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穏やかに生きたかった。ただ、それだけだったのに

作者: 秋月アムリ
掲載日:2025/11/03

 灰色の空が続く北の領地。

 グレイ伯爵家はその片隅で細々と続く、古い家柄というだけの弱小貴族だった。


 長女として生まれたルリア・グレイは、美しい銀灰色の髪をもつ、控えめで穏やかな性質の娘だった。

 数年前に病で母を亡くした悲しみもようやく癒えてきた。

 彼女の楽しみは、窓辺の小さな椅子に座り、父の書斎から借りた古い歴史書を読むこと。あるいは、冬の寒さから守るために育てている小さなハーブの鉢植えに水をやること。それだけだった。


(わたくしは、このままでいい)


 多くを望まないこと。それが下位貴族の娘としての処世術であり、彼女が生まれながらに身につけた諦念にも似た優しさだった。


 そんな彼女の運命が、にわかに華やいだのは半年前のこと。


 彼女より格上の、中央でも力を持つランバート侯爵家から、嫡男アルフォンスの婚約者としてルリアが選ばれたのである。

 理由は定かではなかった。ただ、ランバート侯爵家の当主が、かつてグレイ家の先代に世話になった恩義があるとか、そういう古い繋がりらしい。


 アルフォンスは眩しい青年だった。

 豊かな金髪は陽光を編み込んだようで、青い瞳は領地の空とは違う澄んだ夏空の色をしていた。

 彼が初めてこの屋敷を訪れた日、ルリアは緊張のあまり、お茶のカップを持つ手を震わせていた。


「緊張しなくていい。ルリア嬢」


 アルフォンスはそう言って、少し無愛想に、しかし不器用な優しさで笑った。

 その笑顔に、ルリアの心は生まれて初めて温かい光が満ちるのを感じた。


「わたくしで、務まるのでしょうか」


 不安を口にするルリアに、父であるグレイ伯爵は「務めるのだ」と厳格に言った。


「これはお前個人の婚姻ではない。グレイ家にとって、またとない機会なのだ」


 父の言葉は常に現実的だ。ルリアはこくりと頷いた。


(わたくしが頑張れば、家族が……父様たちが、少しでも楽になる)


 そう思うと、不安よりも使命感が勝った。

 しかし、ルリアのささやかな幸福に影を落とす存在が、この屋敷にはいた。


 義理の妹、リリアンナである。

 彼女はルリアより三つ年下で、父が外の女性に産ませた子だという。

 ルリアの実母が亡くなって数年後、親娘でこの屋敷に引き取られてきた。


 リリアンナは、ルリアとは対照的だった。

 燃えるような赤毛に、小動物のようにくるくると変わる表情。愛嬌を振りまくのが異常にうまかった。


「まあ、リリアンナはなんて可愛らしいのでしょう。あなたも少しは見習ったらどうです、ルリア」


 伯爵夫人は、血の繋がらないルリアよりも、リリアンナをあからさまに寵愛した。

 リリアンナは母の影に隠れ、ルリアだけにわかるように、いつも小さく舌を出していた。

 ルリアは、そんな義妹の振る舞いに気づきながらも、波風を立てることを選ばなかった。


(わたくしが姉なのだから。受け入れなくては)


 それが、彼女の美徳であり、そして致命的な弱さでもあった。


 アルフォンスとの婚約が発表されてから、リリアンナの態度は微妙に変化した。

 それまでは子供っぽい意地悪だけだったのが、粘つくような意思がその目に宿るようになった。


「お義姉(ねえ)様、アルフォンス様とお会いになるのですね」


 ある日、ルリアがアルフォンスを訪ねるために正装していると、リリアンナが部屋に入ってきた。


「ええ。今日は……市場で開かれる祭りに、ご一緒する約束なの」

「いいなあ! わたくしも行きたい!」


 無邪気にリリアンナがねだる。


「でも、リリアンナ。これは婚約者としてのお役目でもあるから……」


 ルリアが困惑していると、リリアンナは急に顔を曇らせ、大きな瞳に涙を溜めた。


「お義姉様は意地悪だわ。わたくしが邪魔なのね。アルフォンス様と二人きりになりたいから……そんなはしたないことばかり考えているんだわ!」

「ち、違うの! そんなつもりじゃ……」

「ひどいわ!」


 リリアンナはそう叫ぶと、部屋を飛び出していった。

 その日の夜、ルリアは父に厳しく叱責された。


「リリアンナを泣かせたそうだな。妹に優しくできんお前に、侯爵家の嫁が務まるのか」

「ですが父様、わたくしは……」

「言い訳は聞きたくない。お前は長女なのだぞ」


 ルリアは唇を噛み、反論の言葉を飲み込んだ。


(どうして、わたくしの言葉は誰も聞いてくれないの)


 窓の外の灰色の空が、まるで自分の心のようだと思った。


 リリアンナの策略は、そこから本格的に始まった。

 彼女は驚くべき才能を持っていた。弱者の仮面を被って同情を買い、相手を貶めるという才能だ。


 アルフォンスが屋敷を訪れる日。

 リリアンナは必ずと言っていいほど、体調を崩すふりをした。


「うぅ……お義姉様……わたくし、苦しい……」


 アルフォンスとルリアがサロンで話をしていると、侍女に支えられたリリアンナが青白い顔で現れる。


「リリアンナ、大丈夫?」


 ルリアが駆け寄ろうとすると、リリアンナはビクッと体を震わせ、怯えたように後ずさった。


「……っ! ご、ごめんなさい、お義姉様……わたくし、邪魔するつもりじゃ……」


 その演技じみた仕草に、アルフォンスは眉をひそめた。


「ルリア。君は妹に何をしたんだ?」

「え?」

「まるで君を怖がっているように見えるが」

「そ、そんなことはありませんわ。ねえ、リリアンナ」


 ルリアが手を差し伸べると、リリアンナは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、アルフォンスの影に隠れた。


「アルフォンス様……怖い……お義姉様、わたくしのこと嫌いだから……」


 か細い声で、涙を流す。


「ルリア。少し頭を冷やした方がいい」


 アルフォンスは冷たい声で言った。


「リリアンナ嬢は病人だ。……君は姉だろう?」


 彼はルリアを非難する目を向け、リリアンナの肩を抱いて部屋を出て行った。


「リリアンナ嬢、医務室へ。私が見ていよう」


 残されたルリアは、サロンの中央で立ち尽くすしかなかった。


(違う。わたくしは何もしていない。

 どうして? アルフォンス様)


