第六十三話 ソウルレコード
蒸気を含んだ乾いた空気が頬を優しく撫で、金属と油のほのかな匂いが鼻をくすぐった。
外の涼しい空気との温度差で頬がわずかに火照り、髪の先に付いた湿気がすぐに乾いていく。
壁一面には複雑な解析図や魔術式の断片が貼り付けられ、光壁を流れる数式と共鳴し、ティラミスの魔導科学の深淵を垣間見せる。
机の中央に置かれた赤い魔導石は、心臓の鼓動のように淡く脈打っていた。私の胸のざわめきに呼応するかのように、揺らぎは時折鋭く、瞬きを刻むように、部屋全体へ微かな赤い影を落としている。
ストロー博士は椅子の背にもたれ、片手を軽く上げて私たちを迎えた。その仕草は悠然としていて、場を支配する空気はまるで彼女の掌の内にあるようだった。
「よく来たな。ほら、そこだ」
促されて私たちは机の前に歩み寄った。机の端には、私とお揃いの、お姉ちゃんのブレスレット型通話機が置かれている。使い込まれた小傷が光を反射していた。どうやらさっき博士が使っていたらしい。
博士は自分専用の通話機を持たず、必要な時は誰かのものを借りる——少し古めかしいそのやり方が、逆に彼女らしかった。
部屋の隅では、お姉ちゃんがベリーに淹れてもらった紅茶を優雅に口に運びながら、魔導通信機をカチャカチャ操作している。金属的な機械音が響き、紅茶の香りがほのかに漂っていた。
私たちの到着を確認すると、彼女はカップを机に置いてゆっくりと歩み寄ってきた。横顔には特に綻びもなく、博士に何か仕掛けた様子もなさそう。
私がお姉ちゃんの顔をじっと覗き込むと、一瞬だけ不思議そうな表情を見せ、やさしく微笑みかけてくれた。
そして、手招きで私を呼び寄せ、何も言わずに優しく頭を撫でてくれた。
赤い魔導石の揺らぎは、私の胸のざわめきをそのまま映すように速まり、またゆるやかに脈を打った。
ストロー博士は机の上の赤い魔導石に視線を落とし、その表面を指先で軽くなぞりながら静かに語り始めた。
「記憶――それはなぜか、いつも儚く風化してしまうものだ。思い出は少しずつ薄れ、いつの間にか形を失う。これが、人の宿命なのだろうな」
その声は低く、遠くの鐘の音のように胸に落ちてきた。
私は深く頷きながらも、言葉の奥に何か胸に引っかかるものを感じていた。博士の瞳は遥か彼方を見つめ、その奥には微かな悲しみが宿っているのが見て取れた。
「この研究に手を出した友人、レイとの日々――」
「リュミエール達の父であり、ティラミスの天才科学者。私は違法研究者としての彼しか知らないけれど」
「レイは妻を失った時、記憶が消えていくことに怯えた。愛した者たちの存在が思い出の中からも消えていく恐怖を。彼はそれを止めたかった」
博士の語りは淡々としているが、その言葉は意識の深くまで響いた。私たちは皆、静かに聞き入っていた。
やがて博士は、ルナリア族に伝わる『ソウルレコード』という禁忌の理論の断片に触れた。
「それはただの伝承だった。魂の刻印の理論の一部で、死しても魂の想いだけは記録として残せる——という話さ。私は物語の一部として話したまでで、まさか現実に実験に使われるとは思わなかった」
その言葉の間に、一瞬、博士の視線が私をかすめた気がした。
からかわれているわけではないのに、何かを見透かされたような、不思議な居心地の悪さが胸に広がった。
レイ・スロストの目に浮かぶのは、遠い昔の、亡き妻への想い――。
「レイの願いはただ一つ。死んでも子に想いだけは遺したい。だが、それがこんな形で現実になるとは……」
沈黙の重みが静かに部屋を包み込んだ。
博士が引き出しから、小さな赤い魔導石を慎重に取り出す。
その動きは宝物を扱うように緩やかで、石の光が指先に反射していた。
「これは、焔炎紅石を加工した物事の記憶を封じるだけのただの魔導石だ」
私は、首を傾げた。
何か腑に落ちない……。
「そして、これがレイが自らの理論の断片を元にさらに加工し、魔術式を組み込んで “ 想い ” を刻んだものだ」
言葉の重みが胸に突き刺さる。
私たちは、息を呑んだ。
私は博士の持っていたその石を手に取り、透かして光を覗き込む。内部の微細な輝きが波のように揺らめき、まるで湖底の灯火のように静かに揺れていた。
隣ではお姉ちゃんとニアも、呼吸をするのも忘れたかのように、食い入るように覗き込んでいる。
「完全な記憶の記録ではない。残っているのは、“ 記憶 ” ではなく、“ 想い ” や “ 心の残響 ” だ。だからこそ、本当の意味で『ソウルレコード 』は未完成だった」
ニアが表情を曇らせた。
「……残響、か」
博士が小さく頷く。
「そうだ」
博士は眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだった。
「まさか、私の話した禁忌理論が、こんな形で実用化されていたとは……」
その言葉に、私は思考を巡らせた。
真氷蒼石を使った記憶干渉の兆候は、偶然ではないかもしれない。
博士は机上に解析資料を広げ、指先でいくつかの式を示した。
