滑稽な手のひら返し
月曜日。
私が会社の自動ドアをくぐった瞬間、フロアの空気がピリッと張り詰めた。
「あ、おはようございます!」
「おはようございます、久住さん!」
すれ違う社員たちが、直立不動で挨拶をしてくる。
先週までは「おい邪魔だぞ」「コピー取っとけ」と私を顎で使っていた連中だ。
それがどうだ。まるでVIPを迎えるホテルマンのような低姿勢。
「……おはようございます」
私が小さく返すと、彼らはホッとしたように胸を撫で下ろす。
(……やりすぎたかな)
私は自分のデスクに向かった。
そこには、誰が置いたのか分からない高級菓子や栄養ドリンクが山のように積まれていた。
『いつもありがとうございます!』『尊敬してます!』という付箋付きだ。
現金なものだ。
私が「オークを瞬殺できる」と分かった途端、この扱い。
恐怖と損得勘定で動く、実にこの会社らしい光景だった。
「ひぃっ……!」
隣の席の課長が、私が座っただけで悲鳴を上げて椅子ごと後退した。
その顔色は土気色で、目の下には濃いクマができている。
昨日のダンジョンでの出来事がトラウマになっているらしい。
「課長、おはようございます。
今日の業務日報ですが」
「は、はいっ! なんでも仰ってください!
私が代わりに書きます! いえ、書かせてください!」
課長が高速でキーボードを叩き始めた。
私がボールペンをカチッと鳴らしただけで、「ごめんなさい殺さないで!」と頭を抱えて机の下に潜り込む始末だ。
……仕事にならない。
これでは、逆に居心地が悪い。
その時、内線電話が鳴った。
『総務部の久住様、至急、社長室までお越しください』
来たか。
私はため息をつき、席を立った。
◇
最上階の社長室。
普段は一般社員など立ち入れない聖域だ。
重厚な扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「やあやあ! よく来てくれたね、久住くん!
いや、久住『様』!」
社長が満面の笑み(引きつっている)で出迎えた。
部屋の中央にある応接セットには、特上の寿司桶と、ドンペリが置かれている。
勤務中なんだが?
「さあ、掛けてくれ! 遠慮はいらんよ!」
社長に促され、私は革張りのソファに深く腰掛けた。
社長は私の向かいに座り、額の汗をハンカチで拭った。
そして、部屋の隅には、先ほど逃げ出した課長が直立不動で立たされていた。
「単刀直入に言おう!
久住くん、君の査定を見直すことにした!」
社長がドンと机を叩いた。
「今までの非礼、本当にすまなかった!
君があんなに優秀な人材だとは知らなかったんだ!
そこでだ、君を来月から『特別執行役員』に任命したい!」
「……はぁ」
「給料は現在の3倍! いや、5倍だ!
専用の個室も用意する! 出勤時間も自由でいい!
どうだ、悪い話じゃないだろう?」
社長が身を乗り出してくる。
私は冷めたお茶を一口飲んで、静かに答えた。
「お断りします」
「なっ!?」
「役員なんて興味ありませんし、責任が増えるのも嫌です。
私は定時で帰って、家でご飯が食べられればそれでいいので」
私のつれない返事に、社長が焦り始める。
「な、ならば給料10倍だ!
ボーナスも弾む! 君の欲しいものはなんでも経費で買っていい!
だから……頼むから会社を辞めないでくれ!」
社長が頭を下げた。
その必死さは異常だった。
もちろん、私のことが好きで引き止めているわけではない。
「(……SNS対策か)」
昨日のダンジョンでの一件は、すでにSNSで拡散され始めていた。
『ブラック企業の強制ボランティアで社員が危機一髪』
『謎のOLがオークを瞬殺して救助』
もし私がこのタイミングで退職し、「実は会社にいじめられて辞めました」なんて暴露したら、この会社は終わりだ。
株価は大暴落し、取引先も逃げていくだろう。
社長はそれを恐れているのだ。
「久住さん、私からも頼む……!」
隅にいた課長がおずおずと口を開いた。
「君がいなくなったら、私の立場も……
いや、君の実力を正当に評価していなかった私が悪かった!