 彼女の弁明は、リリアンナの巧みな涙によって、いつもかき消された。


 継母はリリアンナの完璧な味方だった。


「ルリア、あなたは本当に冷たい子ね。あんなに可憐なリリアンナが、あなたのせいで怯えているわ」

「お義母様、違います。あれはリリアンナの……」

「嘘をつくのはおやめなさい! 見苦しい!」


 ヒステリックな声が響く。

 父もまた、家の体面しか考えていなかった。


「ランバート家の機嫌を損ねるな。妹一人、うまく扱えんのか」


 家族の中で、ルリアは急速に孤立していった。


 リリアンナは、ルリアからアルフォンスの信頼を奪うだけでは満足しなかった。

 次に彼女が狙ったのは、ルリアの心の支えだった。


 ルリアには、亡くなった実母の形見である、小さな銀のロケットがあった。

 それは彼女が物心ついた時から身につけている、唯一無二の宝物だった。

 ある朝、ルリアが目を覚ますと、枕元に置いていたはずのロケットが消えていた。


「そんな……どこに……」


 部屋中を探し回るが、どこにもない。


(まさか……)


 嫌な予感が胸をよぎる。

 ルリアは屋敷中を探し回り、そして、リリアンナの部屋の前で足を止めた。

 ドアの隙間から、リリアンナの楽しそうな鼻歌が聞こえる。

 ノックもせず、ルリアは衝動的にドアを開けた。


「リリアンナ! あなた、わたくしの……」


 言葉は途中で途切れた。

 リリアンナは鏡の前に座り、ルリアの銀のロケットを首に下げて、うっとりと眺めていた。


「あら、お義姉様。どうしたの、そんな怖い顔して」


 リリアンナは悪びれもせず、くすくすと笑った。


「……! それを返しなさい! それは、わたくしの大切な……!」

「大切なもの? ふふ、このロケットが?」


 リリアンナはロケットを弄びながら立ち上がった。


「でも、とっても綺麗ね。わたくしに似合うと思わない?」

「返しなさい!」


 ルリアは我を忘れ、リリアンナに掴みかかろうとした。

 その瞬間。


「何をしている!!」


 背後から、父の怒声が飛んだ。

 見ると、父と継母、そして……アルフォンスが、厳しい顔で立っていた。

 リリアンナは、その姿を認めた瞬間、わざとらしくロケットの鎖を指で引っかけ、ブチリと切った。

 床に落ちる銀のロケット。

 そして、リリアンナはルリアの胸をドンと突いた。


「いやあああぁぁぁっ!」


 リリアンナは床に尻餅をつき、大声で泣き出した。


「お義姉様が……わたくしを突き飛ばして……! ロケットを奪おうとしたの!」

「違う! 逆よ! それはわたくしの……!」

「ルリア!」


 父の平手が、ルリアの頬を打った。

 乾いた音が響き渡る。


「……父様……?」

「みっともないぞ! 妹のものを欲しがるなど、長女のすることか!」

「違います! あれは、お母様の形見で……」

「黙りなさい!」


 継母が甲高い声で遮った。


「リリアンナが可哀想だわ! あなたのせいで怪我までして!」


 ルリアは呆然とアルフォンスを見た。

 助けてほしかった。信じてほしかった。

 しかし、アルフォンスの青い瞳は、氷のように冷え切っていた。


「ルリア・グレイ」


 彼は、初めて彼女をフルネームで呼んだ。


「君という人は、そこまで嫉妬深く、強欲な人間だったのか」

「アルフォンス様……違うのです、信じて……」

「もう君を信じることはできない」


 アルフォンスは床に落ちた銀のロケットを拾い上げると、それを泣きじゃくるリリアンナの手に優しく握らせた。


「リリアンナ嬢、すまなかった。怖い思いをさせた」

「アルフォンス様……」


 リリアンナは怯えた子鹿のように彼を見上げ、その胸に顔をうずめた。

 アルフォンスは、ためらうことなく、優しくその背を撫でた。


(あ、あ……)


 ルリアの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

 温かい光が消え、冷たい風が吹き抜ける。

 頬の痛みが、現実を突きつけてくる。


(もう……何を言っても無駄だ。わたくしの居場所は、どこにもない)


 ルリアは、その場に立ち尽くした。

 床に転がる切れた鎖の破片が、彼女の千切れた心の筋のように見えた。


 この日を境に、ルリアは屋敷の厄介者として扱われるようになった。


 父も継母も、彼女を透明な存在として扱う。

 使用人たちも、力のなくなった長女を侮り、陰で嘲笑した。

 アルフォンスは、あの日以来、一度もルリアの前に姿を見せなかった。


 彼はリリアンナ嬢の見舞いという名目で頻繁にグレイ家を訪れたが、ルリアのいる部屋は意図的に避けた。

 リリアンナは、アルフォンスが来るたびに、これ見よがしにルリアのロケットを身につけていた。

 そして、ルリアとすれ違う瞬間に、勝ち誇ったように囁くのだ。


「お義姉様、とっても惨めね」


 ルリアは、心を閉ざした。

 誰とも口を利かず、食事もろくに取らず、ただ窓辺の椅子に座り、灰色の空を眺めて過ごした。


(わたくしは、何がいけなかったのだろう。穏やかに生きたかった。ただ、それだけだったのに)


 絶望が彼女の全身を蝕んでいく。


 だが、リリアンナの策略は、まだ終わりではなかった。

 彼女は、ルリアからすべてを奪い尽くすまで、止まるつもりはなかったのだ。



 決定的な破滅は、冬の訪れと共にやってきた。

 その日、屋敷にはグレイ家の存続に関わるような、重苦しい空気が漂っていた。


 父と継母が、アルフォンスと、彼の父であるランバート侯爵本人を応接室に迎えていた。

 ルリアは自室に閉じこもるよう命じられていたが、ただならぬ雰囲気に、息を殺して廊下の物陰から様子を窺っていた。


「……というわけで、グレイ伯爵。これはどういうことかな」


 ランバート侯爵の重い声が響く。


「ま、誠に申し訳ございません! あれは、何かの間違いで……!」


 父の狼狽した声。


 話の内容は、すぐにルリアにも理解できた。

 グレイ家がランバート侯爵領との境界に持つ、小さな土地があった。


 その土地は戦略的価値はゼロだが、両家の友好の証として、昔からグレイ家が管理を任されている場所だった。

 その土地の権利書が、何者かによって偽造され、あろうことかランバート家と敵対する別の貴族に売り渡されようとしていたのだ。


「幸い、売買の直前で差し止めることができた。だが……」


 侯爵は言葉を切った。


「調べさせたところ、仲介役の商人に権利書を渡したのは……そちらの長女、ルリア嬢だそうだ」


「なっ……!」


 父が息を飲む音が聞こえた。


(わたくしが……? そんなはずは……)


