第26話『ブラック企業(幸福)の日常』
『エンパイア・プロモーション』の社長室。
その重厚なデスクの上に、バサッという乾いた音と共に一枚のペーパーが投げ出された。
「⋯⋯見なさい」
西園寺レイコ様は組んだ脚を組み替えながら冷淡に顎をしゃくった。
恭しくその紙を手に取って眺めると私の向こう一週間のスケジュール表だった。
一見して目がチカチカする⋯⋯空白がない。文字がミクロサイズでびっしりと詰め込まれ、まるでバーコードのように黒い帯が連なっている。
月曜:早朝4時起きロケ → 移動 → 雑誌取材3本 → 移動 → ラジオ収録 → 深夜バラエティ収録(27時終了)
火曜:そのまま地方へ移動 → ⋯⋯
ざっと計算してみると睡眠時間は平均3時間。それもベッドで眠れる保証はなく、移動中の車内での仮眠を含んでの数字だ。
労働基準法? 何それ美味しいの? と言わんばかりの完全なるブラック企業の勤務実態。
「鉄は熱いうちに打て、と言うでしょう?」
レイコ様は、私の驚愕(と彼女が思ったであろう)の表情を見て、冷ややかに告げた。
「あの騒動のおかげで、今の貴女にはハエのように仕事が群がってきているわ。同情、好奇心、怖いもの見たさ⋯⋯理由はなんであれ、金になる。稼げる時に限界まで稼ぐのが、道具の役割よ」
彼女の瞳には慈悲など欠片もない。あるのは私という資源を骨の髄まで搾り取ろうとする、冷徹な経営者の計算だけだ。
(⋯⋯素晴らしい)
私はスケジュール表を握りしめ、感動に打ち震えていた。
(レイコ様が、私を必要としてくださっている⋯⋯! 「稼げる」と判断し、私の時間を1分1秒たりとも無駄にせず、すべてご自身の利益のために管理してくださっている!)
過労死ライン? 上等だ。推しのために働き、推しのために稼ぎ、推しの財布を潤す。これ以上の幸せが、この世にあるだろうか?
私の命など、レイコ様のガソリンになるためにあるようなものだ。燃やせ、灰になるまで燃やし尽くしてくれ。
「⋯⋯不満?」
黙り込む私を見て、レイコ様が眉をひそめる。
「滅相もありません!!」
私は食い気味に顔を上げ、満面の笑み(に見えるような、健気で悲壮な微笑み)を浮かべた。
「ありがとうございます、社長。私ごときにお仕事をいただけるだけで⋯⋯光栄です。馬車馬のように働かせていただきます」
「⋯⋯フン。精々、途中で壊れないことね」
レイコ様は興味なさげに視線をパソコンに戻した。
壊れないことね。とは「健康管理をしっかりしろ」という最上級の愛の言葉だ。
私はスケジュール表を胸に抱き、深く一礼して退室した。
さあ、地獄の(幸福な)デスマーチの始まりだ。
◇
それからの日々は、文字通り「泥」と「汗」と「悲鳴」にまみれたものだった。
華やかなアイドル仕事、そんなものは新生『Ai』には回ってこない。
私が求められているのは「薄幸」「悲劇」「汚れ役」という、エンタメの生贄としての役割だ。
【ケース1:土砂降りの廃工場】
「はい、カーット! OK!」
監督の声が響く――私は泥水の中に這いつくばったまま、荒い息を吐いた。
ミュージックビデオの追加撮影、降り注ぐ雨(放水車による人工雨だが、冷たさは本物だ)が、私の体温を容赦なく奪っていく。
衣装の白いワンピースは泥で茶色く汚れ、肌には擦り傷ができている。寒さで唇は紫色になりガチガチと歯の根が合わない。
「天宮さん、大丈夫!?」
「タオル! 早くタオル持ってきて!」
スタッフたちが慌てて駆け寄ってくる。彼らの目には、過酷な演出に耐える可哀想な少女が映っているに違いないが、私は泥水を啜りながら内心で奮起していた。
(見ていますか、レイコ様! この泥まみれの姿! 貴女が望んだ「地に堕ちた天使」の完成度を高めるために、私は今、最高の汚れ仕事をこなしています!)
【ケース2:激辛ラーメンとの死闘】
「さあAiちゃん、完食なるかー!?」
バラエティ番組の激辛耐久コーナー、目の前には真っ赤を通り越してドス黒いスープのラーメンが鎮座している⋯⋯湯気だけで目が痛い。カプサイシンの暴力だ。
私は震える手で箸を取り、麺をすすった。
「っぐ⋯⋯!!」
激痛――舌が、喉が、胃袋が焼ける。涙が自然と溢れ出し、メイクを溶かしていく。
「ああっ、Aiちゃん泣いてる! 無理しなくていいんだよ!?」
MCが止めようとするが私は首を振って食べ続ける。この涙が視聴者の同情を誘い、視聴率に繋がるのだ。そしてそのギャラがレイコ様の口座に振り込まれる。そう思えば、この痛みすらスパイスにしかならない。
(もっとだ⋯⋯! もっと過酷な命令をください! 胃が爛れようとも、レイコ様の新しい靴代になるなら本望だ!)
