第七十三話 世界へ還る一滴
生きている――。
ただそれだけが、唯一私の心を落ち着かせている。
記憶の間。
あの揺らいだ景色が、指の隙間から零れ落ちる砂のようにほどけていく。
ゆっくりと収束していく光のなかで、胸の鼓動だけが乱れ、ひどく遠く聞こえた。
存在が薄れていく重圧。
戦いで負う痛みとはまったく違う、魂の内側を冷たく撫でるような恐怖……。
やがて霧が揺れ、視界がそっと開いていく。
そこに広がっていたのは、静寂の大書庫。
足を踏み入れた途端に、空気がひんやりと震えた。
魔晶窓の光が霧を透かし、浮遊する紙片は静かな弧を描いていた。
紙と魔力の匂いが混ざり合い、胸の奥に沈んでいた硬さがそっと溶けていく。
高く積み上がった書架が、霧の晴れた後の空のように整然と並んでいる。
さっきまで体を押しつぶしていた重さも嘘のように軽くなっていた。
無機質な空間のはずなのに、本の匂いがするだけで、胸がすうっと楽になる。
そんな自分に気付いて、少しだけ安心した。
硬い床の感触が足に戻った瞬間、私は大きく息を吐いた。
お姉ちゃんもニアも、胸の奥にまだ言葉にならない思いを抱えた様子。
ただ、無言の時間だけがこの場では形を保っていた。
「君たちに渡すものがある……。正式な登録証」
「これは?」
「外来者に一定の権限を与えるもの。『天冥の証』と呼ばれている。書庫閲覧の許可、結界内の立入証、身分証……いろいろ兼ねている」
フィリエルが差し出したのは、霧の光を一滴すくったような色の水晶片。
その中心で、魔石と精霊の調和を象る『天冥の紋』が、私の月の力に寄り添うように明滅している。
この小さな光が、私の存在を世界に繋ぎ止める糸のようにも思えた。
……どこか懐かしい。
夜の底で月明かりに触れたときの、あの優しい感触に近い。
指先でそっと触れると、柔らかな脈動が手の内に馴染み、胸の奥から古い記憶が蘇ってくる。
──月の理。
思い出したかのように、その言葉がふいに脳裏を掠めた。
月の神秘は気の流れを掴む。
月明かりは汚れを癒す浄化の光。
月の満ち欠けが運命の歯車を動かす。
故郷で読んだ古い魔法学入門書には、確かにそう記されていた。
そして、ストロー博士は言っていた。
『ルナリア族は精霊に近い存在。夜に近い場所。天空に在る月の一族』と。
穢れを癒し、満ち欠けと共に世界の流れを整える天空の理。
天冥とは、相反する場所にありながら重なり合う一本の線。
闇に沈む太陽の代わりに光る神秘を灯す月。
それは、この国を包む始まりの楔、天冥の樹に隠された記憶とも重なっていく。
リアンの記録への干渉もそう。
なぜ、満月でなければならなかったのか。
夜に寄り添うほど力が安定するルナリアの特性――。
「月の理って……本当に、ただのおとぎ話じゃなかったんだ」
思わず漏れた私の言葉に、お姉ちゃんが小さく頷いた。
「うん。ルナリアの居住域といい、この霧といい……おとぎ話よりずっと “ 現実 ” だよ」
その後、仕事に戻るクラウディアと別れた私たちは、フィリエルに書庫を案内してもらった。
本好きの私に付き合って、お姉ちゃんとニアも閲覧室まで一緒に来てくれた。
外来者には閲覧室への入室許可が必要で、『天冥の証』を使って、一人ずつ手続きを進めていった。
待っている間に、フィリエルが証の仕組みを教えてくれた。
彼女から教わったのは、対象者の魔力を動力に起動するため証の悪用ができないこと、街の案内図や施設情報の閲覧、利用履歴が確認できること。
そして、水晶片は持ち主の魔力に溶かして携帯できるため、紛失の心配もないことだった。
ここでは、これほどの技術さえ『当たり前』に使われている。
驚くことのほうが多いくらいだ。
閲覧室に入ったとき、ふと、一角の壁に目を奪われた。
淡い光に照らされた一枚の絵──。
薄明の街を遠景に描いた風景画。
控えめな色のはずなのに、ほのかに温かい。
なぜか懐かしい気持ちにさせてくれる素敵な絵画。
お姉ちゃんの家で見た絵にも似ている。
「……どこかで見たような?」
「お? あれね。名のある絵師の作品だよ。うちの実家の絵も、多分あの絵師のだと思う」
けれど詳しいことまでは覚えていないという。
私も、名前は聞いたことがなかった。
絵に宿るのは、魔法でもない。
ただ、人の手で描かれた『想い』の温度。
記憶の間で触れた冷たさとは、まるで逆の色彩。
ただ眺めているだけで、胸がじんわりと温かくなる。
だから私は、こういうものが好きなんだと思う。
本も、絵も、この場所も――その全てが私の心の底まで喜びで満たしてくれる。
ああ……落ち着く。
そうやって緊張がほぐれた、その瞬間だった。
また、あの刺すような視線。
視界の端を黒い影がすっと横切った。
人の気配はない。
フィリエルに最初に案内されたときにも感じた、あの黒い気配。
「……まただ」
「ララちゃん? どうしたの?」
お姉ちゃんが振り向く。
「……ううん。気のせい、だと……思う」
本当は違う。
そう答えたのは、影の存在を認めたくなかったから。
言葉とは裏腹に、胸の奥では別の答えが静かに形を成していく。
月の理は、力を “ 気配 ” として紛れさせる。
ならば、霧に守られた書庫で見える影は、本来見えてはならないもの。
違う、逆だ。
理から外れた者だからこそ、ここに紛れ込める。
そして――月の力を持つ私だからこそ、その微かな気配にも気付けた。
影はもう消えていた。
考えても答えは出ない。
来るべき時まで、焦らず構えていればいい。
今はただ――。
この至福の時間と、本の世界に身を沈めよう。
もしこの幸せが永遠に続くのなら……。
神という存在を、ほんの少しなら信じてみてもいいとさえ思えていた。