 ルリアは全身の血の気が引いた。


「侯爵様! 誤解です! ルリアがそのような大それたことをするはずが……!」


 父が必死に弁明しようとした、その時。


「お待ちください、侯爵様」


 アルフォンスの、冷たい声が割って入った。


「残念ながら、証拠があります」


 アルフォンスが差し出したのは、一枚の羊皮紙だった。


「これは、ルリア嬢の自室から、侍女が偶然(・・)見つけたものです」


 そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。


『ランバート家は我ら下位貴族を侮っている。アルフォンスもわたくしを愛していない。せめてもの復讐として、あの土地をくれてやる』


 それは、確かにルリアの筆跡によく似せてあった。


「こ、こんな……! なにかの間違いでは……」

「いいえ、父様」


 その場にそぐわない、鈴の鳴るような声。

 リリアンナだった。

 彼女はいつの間にか応接室に入り込み、目にいっぱいの涙を浮かべて立っていた。


「お義姉様は……ずっと悩んでおられました」

「リリアンナ……?」

「アルフォンス様がわたくしに優しくするのを見て、『婚約者を奪われた』と……。毎晩、『ランバート家に復讐してやる』と……うっ」


 リリアンナは、悲しみに耐えられないというように、顔を覆って泣き崩れた。

 完璧なタイミング。完璧な演技。


「ルリア……貴様……!」


 父の憎悪に満ちた声が、ルリアの耳に突き刺さった。


 ルリアは、もはや弁明する気力もなかった。


(ああ、そう。そうだったのね。リリアンナ……あなたは、わたくしからすべてを奪うつもりだったのね)


 婚約者も、母の形見も、家族の信頼も。

 そして今、わたくしという存在そのものの尊厳も。


「アルフォンス様、申し訳ありません」


 リリアンナは涙ながらにアルフォンスにすがりついた。


「すべて、わたくしがお義姉様の嫉妬を買ってしまったせい……。このお詫びは、わたくしが、生涯をかけて……!」


 その言葉の意味を、その場にいる全員が理解した。


 アルフォンスは、冷ややかにルリアが隠れている廊下を一瞥した。

 彼女がそこにいることを、初めからわかっていたのだ。

 彼はルリアに見せつけるように、リリアンナの華奢な体を抱き寄せた。


「リリアンナ嬢、君が苦しむことはない。悪いのは、すべて彼女だ」


 そして、ランバート侯爵が、判決を下した。


「グレイ伯爵。今回の不祥事、到底許されるものではない」

「は、はい……」

「だが、当家も鬼ではない。……リリアンナ嬢を、アルフォンスの妻として差し出すのなら、今回の件は不問にしよう」

「……!」

「もちろん、ルリア嬢との婚約は、即刻破棄する。そして、彼女には然るべき罰を与えてもらいたいところだ」


 罰。その言葉が、ルリアの凍てついた心に小さく響いた。


「ルリア!」


 父が、獣のような声で叫んだ。


「出てこい! この恥さらしめが!」


 ルリアは、ふらふらと、光の当たる応接室へと足を踏み出した。

 全員の視線が突き刺さる。

 軽蔑、憎悪、憐れみ、そして……リリアンナの歪んだ勝利の笑み。


「アルフォンス様……」


 ルリアは、最後に、かつて愛した人を見た。

 彼は、リリアンナを抱きしめたまま、ルリアを汚物でも見るような目で睨みつけていた。


「君には、心底失望した」


(わたくしは、何もしていない)


 その言葉は、声にならなかった。


「この者を()に入れろ!」


 父が叫んだ。


「ランバート侯爵への裏切りだ。明朝、領地の西にある贖罪の塔へ送る。二度と日の目を見ることはないと思え!」


 贖罪の塔。

 それは、グレイ伯爵領で最も過酷な場所。

 古くから重罪人を幽閉してきた塔で、一度入ればまともな食事も与えられず、冬の寒さで凍え死ぬのを待つだけの場所だった。

 それは、緩やかな死刑宣告に等しかった。


 兵士に両腕を掴まれ、引きずられていく。

 ルリアは、もう抵抗しなかった。

 ただ、リリアンナをじっと見つめた。

 リリアンナは、アルフォンスの腕の中で、ルリアにだけ見えるように、口の端を吊り上げて笑った。


(お義姉(ねえ)様の負けよ)


 その口の動きが、はっきりと読み取れた。



 *



 ルリアが投獄された「贖罪の塔」は、その名の通り、かつて罪人が己の罪を神に詫びながら朽ち果てるのを待つ場所だった。

 石造りの古い塔は、領地の西端、痩せた土地が荒涼と広がる丘の上に、墓標のように突き立っている。


 牢から塔へ移送される道すがら、ルリアは一度も言葉を発しなかった。

 両腕を掴む兵士たちの無遠慮な視線も、彼らが交わす下卑た噂話も、彼女の耳には届いていなかった。


(……寒い)


 ただ、冬の始まりの風が、薄い服を通して体温を奪っていく感覚だけが、妙に鮮明だった。


 塔の内部は、地獄という言葉が生ぬるいほどの環境だった。

 吹きさらしの窓にはガラスなどなく、凍てつく風が埃と共に渦巻いている。


 床には汚れた藁が申し訳程度に敷かれているが、そこかしこに人のかつての営みの残骸と、ネズミの糞が散らばっていた。

 食事は一日一度、固く黒ずんだパンと、生臭い水の入った桶が運ばれてくるだけ。それも、塔に幽閉されている他の忘れられた人々との奪い合いだった。


 ルリアは、塔の最下層、最も冷える階段下の暗がりに追いやられた。

 そこには、彼女より先にここへ送られてきた者たちが、亡霊のようにうずくまっていた。

 彼らは皆、何らかの理由でグレイ伯爵家の体面を汚したとされる者たちだった。


 継母の機嫌を損ねた侍女。リリアンナの嘘の告発で盗みの罪を着せられた元庭師。

 彼らはルリアを裏切り者の元貴族令嬢として、敵意と侮蔑の目で見た。


「伯爵様の娘が、こんな所に来るなんてねえ」

「侯爵家を怒らせたんだとさ。自業自得だ」


 冷たい嘲笑が、暗闇から飛んでくる。

 ルリアは反論しなかった。

 ただ、壁に背を預け、膝を抱えた。


(わたくしは、ここで死ぬ)


 それが、この塔に送られた者の定めだった。

 飢えと寒さ、そして絶望が、ゆっくりと命を削っていく。


 涙も出なかった。

 悲しみも、怒りも、絶望さえも、すべてが凍てついてしまった。

 ただ、胸の奥深く、心の芯が、氷のように冷えていく。



 最初の三日間、ルリアは何も口にしなかった。

 配給されるパンは、他の者たちにすぐに奪われた。

 彼女は動かなかった。


(このまま……)


 意識が遠のき、冷たい床の上で死ぬことを、彼女は受け入れようとしていた。

 穏やかだった日々。優しかった母の温もり。アルフォンスの不器用な笑顔。リリアンナが屋敷に来る前の、静かな読書の時間。

 それらが走馬灯のように浮かんでは、消える。

 そして、最後に脳裏に焼き付いたのは、アルフォンスの腕の中で勝ち誇ったように笑う、リリアンナの顔だった。


(…………死んでたまるものか)


