深川寺町怨面影・4
表店にしては地味な医者だ、と義助は思った。
軒先に架かった看板が下駄程度の大きさしかないのも、謙虚に見せる工作であろう。
(ふん、善人面しやがって)
戸隠安陣の愛弟子なら、ここの医者もやくざか、やくざと通じた者のはずだ。
義助には三養堂が、ひとをあざむく隠れ蓑にしか見えない。
ここ数日、見張りと尾行を繰り返して分かったのは、家主のほかに男がふたり居候していること。
ひとりは下谷から通う武家の男。くたびれた装いからして、医者の内職を手伝って副業としている貧乏武士であろう。
いまひとり、これは真の安陣一味の男だ。深川のチンピラ集団、無法組の頭。あちらこちらで賭場を開いており、顔が広い。
家主であろう医者本人は、滅多に外出をしない。よほどの人嫌いか偏屈者か。常に居るということは、チンピラ共と千住との取り次ぎ役か、下っ端に仕事を差配する役目なのかもしれぬ。
どちらにしろ、ここが安陣の手先として深川の裏で暗躍しているのだ。
(奴と同じだ。医者を装い、根城にしている)
賭場のあがりが千住に渡るのは疑いようもない。全員、安陣に体よく使われる金集めの道具。
(殺るなら、今日だ)
うまいことに、武士とチンピラは外へ出ている。
医者は昼過ぎに珍しく外出し、男と連れ立って帰ってきた。連れの男は医者に惚れてでもいるのか、過剰なほどよく笑い、よく喋る。
そして医者と共に、三養堂へと入っていった。
(意休は、柳腰の別嬪だとか言っていたが)
得体のしれない爺である。男にも食指が動くのだろう。まさか、安陣もそうなのか。
ならば、よく喋る男はそっちの『客』かもしれぬ。しばらくは取り込み中か。
「おい、冷やを一本もらえるか。肴はいらねえ」
「あい」
義助は部屋から階下に声をかけ、酒を頼んだ。
弔いの酒であった。今日、安陣の愛弟子を殺せれば、少しは泉下の仲間の怨みも晴れよう。
苦痛の顔、恐怖の顔……水に沈んだ仲間の顔を祓うように、酒で飲み下した。
日暮れを待って、義助は旅籠を出た。町の者に顔を覚えられないための用心である。
医者は中にいるはずだ。客もまだいるかも知れぬが、邪魔立てする甲斐性はあるまい。
「すまんが、まだやってるかい」
なるべく疲弊したふうを装い、三養堂の戸を叩く。
灸を頼めば長居ができる。隙をみて医者を殺す。戻ってくるなら一味の男と武士も殺すが、こいつらはさして重要ではない。どうせ安陣には使い棄ての駒だ。
木戸が閉まる前には片付く。逃げる刻も充分稼げる。義助はそう算段をつけた。
「邪魔するぜ」
返事がないが、中に踏み入った。
診察を待っている患者はいない。ついたての置かれた診療の板の間にも、ひと続きの四畳半の座敷にも人影はない。
気を弛めず奥へ進むと、草の匂いが鼻をくすぐる。通り庭の壁に干された蓬や山椒、虎杖、センブリ草などの薬草の匂いだ。
それらと並んで、赤く色づいた柿が、ヘタに残した丁の形の小枝を紐でくくられて、何本も吊るされていた。
赤いてるてる坊主が縦に連なる、柿暖簾だ。
(干し柿……)
義助の脳裏に、鮮烈に蘇る景色があった。
舟人足だった頃、とある港で見たものだ。
そこの港は広い河口にあり、松の茂る小高い丘がすぐ近くまで迫っていた。
飛砂を防ぐため、松を植えた医者を讃える碑が丘のてっぺんにあるのだと、港の人足が教えてくれた。その砂防林のおかげで、北国有数のその港は風から守られているのだ。
秋、丘の斜面に貼りつくように建つ簡素な家々の軒には、ずらりと干し柿が垂れ下がっていた。
柿の暖簾。
葉の落ちない松の緑の中で、柿の赤は、港からよく見えた。
