人生やり直しボタン
「あの時、ああしていれば」って、誰でも思うよな。もし、本当に、人生をやり直せるとしたら? 最高のハッピーエンドと、最低のバッドエンドが、同時に存在する。そんな、SFならではの皮肉な話だ。
私の人生は、後悔でできていた。
三十年前、私、田中は、海外転勤の話を、断った。若かった私は、見知らぬ土地で、一人、挑戦するのが、怖かったのだ。
その結果、私は、全てを失った。
転勤を断った私に、愛想を尽かし、恋人は、私の元を去っていった。仕事も、結局、うだつの上がらないまま、先日、寂しく定年退職を迎えた。
もし、あの時、挑戦する道を選んでいれば。
輝かしいキャリアと、愛する家族に囲まれた、全く違う人生があったのではないか。
そんな、あり得たかもしれない未来を、夢想するだけの日々。
そんな私の前に、ある日、奇妙な広告が現れた。
『人生、やり直しませんか? クロノ・リプレイ社』
それは、アンダーグラウンドで、富裕層向けに、極秘裏に行われているサービスらしかった。
全財産を払えば、過去の、指定した日時の自分に、一度だけ、短いメッセージを送ることができる、という。
これだ。
これしか、ない。
私は、震える手で、連絡を取った。そして、退職金と、なけなしの貯金、その全てを、かき集めた。
私が、メッセージを送る日時は、決まっている。
三十年前、海外転勤の返事を、上司にする、あの日の朝だ。
送るメッセージも、決まっている。
文字数制限は、20文字。私は、祈りを込めて、その言葉を、入力した。
『恐れず、行け。未来は変わる』
.サービス担当者の、厳かな声が、部屋に響く。
「よろしいですね? 送信します。なお、当サービスは、メッセージの『送信』を保証するものであり、その結果を、保証するものではございません」
当たり前だ。私は、頷いた。
「送信、完了しました」
静かな電子音と共に、全ては、終わった。
やった。やったんだ。
私は、三十年間の、重い、重い、後悔から、ついに、解放された。
過去は、変わった。新しい、輝かしい人生が、今、始まるはずだ。
私は、目を閉じた。この、薄汚い、孤独なアパートの部屋が、豪華なマイホームの、温かいリビングへと、書き換わるのを、待った。
だが。
一分、経っても。十分、経っても。
何も、変わらない。
目を開けると、そこにあるのは、見慣れた、シミのついた天井と、埃をかぶった、家具だけ。
おかしい。何かの、間違いだ。
私は、パニックになりながら、クロノ・リプレイ社の、サポートセンターへと、電話をかけた。
「あの! 何も、変わらないのですが!」
『左様でございますか。ですが、お客様、ご安心ください。メッセージは、確かに、三十年前の、お客様ご自身に、届いております』
電話口の、丁寧な、だが、感情のない声が、答える。
「じゃあ、なんで! なんで、俺の人生は、変わらないんだ!」
『お客様。お客様の過去が、改変された時点で、新たな、別の『世界線』が発生いたしました。その、新しい世界線におられる、海外転勤を決意なさったお客様は、今頃、大変、幸福な人生を、歩んでおられることと存じます』
「……は?」
『お客様は、あくまで、過去を変えなかった、元の世界線におられる『お客様』でございます。言わば、新しい人生の、下書き、あるいは、ボツになった、プロトタイプ、とでも、申しましょうか』
私は、受話器を、落とした。
ああ、そうか。
俺は、人生を、やり直したんじゃない。
全財産をはたいて、この俺とは違う、幸せな、もう一人の「俺」を、作り出しただけだったんだ。
そして、俺は、ここに、取り残された。
後悔に満ちた、古い人生の、残骸として。
ただ一つ、増えたものがあるとすれば。
それは、どこか別の宇宙で、幸せに暮らしているであろう、自分の、輝かしい人生を、想像できる、という、新しい地獄だけだった。
今の自分を、どうにかするしかないんだよなあ。