 凍え切った体の奥底で、何かが小さく、しかし激しく燃え上がった。


(あの娘が、わたくしから奪ったすべてを、あの暖かい部屋で享受しているというのに。わたくしだけが、こんな場所で、みすぼらしく凍え死ぬなんて)


 ルリアは、暗闇の中でゆっくりと目を閉じた。

 穏やかだった光の娘は、完全に死んだ。


(そんな結末、絶対に許さない)


 そして、冷たい石の床で、灰色の瞳を再び開けた時、そこにいたのは、冷たい炎だけを瞳に宿す、別の生き物だった。


(あなたたちから、根こそぎ奪い返してあげる)


 色褪せた世界で、ルリアは静かに息を始めた。

 それは、復讐のための、長い長い息だった。



 

 次の食事の配給の時間。彼女は、動いた。

 パンが床に投げ込まれ、男たちが我先にと群がる。

 ルリアはその様子を冷静に観察していた。

 一番体の大きい男が、パンを三つ掴んで自分の寝床に戻る。

 ルリアは、その男が寝静まるのを待った。


 夜半過ぎ。塔の中は死んだように静まり返った。

 ルリアは音を立てずに立ち上がり、その男の元へ這うように近づいた。

 男は獣のようないびきをかいている。

 その懐に、パンが押し込まれているのが見えた。


 ルリアは、躊躇しなかった。

 細い指を滑り込ませ、硬いパンの一つを抜き取る。

 その瞬間、男が「ん……」と身じろぎした。

 心臓が激しく鳴ったが、ルリアの表情は変わらなかった。

 彼女は抜き取ったパンを懐に隠し、自分の寝床である階段下に戻った。


 暗闇の中、盗んだパンを口に入れる。

 カビ臭く、石のように硬い。

 だが、それはルリアにとって、これまで食べたどんなご馳走よりも力強い命の味だった。


(わたくしは、生きる。どんなことをしてでも)


 彼女は変わった。

 塔の住人たちを観察した。誰が弱く、誰が強く、誰が何を持っているか。

 彼女は自分の身なりをわざとさらに汚し、病弱なふりをして、警戒心を解いた。


 時には、自分のわずかな食料を、情報を知っていそうな老人に分け与えた。

 そうして数週間が経つ頃には、ルリアはこの塔の力関係と、ここにいる人々の恨みの理由と対象をほぼ完璧に把握していた。


 そして、彼女は一人の老婆に目をとめた。

 老婆はマーサと名乗った。


 彼女は塔の中でも古株で、誰も近づかない最上階近くの小部屋を縄張りにしていた。

 他の囚人たちとは違い、マーサは奇妙なほど清潔で、その目には絶望の色がなかった。

 ルリアは、盗んだ食料の半分を持って、マーサの元を訪れた。


「……何の用だい、お嬢様」


 マーサは、壁の小さな穴から差し込む月光を浴びながら、何かを研いでいた。


「お話がしたいのです、マーサ」

「こんな所に落ちぶれたあんたに、わしと話すことなんかないよ」

「あなたは……わたくしの実の母、アリアにお仕えしていましたね」


 ルリアの言葉に、マーサの手がピタリと止まった。

 老婆はゆっくりと顔を上げ、その鋭い目でルリアを射抜いた。


「……なぜ、それを」

「覚えております。わたくしが幼い頃、母の部屋で、あなたが刺繍を教えてくれたのを」


 ルリアは、遠い記憶の欠片をたどった。

 マーサは、ルリアの実母が亡くなった後、継母によって不敬罪の濡れ衣を着せられ、屋敷を追放されたのだった。その先のことは、ルリアも知らなかった。まさか、この塔にいたとは。


 マーサは、ため息をついた。


「……アリア様は、お優しい方だった。あんたも、昔はあの方にそっくりだったのにね」


 その目は、ルリアの変わり果てた姿を憐れんでいた。


「今のあんたの目は、まるで獣だ」

「そうしたのは、わたくしではありません」


 ルリアは静かに言った。


「継母と……リリアンナです」

「リリアンナ。ああ、あの赤毛の悪魔か」


 マーサは吐き捨てるように言った。


「あの二人が来てから、屋敷はおかしくなった。それに、わしは気づいてたよ。あの子が、旦那様の血筋だなんて、真っ赤な嘘だってね」


「……どういうことですか?」


 ルリアの心臓が、ドクンと跳ねた。


「あの子は、お父様の子ではないと? それでは、お義母様に別の相手がいたと?」

「ははは、そうじゃない」


 マーサは口の端を歪めた。


「あの二人は、本当の親子じゃあないのさ」

「…………!!」


 何も言えず、ルリアは思わず口を小さく開いたまま固まってしまった。


「……あの子、リリアンナは、お義母様の子ですらないと?」

「ああ、そうさね。あの女は、赤毛の悪魔を後から(・・・)連れてきたのさ」


 マーサは声を潜めた。


「あの子を引き連れてきた時、あの女はやけに張り切っていた。まるで、自分の手駒を手に入れたみたいにね。素性も曖昧なもんさ。伯爵様は、昔の過ちだとか言って、調べようともしなかったが」


 リリアンナは父の子ではない。それどころか、継母とリリアンナも親子ですらない。

 もしそれが本当なら、リリアンナがグレイ家で行ってきたすべてのことは、単なる乗っ取り行為に他ならなかった。


「……マーサ。わたくしは、ここから出ます」


 ルリアは、決意を込めて言った。


「そして、わたくしからすべてを奪った者たちに、報いを受けさせる」

「……馬鹿なことを。ここから生きて出た者はいないよ」

「あなたがいれば、出られます」


 ルリアは、老婆の手を掴んだ。その手は驚くほど骨張っていたが、力強かった。


「あなたは、この塔のことを知り尽くしている。そして、屋敷のことも。わたくしに力を貸してください」

「……わしに何の得がある」

「わたくしが成功すれば、あなたは自由になれます。そして、あなたをこんな場所へ追いやった継母への復讐が果たせます」


 マーサは、じっとルリアの目を見た。

 その灰色の瞳の奥に燃える、冷たい炎を。

 やがて、彼女はフッと笑った。


「……面白い。死んだアリア様の忘れ形見が、獣になって帰ってきたとはね」


 彼女は立ち上がった。


「いいだろう。あんたの復讐劇に、わしの残りの命を賭けてみようじゃないか」




 マーサは、協力者としてこの上なく有能だった。

 彼女はこの塔に長くいたため、看守の交代時間、彼らの性格、そして……この塔の秘密の構造を把握していた。


「この塔は、古い時代の砦でもある」


 マーサは、小部屋の床石の一つを指差した。


「ここには、かつて領主が逃げるための、古い抜け道が隠されている。もう何十年も使われていないがね」


 脱出の準備は、慎重に進められた。

 まず、ルリアの死を偽装する必要があった。


 塔の中には、寒さと栄養失調で命を落とす者が後を絶たない。

 マーサは、弱みを握っていた看守の一人を言いくるめ、数日前に亡くなった別の女の遺体を、ルリアのものとして報告させた。


「ルリアよ、ついに凍え死んだか。まあ、そうだろうな」


 報告を受けた父、グレイ伯爵は、娘の死に何の関心も示さず、ただ「処理しておけ」と命じたという。

 リリアンナと継母は、その報告を聞いて、二人で祝杯をあげていたらしい。


(せいぜい喜ぶがいいわ。わたくしが死んだと思って、油断しきっているがいい)