「重要な点は、今回の記憶干渉に、『記憶を封じる石が使われていない』ということだ。にもかかわらず、お主らは “ 記憶が流れ込んだような感覚 ” を体験している」
ニアは小さく頷き、声を震わせて言った。
「魂同士の “ 共鳴 ” ……それが生んだ偶然、ということか?」
博士は深く頷く。
「そうだ。魔導石に込められた “ 想い ” がリアンの魂と波長で共鳴し、直接的な記録ではない形で感覚に届いた。だが、それは単なる偶然の産物ではない。必然的な干渉の可能性が高い」
博士の声が低く落ちて、部屋の奥から蒸気音が際立って響き渡った。
彼女が続ける。
「リアンはかつて死にかけた。その時、 “ 赤い悪魔 ” の影響を受け、魂の構造が変質した。結果、想念の干渉が起きやすい状態にあったと推測する――」
私は唇を結び、胸の奥でその意味を静かに反芻した。
「真氷蒼石の伝導率が極めて高く、雷魔法と組み合わせることで記憶中枢へのアクセスが可能になった。でも、今回の現象は、意図的な干渉ではなく “ 偶然の奇跡 ” ……」
私の言葉に博士は小さく首を縦に振ったが、その表情はどこか厳しかった。
「だからこそ、これからの研究は慎重に進めなければならない!」
私は静かに視線を上げた。
「リアンの記憶は戻っていない。でも、誰かの想いは確かに彼の中に残っている」
博士は頷き、再び赤い魔導石を見つめる。
「 “ 想いの継承 ” だな。記憶そのものではないが、魂が刻んだ残響が存在する。お主らの役割は、その想いを繋ぎとめることだ」
「ララちゃん、ス〜ちゃんが見付けてくれた記憶の足跡。レイの想い、私たちの願い、その全てが少しでも報われるように一緒に進んでいこう」
お姉ちゃんの真っ直ぐな声が胸の奥に温かく染み渡る。その瞬間、ニアの穢れの残滓が微かにざわめき、空気に目に見えない波紋を広げた。
「しかし、ここには光だけではなく闇も潜んでいる。穢れの影が――」
「リアンの中には、想いが遺された。対して、ニアの中には影が潜んでいる。だから、私たちは進まなければならない」
決意を込めた言葉が、静寂の空気を鋭く切り裂いた。
博士の目がわずかに光を増す。
「光と闇、想いと穢れ、共鳴と干渉――次に待つのは、穢れを癒す聖なる力を求める旅だ」
私たちは、力強く頷いた。
博士が別の解析資料を机上から取って私たちに渡し、机の端に置かれた真氷蒼石の破片を指した。
「リエージュへ向かうのだろう? 『天冥の樹』の伝承は、穢れを祓う力を持つ。ニア、お主の中にある影を癒せるかもしれん」
ニアが眉をひそめた。
「ストローは、あたしのことどこまで知ってるんだよ?」
「ルインとやらから得た情報だけだ。今はな」
その返事に引っかかりを覚えた。笑っているのに、その笑みはどこか冷たかった。
博士は赤い石を光にかざしながら続ける。
「覚えておくといい。想いは力になるが、穢れもまた形を持つ。癒すには、その穢れに触れなければならん。……触れる覚悟はあるか?」
「ある」
「ああ」
私とニアの返事に、博士は満足そうに頷く。
「よし。準備は整った。あとは、お主らが進むだけだ」
と、そのとき、後ろのニアがぼそりと思念を送ってきた。
(話も終わったっぽいし、部屋を出るなら急いだ方がいいぜ。メルトが変なことしないうちに。博士が弄ばれかねない)
(そう、だね……。今のところ、お姉ちゃんが博士に手を出す前みたいだし)
博士は私とニアの様子を見て何か感じたようだが、気に留める様子もなく、あちこちに散らかった資料を片付け始めた。
この会話がお姉ちゃんと博士に聞かれていなくて本当に良かった。本当に――。
それにしても――このストロー博士という人物は、一体何者なのだろう。
ティラミスで名を馳せるただの研究者、という枠には到底収まりきらない。
『ソウルレコード』という禁忌の理論、そしてルナリア族。
深まる博士への興味と謎。そして、ニアの穢れの行く末……。
研究室を出ると、ティラミスの夜の景観が眼下に広がっていた。
遠くには海が見え、灯台の灯りの揺らめきが幻想的な科学研究都市の夜を演出していた。
ニアが小声で言う。
「……博士、変だよな。なんか、全部分かっているみたいな言い方だし」
「うん。まるで、ずっと前から私たちを見ていたみたいに」
「ララちゃん。色々思うことはあるかもしれない。でもね、これだけは覚えておいて。ス~ちゃんは私たちを大切に想ってくれている」
階段を降りながら、ふと研究室の窓に目を向ける。そこに博士の姿があった。
淡い灯りに照らされ、じっとこちらを見下ろしている。その視線は優しくも鋭く、私の胸に密かに熱を残した。
リエージュへ向かう道の先に、何が待っているのかは分からない。
けれど、博士のあの言い回しと、ニアの冗談めいた一言が、私の胸の奥に小さな棘を残し、静かに疼き続けている。
まるで、私たちの行く末を知っていて、その道をそっと見守っているかのように――いや、導いているのかもしれない。