これからは君の靴でも舐める! だから機嫌を直してくれ!」
課長が床に這いつくばり、本当に私のパンプスに手を伸ばそうとする。
「……汚いので触らないでください」
私は冷たく言い放ち、足を引っ込めた。
滑稽だ。
一週間前まで、私を「給料泥棒」「無能」と罵っていた人間たちが、今は金と地位を餌に私を繋ぎ止めようとしている。
「社長、課長。
勘違いしないでください」
私はソファの背もたれに寄りかかり、二人を見据えた。
「私はお金が欲しいわけでも、出世したいわけでもありません。
ただ、平穏に暮らしたいだけなんです」
「だ、だから! その平穏を約束すると言っているじゃないか!」
「信用できませんね」
私は即答した。
「社員を盾にして自分だけ逃げようとした上司を、どう信用しろと?
私が魔物を倒せなかったら、今頃私はオークの餌になっていましたよ?」
「うっ……!」
「そ、それは……緊急避難的な……!」
「それに、給料10倍と言いますが」
私は社長の提示した金額を頭の中で計算した。
手取り15万の10倍で、150万。
(……昨日のオークの肉、ギルドに卸したら300万になったな)
私の副業(冒険者)の収入に比べれば、はした金だ。
そんなもののために、この腐った会社に縛られる義理はない。
「……もう遅いです。
あなたたちは、とっくに私の『許容範囲』を超えています」
私が静かに告げると、部屋の温度が下がった気がした。
社長の顔から血の気が引いていく。
課長はガタガタと震えだし、失禁寸前だ。
「ま、待ってくれ……! 話し合おう!」
「帰ります。午後の業務がありますので」
私は立ち上がった。
これ以上、話すことはない。
私がドアノブに手をかけた時、社長が叫んだ。
「お、おい! 待て!
君、就業規則を忘れたか!
退職するなら一ヶ月前には申し出る必要がある!
今すぐ辞めるなんて認めんぞ! 損害賠償だって請求できるんだからな!」
脅し。
飴がダメなら鞭か。
本当に救えない人たちだ。
私は振り返り、ニッコリと笑った。
「損害賠償、ですか。
いいですよ、請求してください」
「なっ……」
「その代わり、私も請求させてもらいますね。
これまでの未払い残業代、パワハラの慰謝料。
そして――昨日私が倒した魔物の『駆除費用』と『肉の代金』を」
私は指を折って数えた。
「オーク50体、ハイ・ウルフ30体、オーガ・ジェネラル1体。
市場価格で概算しても、数億円にはなりますけど……払えますか?」
「す、数億……!?」
「払えないなら、大人しく私の退職届を受理してくださいね。
……さもないと」
私は目を細め、少しだけ魔力を漏らした。
ゾクリ。
空気が歪む。
社長室の窓ガラスに、ピキピキと亀裂が入る。
「昨日のオーガみたいに、会社ごと『解体』することになりますよ?」
「ヒィィィィッ!!」
「わ、わかった! 分かったから殺気を出さないでくれぇぇ!」
社長と課長が抱き合って悲鳴を上げた。
交渉成立だ。
「失礼しました」
私は一礼して、部屋を出た。
背後からは、まだ二人のすすり泣く声が聞こえていた。
◇
自分のデスクに戻った私は、引き出しから一枚の封筒を取り出した。
『退職願』。
入社して三ヶ月目からずっと準備していたものだ。
ついに、これを叩きつける時が来た。
(……長かったなぁ)
コピー取りの日々。
理不尽な説教。
安月給でのサバイバル生活。
それももう終わりだ。
私はペンを取り、日付欄に『今日の日付』を書き込んだ。
その時、スマホが震えた。
レオンからだ。
『剣聖レオン:準備はできたか?
新しいダンジョンが見つかった。
ドラゴンが出るらしい。
……最高のステーキが食えるぞ』
私は画面を見て、ふふっと笑った。
タイミングが良すぎる。
まるで、私の背中を押してくれるようだ。
『ハナ:了解。
ちょうど今、身辺整理が終わるところよ』
私は返信を送り、退職願を胸ポケットにしまった。
さあ、最後の仕上げだ。
明日、これを提出して、私は自由になる。
私の新しい人生(冒険者ライフ)が、すぐそこまで来ていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
ついに次回、退職!?
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