 嵐の夜。

 塔の看守たちが、寒さを理由に詰め所で酒盛りをしている隙を狙って、二人は動いた。

 マーサが動かした床石の下には、冷たい風が吹き上げる暗い穴が口を開けていた。


「行くよ。ここを抜ければ、領地の外れにある古い墓地に出る」

「ええ」


 ルリアは、最後に一度だけ、塔の内部を振り返った。

 自分を嘲笑し、蔑んだ囚人たち。彼らもまた、この体制の犠牲者だ。


(今は、まだ)


 今はまだ、彼らを救う力はない。

 だが、いつか。

 ルリアは迷いを振り切り、暗い穴へと身を滑らせた。


 湿った土の匂い。

 どれくらい進んだだろうか。

 息も絶え絶えになりながら、ついに二人は、月明かりの下へと這い出した。

 古い墓石が並ぶ、寂れた墓地。

 ルリアは、腹の底から、冷たく、新鮮な空気を吸い込んだ。


「わたくしは、今、生まれ変わった」


 ルリア・グレイは、あの塔で死んだ。


 マーサは、近くの木の根元に隠していた包みを取り出した。

 中には、粗末な平民の服と、いくらかの金、そして、短いナイフが入っていた。


「まずは、姿を変えるよ。あんたのその髪は目立ちすぎる」


 マーサはそう言うと、ナイフでルリアの腰まであった美しい銀灰色の髪を、無造作に切り落とした。

 ざく、ざく、と音を立てて、過去の栄光が足元に散らばる。


 ルリアは、近くの水溜まりに映る自分の姿を見た。

 短い髪、汚れた顔、痩せこけた頬。

 しかし、その瞳だけは、恐ろしいほどの強さを宿していた。


「……エリス」


 彼女は、水面に映る自分に囁いた。


「あなたの名は、今日からエリス。ただの、復讐者よ」


 マーサの案内で、二人は領都の最も貧しい地区にある、かつて彼女の親類が使っていた空き家に身を寄せた。

 そこは、貴族の監視の目も届かない、無法と貧困が渦巻く場所だった。


「さて、エリス(・・・)。これからどうするんだい」


 粗末な椅子に腰掛け、マーサが問う。


「まずは、情報を集めます」


 ルリア――いや、エリスは、冷静に答えた。


「リリアンナ、継母、そして父。彼らが今、何をしているか。彼らの弱みは何か。すべてを洗い出します」

「金がいるよ」

「ええ。だから、まず金を作ります」

「どうやって」

「わたくしが『ルリア・グレイ』だった時に得た知識で、です」


 エリスは、貴族としての教育を、ただ漫然と受けていたわけではなかった。

 彼女は、父の書斎で読んだ歴史書や法律書、領地経営の帳簿の内容を、ほぼすべて記憶していた。


(父はわたくしを無能だと思っていた。だが、わたくしは見ていた。あの家の財政が、すでに傾きかけていることを)


 エリスはまず、泥底街の情報屋と接触した。

 最初は「どこの小娘だ」と侮られた。

 だが、エリスがグレイ家の内情、特に「継母が懇意にしている商会が、納品を水増しして金を横領している」という具体的な手口を囁くと、情報屋の顔色が変わった。


「……あんた、何者だ」

「あなたの『金』になる情報を持つ者よ」


 エリスは、その情報屋を介し、継母が利用している商会と敵対する別の商会に、匿名で横領の証拠を流した。

 もちろん、タダではない。


「わたくしは、証拠の『一部』を渡す。残りが欲しければ、誠意を見せなさい」


 貴族令嬢だったとは思えない、冷たい交渉。

 数日後、エリスの手元には、当面の活動資金として十分すぎるほどの金が転がり込んだ。

 継母の商会は敵対商会からの告発で調査が入り、大打撃を受けた。

 継母は、まさか死んだ継娘の仕業だとは夢にも思わず、「運が悪い」と癇癪を起こしているらしかった。


(これは、ほんの始まり)


 エリスは、その金を使い、マーサと共に組織を作り始めた。

 組織と言っても、大げさなものではない。

 かつて屋敷を追われた使用人たちや、泥底街で日銭に困る者たち。

 彼らに金を与え、仕事を与えた。


 グレイ家の屋敷に、新しい下女として潜り込ませた者。

 アルフォンス・ランバートの動向を探る者。

 リリアンナの素性を、もう一度徹底的に洗う者。


 情報は、エリスの元へ集まってきた。


「リリアンナ様は、アルフォンス様とのご婚約が決まり、毎日贅沢三昧です」

「侯爵家から贈られたドレスを『色が気に入らない』と、侍女の目の前で切り裂いたとか」

「グレイ伯爵は、娘の死を悲しむどころか、ランバート家との繋がりが強固になったと、祝杯をあげております」

「アルフォンス様は……リリアンナ様のわがままに、少々お疲れのご様子。ですが、『可憐な彼女を守るのは自分しかいない』と、思い込んでいるようです」


 エリスは、集まった情報をつなぎ合わせていく。

 リリアンナの横暴。継母の横領。父の無関心。アルフォンスの盲目。

 すべてが、複雑に絡み合っている。

 だが、その中心には、常にリリアンナの嘘があった。


 リリアンナとアルフォンスの婚約披露夜会まで、あと一月。

 その時間は、エリスにとって、復讐の刃を研ぎ澄ますための、冷たく濃密な時間だった。

 泥底街の隠れ家は、今や彼女の司令塔となっていた。

 マーサが集めた人々が、エリスの目となり、耳となり、手足となっていた。


 最優先で着手したのは、リリアンナの出自の証拠固めだった。

 やがて、決定的な情報が舞い込んできた。


「エリス様。リリアンナの、本当の母親の居所が掴めそうです」


 リリアンナの素性を調べていた者が、興奮した様子で報告に来た。

 リリアンナは、やはり伯爵の子ではなかった。彼女の母親は、かつて流れ者の劇団にいた女役者で、今は領都の片隅の酒場で、過去の栄光を語りながら酒に溺れる日々を送っているという。

