲ませる。
「ここでは、心配しすぎなくてよさそう。情報の回転が早すぎて、王国の話題はすぐ別の話に飲まれていくわ」
アッシュは彼女を見据え、冷ややかに問う。
「お前は? 『魔女』――この街なら、気にされないのか」
リゼリアの表情が一瞬止まり、視線を逸らす。
「少なくとも、ここでは……火刑の理由にはならないわ」
その後、彼らは宿に馬と荷を預け、灯りの落ち着いた小さな食堂で夕餉をとった。酒場の喧噪とは対照的に、壁灯が数盞、黄の光を揺らすだけだ。
短い沈黙ののち、アッシュが口を開いた。
「一つ聞く。あの夜……お前の歌で、なぜ竜たちの戦意が消えた? リメアには効かなかったのに」
リゼリアの匙がふと止まり、皿に静かに戻る。
「龍語は……厳密には言語じゃないの」
伏せた睫毛が微かに震える。指先が木卓をそっと撫でる。
「もっと――声と意念が織り合わさった『反響』。竜のいちばん奥に触れる、共鳴みたいなもの」
アッシュの眉間に深い皺が刻まれる。
「どうしてお前にそれがわかる。魔女に教わったのか」
短い沈黙。
蝋の灯が揺れ、彼女はそっと顔を上げる。
「……違うの」
掠れたほどの小さな声。それ以上は続けなかった。
アッシュはその琥珀の瞳から何かを読み取ろうとする。けれど彼女はわずかに顔を背け、言葉を宙に残したまま。
彼はひと呼吸置き、低く言う。
「……その魔女といた頃、お前は――ろくな暮らしをしていなかったんだな」
リゼリアは伏目のまま、平坦に告げる。
「彼女は私に、いろいろ『試させた』わ。生肉、内臓、腐ったものまで」
「だから――肉を食べると吐くの。滑稽でしょ?」
アッシュの瞳がわずかに揺れた。いつもの彼なら、冷笑の一つも返しただろう。だが今は、ただ彼女を見つめる。抑えた悲しみの色が、そこに滲んだ。
その表情に、リゼリアが息を呑む。予想もしない反応が胸をきゅっと締め付けた。
空気が重くなりかけた時、窓の外から楽の音が流れ込む。夜風に運ばれた人声と琴の調べ。
給仕が笑みを浮かべて寄ってきた。
「お二人、セラウィンからで? 装いでわかりますよ。あちらの王女様はいつも商隊と行き来してます。今夜は広場で音楽会も。ぜひ」
アッシュは軽く頷くだけ。
リゼリアは窓の外に目を向け、近づいてくる楽の気配に小さく言う。
「……行ってみましょう」
◇
夜のリュミエラの広場は、灯と人声の海だった。
魔導光球が空に浮かび、石畳を柔らかく照らす。太鼓と弦の音が重なり、杯を掲げ、重鼓に足を鳴らし、長笛が夜風に絡む。ここに階級はなく、禁も少ない。ただ各々が夜に身を任せている。
アッシュとリゼリア、リメアは人波の陰に立つ。
リメアは目を丸くして首を伸ばし、珍しげにあちこち覗き込んでいた。
リゼリアは珍しく肩の力を抜き、旋律に合わせて小さく口ずさむ。灯りが彼女の横顔を撫で、いつもより柔らかな影を作る。
アッシュはその横顔を見て、胸の奥が微かに震えた。――この表情は、まだ知らない。
その時、楽を仕切る吟遊が彼女に気づき、笑って声を上げる。
「そこのお嬢さん、音がわかる顔だ。ひとつ、歌ってくれないか?」
人々がどっと沸き、拍手と口笛が重なる。
リゼリアは一瞬たじろぎ、断ろうとしたが、人波に押し出されるように前へ出た。
アッシュは眉を寄せ、止めかけて――彼女が振り返った瞳を見る。緊張の底に、避けられない決意の光。彼は黙って立ち尽くした。
音が止む。
息が止む。
リゼリアはひとつ深く息を吸い、星空を仰いで、ゆっくりと口を開いた。
清澄で遠い声。宮廷の華やぎではない、名も知れぬ古い旋法。
水が零れるように音が流れ、俗を離れた清らかさが広場を満たしていく。
杯が宙で止まり、笑いが喉で途切れた。
遠くの飼い慣らされた魔獣がざわめいていたのが、やがて身を伏せ、目を閉じる。まどろみの底へ沈むかのように。
アッシュは群衆の中で、ただ彼女の背を見つめる。
それは歌であり――人の心を動かす、力そのものだった。
――リゼリアは、隠れていられる存在ではない。
その事実を、これほど明確に思い知らされたことはなかった。
最後の音が溶け、雷のような拍手と歓声が広場を揺らす。
リゼリアは少し所在なげに壇を降り、足早に戻ってくる。まるで悪戯を見つかった子供のように。
アッシュは手を伸ばし、人波から彼女を庇う。
「……綺麗な歌だった」
誰にも聞こえない低さで、ただ彼女にだけ。
リゼリアは目を瞬かせ、胸がふっと跳ねる。
彼が、そんな声で、そんな言葉を――。
リメアがそっと二人のそばに寄り、低く鳴く。
淡い銀に藍の気が差す瞳がきらきらと光り、まるで同意だと言わんばかり。
近くの子供が「リザードもいっしょに歌ってる」と勘違いして笑い、周囲の空気はまた軽やかに弾んだ。
けれどアッシュとリゼリアは、胸の底で同じことを理解している。
――この夜を境に、彼女の歌は、もはや人混みに紛れるものではなくなるのだ、と。