もうすぐ長い冬が来る。
川が凍る。土も凍る。風雪除けに茅を編む。薪を割り、土間に積む。鰊や鰰を塩漬けにする。山菜を干し、大根を干し、芋を莚で包んで納屋に入れる。
生きるには過酷な土地。その厳しさを、ほっこりと和らげてくれる、お天道様の色の甘味。
港から臨む柿暖簾は、海の安全を祈る、にっこり笑ったお天道様だ。
(ああ、懐かしい…………)
義助の頬を、涙がつたう。
二十年近い歳月を越え、昨日のことのように、その景色を思い出した。
舟人足の日々はきつかったが、楽しかった。
仲間と呑む酒は旨く、毎日が充実していた。
賭け事や過激な見世物も辛さを忘れるほど愉しいが、胸の中は虚ろだ。満たされるものなどない。明日の飯もない奴らの破滅的な愉しみだった。
柿の暖簾の赤。
質素な家、草の匂い。
それらは江戸ではない彼の地にいた、仲間と笑いあっていた若い頃に、義助の心を飛ばした。
裏口の戸が開く。
帰ってきた家主は、薄暗がりに立つ客の姿に驚き、慌てた。
「すみません、留守にしてしまって……。まだ診ますので、どうぞお上がりください」
青年が茶碗の乗った盆を台所に置き、ふわりと微笑んで診療所の座敷を勧める。
義助は濡れた目を、彼に向けた。
(……こいつは、誰だったか……)
義助の心は飛んだまま、今の足元を忘却していた。
干した草の匂いは木の香りを呼ぶ。記憶の底から。
川風、木場の風景。
色白の美貌と、自分に向ける笑顔。
するはずのない、海の匂いが確かに、した。
(……俺は、こいつに、遭ったことがある…………)
胸の奥を手探る。
柿暖簾。北国の港。
川の土手。丸太の山。
泥だらけの、屈託ない笑顔。
自分の腕で抱きとめた、転がり落ちる小さな体。
自分が守った、あの童…………
「……節郎、か…………?」
薄が伸び放題に伸び、狐狸や無宿者の棲家と成り果てた、淋しげな伽藍の跡地。
かつての栄華の面影を廃れた列柱に遺す、今、そこに相応しき姿の男が、あった。
山伏の装束の堂々たる体躯の男は、傍らに膝をついてひかえる白髪の爺に告げる。
「天誅の刻である」
白装束の肩をいからせ、使命感に燃えた眼は、千代田の城の方角を睨むように細められる。
「何度も、何度も言葉を尽くしたつもりだ。天守を再建せよと。あるべき姿に戻せと。それが我ら子孫の務めであると」
「は……」
傍らの爺が、深く頭を垂れる。
山伏はそれを肯定と取る。大きな嘆きと怒りが、男の眼に宿る。
「なにゆえ軽んじられる! 権現さまの血を引く我が言葉を。将軍家はもはや狗共の傀儡となったのか。あの城は張りぼての権現さまを祀る、ただの狗小屋となったのか、意休!」
「それがしの見ました、この江戸は……」
山伏に向ける爺の声は、常の人を食ったような響きはない。
意休はうやうやしく、進言する。
「権現さまの威光を嵩に増長した武士共、私利私欲に走る商人、日々の享楽にうつつを抜かす者で溢れ……、もはや権現さまの御恩の上にこの江戸が成り立つことへの感謝など、誰の心にもございませぬ」
「嘆かわしい!」
鉄の錫杖を振り下ろす。石畳が砕け散った。
男は、名を源一坊吉家といった。
源氏の一、それは将軍家嫡流を意味する。吉家もまた、源八幡太郎義家と読みを同じくするものである。
「源一坊さま、これを」
意休が一振りの太刀を捧ぐ。
「宝刀、髭切丸にございます」
「うむ」
白い柄が美しい太刀を、源一坊はすらりと構えた。
千代田……江戸城に向けて。
「待っておれ狗共。将軍家は、我が手に取り戻す!」
頭を垂れたまま、意休は嵐の予兆に身を震わせた。