 継母は、自分の意のままになる()を欲しがり、その女役者から、金でリリアンナを買ったのだ。

 伯爵を騙し「あなたの子だ」と信じ込ませるために。


 エリスは自ら、領都の場末にある酒場へ向かった。

 そこは、埃と安い酒精の匂いが立ち込める、希望を失った者たちの溜まり場だった。

 その店の隅で、かつての美貌の残骸を晒しながら酒を煽る女がいた。セリーナ。リリアンナの実の母親だった。


「……何の用だい、嬢ちゃん。施しなら、あいにく今は気分じゃないね」


 セリーナは、酒に焼けた声で言うと、エリスを睨んだ。

 エリスは、音を立てずに彼女の向かいに座り、テーブルに重い金貨袋を置いた。

 ジャラリ、という鈍い音が、酒場の喧騒を一瞬だけ止めた。

 セリーナの目が、ギラリと光る。


「……何が望みだい」

「あなたの娘に会いたくありませんか? リリアンナに」


 エリスの言葉に、セリーナは嘲るように笑った。


「リリー? ああ、あの小悪魔のことかい。とっくに縁を切ったよ。あの子はね、生まれた時から役者だった。アタシより、ずっとね。泣き顔一つで、欲しいものを何でも手に入れる子さ」

「その『役者』が、今度、王都で最高の舞台に立つのです。ランバート侯爵家の夫人として」

「……はっ! あの子が、侯爵夫人だって?」


 セリーナは腹を抱えて笑ったが、その目は笑っていなかった。嫉妬と、わずかな後悔が滲んでいた。


「わたくしは、その晴れ舞台に、あなたを『母親』として招待したい」


 エリスは、冷たい声で続けた。


「もちろん、これは報酬の前金です。舞台であなたの()を果たしてくだされば、残りの人生を酒場で過ごさなくてもいいだけの金をお渡しします」


 セリーナは、金貨袋とエリスの顔を交互に見た。

 エリスの灰色の瞳は、交渉の余地を与えない、絶対的な決意に満ちていた。


「……いいだろう。あの子の最高の舞台とやらを、この目で見届けてやるのも一興だ」


 セリーナは金貨袋を掴み、その中の一枚で、すぐに新しい酒を注文した。


(これで、最大の切り札は手に入れた)


 次に、エリスは継母の悪事を暴く物証の確保に移った。

 マーサが屋敷に潜り込ませた下女からの報告で、継母がリリアンナを買い取った際の契約書や、これまで行った横領の裏帳簿が、彼女の私室の隠し金庫にあることが判明していた。


「夜会の日、屋敷の警備は手薄になる」


 マーサは冷静に分析した。


「伯爵も夫人も王都へ行く。その隙に、わしが手配した者が忍び込み、金庫の中身を頂戴する」

「危険すぎます」

「危険? わしらは、あの女のせいで、とっくに地獄を味わってるんだ。今更何を恐れることがあるもんかね」


 マーサの目にも、エリスと同じ、冷たい炎が宿っていた。


 そして、エリス自身を陥れた土地権利書の偽造の証拠。

 これは、意外な形で見つかった。

 リリアンナ付きの侍女――彼女もまた、リリアンナの横暴に耐えかねていた――が、マーサの仲間にこっそりと渡してきたものだった。

 それは、リリアンナが暖炉で燃やし損ねた、大量の書き損じの羊皮紙の束だった。

 そこには、ルリアの筆跡を真似ようと、何度も何度も練習した『ランバート家を……』『復讐として……』という、あの呪詛の言葉が、リリアンナの癖のある文字でびっしりと書き連ねられていた。


(……これほどまでに、わたくしを憎んでいたのね)


 エリスは、その執念に、もはや怒りではなく、深い冷笑を覚えた。


 最後に、夜会への潜入。

 エリスが利用したのは、皮肉にも、継母の横領の証拠を売った、あの新興商会だった。


「わたくしは、あなた方に利益をもたらす情報を提供しました。今度は、あなた方がわたくしに便宜を図る番です」


 エリスは商会の会頭に、素顔を隠したまま対峙した。


「ランバート侯爵家の夜会。そこに、わたくしをあなた方の代理人としてねじ込みなさい」


 会頭は、この得体の知れない情報屋の要求に、最初は難色を示した。

 だが、エリスが「ランバート家がグレイ家と縁を結べば、あなた方の商売敵が息を吹き返すことになる」と囁くと、彼の顔色が変わった。

 グレイ家が破滅することは、この商会にとっても利益になる。


「……承知した。我が商会の、最も大事な顧客リストを届ける使者として、招待状を手配しよう」


 こうして、復讐の舞台は完璧に整えられた。

 エリスは、王都へ向かう馬車の中で、短く切り揃えられた自分の髪を、窓ガラスに映して見ていた。


(ルリア・グレイは、あの塔で死んだ。今夜、王都に行くのは、エリスという名の復讐者)


 彼女は、すっかり荒れてしまった掌を強く握りしめた。



 *



 一月後。

 エリスは、隠れ家の窓から、空を見上げた。

 ルリアが愛した、あの穏やかな空ではなかった。

 復讐の炎で、どす黒く染まった空。


(リリアンナ。あなたのための、最高の舞台が整ったわ。あなたが演じるのは、『愚かな詐欺師』の役よ)


 エリスの灰色の瞳は、夜会の日に向けて、獲物を定める狩人のように、冷たく、静かに、燃えていた。




 運命の夜。

 王都のランバート侯爵邸は、万を超える灯りで照らされ、まるで白昼のような輝きを放っていた。

 中央貴族たちの華やかな馬車が次々と乗り付け、着飾った紳士淑女たちが、きらびやかな音楽の流れる大広間へと吸い込まれていく。

 その喧騒の中で、ひときわ大きな歓声が上がった。

 今夜の主役、アルフォンス・ランバートと、リリアンナ・グレイの登場だった。


 リリアンナは、雪のように白いドレスを身にまとっていた。

 胸元には、アルフォンスから贈られた大粒の宝石が輝き、その首には……ルリアの母の形見である、あの銀のロケットが、これ見よがしにかけられていた。

 彼女は、天使のような笑顔を振りまきながら、アルフォンスの腕に熱っぽく絡みついている。


「まあ、アルフォンス様! ご覧になって、あのお花! なんて素敵!」

「ああ、君のために用意させたんだ」


 アルフォンスは、彼女の無邪気な振る舞いに、少し疲れを見せながらも、優しく微笑み返した。

 彼は、塔で死んだと報告を受けた元婚約者のことを、心の隅に追いやり、目の前の可憐な少女だけを見ようと努めていた。


 グレイ伯爵と継母も、娘の成功に有頂天だった。


「見ましたか、あなた。侯爵様が、わたくしに直々にご挨拶を!」

「うむ。これで、我がグレイ家も安泰だ。すべて、リリアンナのおかげだな」


 彼らは、自分たちが王都に発つと同時に、領地の屋敷の金庫が破られていることなど、知る由もなかった。


 その、まばゆい光に満ちた大広間の片隅。

 一本の柱の陰に、地味な深緑色のドレスをまとった一人の女性が、静かに立っていた。

 新興商会の代理人として、彼女は確かにそこにいた。

 顔の半分は、流行の繊細なレースのヴェールで隠されている。

 だが、そのヴェールの下から、灰色の瞳が、獲物を見定めるように、冷静に会場のすべてを観察していた。


(華やか……。でも、なんて空っぽなのでしょう。

 あなたたちが今立っているその場所は、わたくしの血と涙で築かれた、脆い舞台。

 存分に踊りなさい。その幕が下りる、その時まで)