【ケース3:深夜の心霊スポット】
「⋯⋯ここ、出るらしいんです」
深夜2時、山奥の廃トンネル⋯⋯照明係もいない、定点カメラとハンディカメラだけを持たされた単独レポートを遂行中、漆黒の闇に滴り落ちる水音、底しれぬ何かの気配。
普通なら失禁レベルの恐怖体験をしながら私はカメラに向かって、怯えた表情でリポートを続ける。
「あそこに誰か⋯⋯いるような⋯⋯ひゃっ!」
私が小さく悲鳴を上げると、カメラの向こうでディレクターが「いい絵が撮れた」と親指を立てるのが見えた。
幽霊? 怨念? 悪いが、そんな不確かなオカルトなど私にとっては癒やしでしかない。
なぜならこの世で一番恐ろしく、かつ美しい「西園寺レイコ」という存在を知ってしまっているからだ。彼女の冷徹な視線に比べれば幽霊の恨めしそうな顔など、ただの変顔にしか見えない。
(お化けさん、悪いけど出てくるなら今すぐ出てきて。私のリアクション芸の肥やしになって、レイコ様の評価アップに貢献して!)
◇
そんな日々が続き、SNSでは悲鳴のような声が溢れていた。
『事務所はアイちゃんを酷使しすぎだ』
『目の下のクマがヤバい』
『これ完全に虐待でしょ』
『働き方改革って知ってるかエンパイア』
『やっぱり洗脳されているのでは?』
世間の同情は最高潮。しかし、私の身体は確実に限界を迎えていた。
深夜の移動車中、次の現場へ向かうワンボックスカーの揺れが三半規管を狂わせる。
「⋯⋯はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」
呼吸が浅い。偏頭痛が、こめかみをハンマーで殴られるようにガンガンと脈打っている。
指先が痺れて感覚がない。喉が渇いているのに水を飲む気力さえ湧いてこない。
マネージャー代わりの新しい無口な運転手が、バックミラー越しに心配そうに私を見ていた。
「天宮さん⋯⋯少し休みますか? PA寄りますけど」
「⋯⋯大丈夫⋯⋯です⋯⋯」
私は乾いた唇を引きつらせ、笑顔を作った。鏡を見なくてもわかる。今の私の顔色はメイクをしなくても十分「死人」のそれだろう。
スマートフォンを持ち上げる手が小刻みに震えている。重い⋯⋯スマホが鉄塊のように重い。
(⋯⋯ふふ、懐かしいな、この感覚)
私はぼんやりとした意識の中で思った。これは前世で「ランキングイベント」を走っていた時の感覚だ。
72時間耐久プレイ、眠気覚ましのエナジードリンクを過剰摂取し、カフェイン中毒で手が震え、心臓が早鐘を打ち、視界が狭まる。
HPバーは赤色点滅。状態異常マークがズラリと並んでいること間違いなし。
それでも私の精神だけは、異常なほど高揚している。
(生きてる⋯⋯! 私は今、レイコ様のために命を燃やしてる⋯⋯!)
脳内麻薬がドバドバと分泌され、痛みを快感へと麻痺させていく。
ランナーズハイならぬ社畜ズハイ、身体がボロボロになればなるほど「これだけレイコ様に貢献している」という実績が積み上がり、魂が満たされていく。
この疲労感こそが勲章でありこの頭痛こそが忠誠の証。
「⋯⋯早く⋯⋯次の現場へ⋯⋯」
私はうわ言のように呟いた。止まるな。止まったら死ぬ(回遊魚のように)。
レイコ様のために、私は最期まで踊り続ける「Puppet」なのだから。
◇
そして金曜日の早朝4時。今週のスケジュールをほぼ消化し、私はようやく社長室奥の倉庫へと帰り着いた。
「た、だいま⋯⋯帰り、まし、た⋯⋯」
誰もいない暗い倉庫に私の掠れた声が響く。足がもつれて段ボールの山に倒れ込むように座り込んだ。
意識が飛びそうだ⋯⋯泥のように眠りたい。30分でもいい、横にならせて。
――ピロン♪
その時、バッグの中でスマホの通知音が鳴った。
LINEの通知――この時間に連絡をしてくる相手など、世界に一人しかいない。
私は痙攣する指で必死に画面を操作した。表示されたメッセージは短かった。
レイコ様:『今すぐ地下のレッスン室に来なさい』
時刻は4時05分、帰宅して5分後の呼び出し。
しかも場所は地下だからエレベーターでの移動を含めれば、休んでる暇など1秒もない。
普通なら発狂する「鬼か!」「悪魔か!」「殺す気か!」とスマホを投げつける場面――私の反応は違った。
「⋯⋯⋯⋯っ!!」
カッ! と目に光が戻る。死にかけていた心臓がキュルルン! とエンジンを再始動させる。
(寝る間も惜しんで会ってくれるんですかあああああっ!?)
私はガバッと起き上がった。貧血で視界がブラックアウトしかけるが気合でねじ伏せる。
こんな早朝に呼び出し? つまり、これはプライベートレッスン?
あるいは、誰もいない地下室での秘密の折檻?
どちらにせよ、レイコ様と二人きりの時間が確約されたということだ!
「行きます! 這ってでも行きます!」
私はもつれる足で立ち上がり、よろめきながらドアへと向かった。体は鉛のように重く一歩踏み出すたびに関節が軋む音がする。壁に肩をぶつけながら廊下を千鳥足で進む。
傍から見ればゾンビ映画のワンシーンだが私の顔は――クマだらけで血の気のないその顔は、至福の笑みで歪んでいた。
(待っていてください、レイコ様! 貴女の忠実な犬が、今すぐ尻尾を振って馳せ参じます!)
エレベーターのボタンを押す指が震える。そのとき視界がぐらりと揺れた。
⋯⋯あれ? なんか、地面が近づいてくるような⋯⋯?
私は自分の平衡感覚が失われていることに気づかないまま、地下への直通ボタンを押し続けていた。
幸福なブラック企業の社畜は、倒れるその瞬間まで主人のことしか考えていなかったのだ。