 音楽が最高潮に達し、ランバート侯爵が、誇らしげにグラスを掲げた。


「皆様、ご静粛に! 本日は、我が息子アルフォンスの、新たな門出を祝う席にお集まりいただき、感謝申し上げる!」


 拍手が沸き起こる。


「そして、彼の伴侶となる、グレイ伯爵家のご令嬢、リリアンナ・グレイ嬢を紹介しよう!」


 アルフォンスが、リリアンナの手を取り、中央へと導く。

 リリアンナは、恍惚とした表情で、会場の視線を一身に浴びていた。


(やったわ! わたくしの勝ちよ! お姉様、見てる? あなたが死んだ塔の底から、このわたくしの栄光を!)


 彼女が、アルフォンスに促され、淑女の礼をしようと、優雅に膝を折ろうとした、その瞬間だった。


「―――お待ちくださいまし」


 その声は、大きくはなかった。

 しかし、氷のように冷たく、不思議なほどよく通った。

 大広間の音楽が、ピタリと止まる。

 すべての視線が、声の主へと集まった。

 柱の影から、深緑色のドレスの女が、ゆっくりと歩み出てくる。


「……誰だね、君は」


 ランバート侯爵が、不機嫌そうに眉をひそめた。

 アルフォンスも、見知らぬ女の乱入に、リリアンナを庇うように一歩前に出た。

 リリアンナだけが、その声に、言いようのない恐怖を感じて、カタカタと震え始めた。


(この声……どこかで……いや、そんなはずは……)


 エリスは、大広間の真ん中で足を止めると、ゆっくりと顔を覆っていたヴェールを外した。


 時が、止まった。


 グレイ伯爵は、手に持っていたグラスを床に落とした。ガシャン、と派手な音が響く。


「……ば、かな……」


 継母は、目を見開き、幽霊でも見たかのように口をパクパクさせている。


「ルリ……ア……?」


 アルフォンスが、絞り出すような声で呟いた。

 目の前に立つ女は、確かに、彼が知るルリアの顔立ちをしていた。


 だが、その雰囲気はまるで違った。

 腰まであった豊かな銀灰色の髪は、無造作に短く切られ、頬は痩けている。

 しかし、その灰色の瞳は、かつての穏やかな光ではなく、すべてを見透かすような、恐ろしいほどの強さと冷たさを宿していた。


「ひっ……! 幽霊……! 幽霊よぉぉぉっ!!」


 リリアンナが、ついに甲高い悲鳴を上げた。


「し、死んだはずよ! 塔で、凍え死んだって……!」

「ええ、死にました」


 エリスは、リリアンナを静かに見つめた。


「『ルリア・グレイ』は、あなた方が望んだ通り、あの冷たい塔で、確かに死にましたわ」

「じゃあ、あんたは……!」

「わたくしは、あなた方の虚栄が産み落とした亡霊です」


 エリスは、会場の動揺する貴族たちを見渡し、声を張った。


「皆様! この華やかな婚約披露に、水を差すことをお許しください。ですが、この茶番劇を、これ以上続けるわけにはまいりません」


 彼女は、リリアンナを指差した。


「まず第一に。そこに立っている女、リリアンナ・グレイは、わたくしの父、グレイ伯爵の娘ではありません!」

「な、何を馬鹿なことを!」


 グレイ伯爵が、衝撃から立ち直り、怒鳴った。


「その子は、私の子だ! お前こそ、何を企んで……」

「企んでいるのは、誰でしょうね、お父様?」


 エリスが、パチン、と指を鳴らした。

 合図と共に、大広間の扉が開き、ボロボロの服をまとった一人の女……セリーナが入ってきた。


「リリー……! ああ、リリー! アタシのかわいいリリー!」


 セリーナは、リリアンナの元へ泣きながら駆け寄ろうとした。


「なっ……! 誰よ、この汚い女は! 近寄らないで! 衛兵! 何をしているの、この狂人を追い出して!」


 リリアンナは、パニックに陥り、実の母親を足蹴にしようとした。

 その、あまりに下品な振る舞いに、会場がどよめく。


「……ひどいわ、リリー。あんたの母親なのに……」


 セリーナは、エリスに促され、すべてを白状した。

 かつて劇団員だったこと。継母に金で買われ、リリアンナを「伯爵の子」として手放したこと。

 大げさな身振り手振りを交えながら、ときに声を張り上げ、ときに涙を零すその語りに、会場の者たちはすっかり呑まれていた。


(流石は元役者ね)


 内心で感心するエリスの耳に、呟くような声が届いた。


「そんな……私の子では、ない……?」


 すっかり青褪めているグレイ伯爵。


「……嘘よ! 嘘! でたらめよ!」


 継母がヒステリックに叫んだ。


「はは。では、これは何でしょう?」


 わざとらしく笑ったエリスは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「あなたが、こちらの女性、セリーナに宛てた『娘を買い取る』契約書ですわ。……ああ、ご心配なく。これは写しです。原本は、すでにランバート侯爵様の手にお渡しするよう、手配済みでございます」

「なんだと……?」


 ランバート侯爵の顔が、赤から青へと変わっていく。


「第二に!」


 エリスは、休む間もなく続けた。


「わたくしが裏切り者として贖罪の塔へ送られた理由。あの土地の権利書の件……その真犯人は、このリリアンナですわ!」


 彼女は、あの書き損じの束を、床にぶちまけた。


「ご覧ください! わたくしの筆跡を真似るため、彼女がどれほど努力(・・)したかを!」


 貴族たちが、その異様な証拠に群がる。

 そこには、リリアンナの幼稚な嫉妬と、残忍な悪意が、これでもかと記されていた。


 アルフォンスは、その中の一枚を震える手で拾い上げた。

 そして、目の前が暗くなるような、絶望的な眩暈に襲われた。


「さらに……」


 エリスは、ゆっくりとリリアンナの前に進み出た。

 リリアンナは、すでに腰を抜かし、床にへたり込んでいる。


「……そのロケット」


 エリスは、リリアンナの首にかかる、母の形見を指差した。


「それも、あなたがわたくしから奪ったものですわね?」

「あ……あ……」

「アルフォンス様」


 エリスは、初めて、元婚約者の目を真っ直ぐに見た。


「あなたは、あの日、わたくしの言葉を信じず、この女の嘘を信じました。そして、このロケットを、この女に与えた」

「ルリア……私は……すまない……」

「謝罪は、もう必要ないのです」


 諦めたように微笑んだエリスは、アルフォンスの言葉を遮った。


「あなたのその盲目が、わたくしを地獄に突き落としたのです」

「……いや……いやよ……」


 リリアンナが、壊れた人形のように首を振っていた。


「わたくしは……可憐で、守られるべき……アルフォンス様……!」


 彼女は、最後の望みをかけて、アルフォンスに這い寄ろうとした。

 得意の、涙に濡れた瞳で、彼を見上げる。

 だが、その演技は、もはや誰の心にも響かなかった。

 アルフォンスは、汚物を見るような目で彼女を見下ろし、一歩後ずさった。


 その拒絶が、リリアンナの心の最後の糸を、断ち切った。


「あ……あ……おあああああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!」


 リリアンナは、もはや人間ではない、獣のような叫び声を上げた。


「なんでよ! なんで、わたくしだけが! お姉様さえいなければ! あんたさえ、あの塔で大人しく死んでいれば、全部わたくしのものだったのに!!」


 彼女は、自らのドレスを引き裂き、髪をかきむしり、床を転げ回った。

 完璧に結い上げられていた髪は乱れ、高価な化粧は涙と鼻水で流れ落ち、その顔は、嫉妬と憎悪に歪んだ、醜い老婆のようだった。

 会場は、この世のものとは思えないスキャンダルと、リリアンナの狂態に、水を打ったように静まり返った。

 それは、彼女が望んだ最高の舞台で演じられた、最高に惨めで滑稽な破滅の姿だった。


「グレイ伯爵!!」


 ランバート侯爵の雷鳴のような怒声が響いた。


「我がランバート家を、このような詐欺師一家と共に侮辱した罪! 万死に値するぞ!」

「ひっ……! ま、待ってください侯爵様! わたくしは……わたくしは騙されたのです! あの女と、あの化け物に!」


 グレイ伯爵は、妻と偽りの娘にすべての罪をなすりつけ、その場に跪いた。


 継母も「わたくしは悪くありませんわ!!」と見苦しく叫んだが、侯爵の兵士たちによって、猿ぐつわを噛まされ、引きずられていった。


 大混乱の夜会は、そこで幕を閉じた。




 数日後。グレイ伯爵家は、ランバート侯爵家への重大な背信行為、および領民への不当な搾取の罪により、爵位と領地をすべて剥奪された。

 グレイ伯爵と継母は、王都の地下牢に投獄され、二度と日の目を見ることはなかった。


 リリアンナは、その精神の錯乱が認められ――あるいは、これ以上の醜聞を隠したいランバート家の温情により――北の果ての修道院へ生涯幽閉されることとなった。

 彼女は、修道院へ向かう馬車の中でも、ずっと「わたくしは侯爵夫人よ! この無礼者!」と、存在しない聴衆に向かって叫び続けていたという。


 そして、アルフォンス・ランバート。

 彼は、すべてが終わった後、エリスの元を訪れた。

 彼は、彼女の足元に膝をつき、深く頭を垂れた。


「ルリア……いや、エリス、殿。君を信じることができず、君を地獄へ追いやったのは、この私だ。私の愚かさのせいだ。どうか、私を罰してくれ。君が望むなら、家も、立場も……」


 エリスは、その跪く姿を、感情の無い瞳で見下ろしていた。

 彼女は、あのロケットを、彼の足元にそっと置いた。


「その必要はありませんわ、アルフォンス・ランバート様」


 その声には、かつての恋慕のかけらもなかった。


「あなたはルリア・グレイの元婚約者。あなたはもう、エリス(・・・)の人生に関わる人間ではありません」

「……!」

「あなたが受けるべき罰は、わたくしが与えるものではない。あなたが後悔しているというのなら、それを一生抱えて生きていくこと。それが、あなたにとって最大の罰でしょう」

「ル、ルリアっ……!」


 アルフォンスが、すがるように彼女の手を取ろうとした。

 しかし、エリスは、その手を払いのけることすらせず、静かに身を引いた。


「そのロケットは差し上げますわ。わたくしにはもう、関係も、必要も、失くしてしまったものですから」


 そして彼女は、一度も振り返ることなく、その場を去った。

 残されたアルフォンスは、床に落ちたロケットを握りしめ、声もなく慟哭した。彼が失ったものが、どれほど大きく、取り返しのつかないものだったかを、その時、初めて心の底から理解したのだった。



 復讐を終えたエリスは、ルリア・グレイとしての身分を取り戻すことは選ばなかった。

 グレイ家の名誉も、貴族の地位も、彼女にとってはもはや何の価値もなかった。

 彼女は、継母の隠し財産を元手に、マーサと共に王都で新興商会を立ち上げた。


 灰空商会。その商会は、異例の早さで成長した。

 彼女は、かつての泥底街や贖罪の塔で出会ったような、社会から見捨てられた人々を積極的に雇い入れた。


 彼らは、自分たちに仕事と尊厳を与えてくれた女会頭エリスに、絶対の忠誠を誓った。

 エリスの経営手腕は、冷徹かつ公正だった。

 貴族時代の知識と、地獄で培った人間観察眼。それが、彼女の最大の武器だった。



 数年が過ぎた。

 冬の日の午後。エリスの商会の最上階にある会頭室。

 エリスは、大きな窓から、王都を覆う灰色の空を眺めていた。

 あの夜会の日から、彼女が笑うことはない。

 だが、その横顔は、不思議なほどの静けさと、揺るぎない強さに満ちていた。


「会頭。冷えますよ」


 後ろから、暖かいショールが肩にかけられた。

 すっかり腰は曲がったが、その目だけは鋭いままのマーサだった。彼女は今、この商会の誰からも尊敬される大奥様として、エリスの傍にいた。


「ありがとう、マーサ」


 エリスは、ショールを握りしめた。


「……今日の空は、昔の領地に似ているわね」


(わたくしは、すべてを失った。

 そして、すべてを奪い返した。

 この手は、復讐で汚れている。あの者たちと同じ、冷たい血が流れているのかもしれない。

 でも……)


 エリスは静かに息をついた。

 それは、あの塔の底で、復讐を誓った時の、凍えるような息ではなかった。

 自らの足で立ち、自らの意志で選び取った、確かな生の息吹だった。


 色褪せた世界は変わらない。

 だがその中で光を求めるのではなく、自分自身が炎であり続けること。

 それが、エリスとして生まれ変わった彼女が手に入れた、唯一無二の生き方だった。


(もう、誰にも奪わせない。

 わたくしの人生も、わたくしの仲間も、わたくしの築いた、この場所も)


 空を映したエリスの瞳は、冷たい風が吹きすさぶ王都を、真っ直ぐに見据えていた。





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