雷蜘蛛
キールは、悪路で揺れる馬車の窓から、雨に降られる大森林を眺めていた。
もう丸一日走り続けているが、外の景色は変わらない。
この森林は、どれほど広大なのか、想定もできない。
ここは、魔の大森林に唯一通された、たったひとつのフォレストピアへの街道。
この街道から逸れて森に入ってしまえば、二度と生きては戻れない、死の森。
ただ一人だけ無事に生還できる例外は、キールの目の前に座り、ひたすらお喋りをしているフォレストピアのS級冒険者、マルだけだった。
マルは、マジックアカデミーでの出来事をキールたちに聞かせているが、キール自身はその無駄話を右から左へと聞き流していた。
キールの隣にはミーシアが、マルの隣にはスウォームが座り、さらに馬車の奥にはマルの付き添いで来たE級冒険者たちと、ストライダー姉弟が、所狭しと詰め込まれていた。
身長二メートルを超すストライダー姉弟は、細長い体躯を折り曲げて、窮屈そうに座っていた。
弟のナインは、狭苦しい空間で、数時間マルのお喋りを聞かされ続け、苛つきにより表情をこわばらせている。
ナインの唯一の救いは、お喋りの主な相手がナインではなく、スウォームに変わった所か。
ずっと馬車の中に座っているせいか、身体が痛かった。
手洗いも、馬車の後部に設置された、簡易便所で済ませていた。
馬車からは絶対に離れてはいけないと、マルからきつく言われている。
キールが身動ぎをすると、じゃらり、と服から金属音が鳴る。
革の鎧からブーツにまで、全身に真鍮の鎖を編み込んでいるのだ。
ブーツには靴底に真鍮板も入っている。
その重いブーツの靴底が、馬車が揺れる度に床を跳ね、ごつんごつんと、固い音を立てる。
キールの耳には、真鍮の擦れ合う音と、雨が木の葉に当たる音と、マルの口から垂れ流される雑音が聞こえる。
思えば学園の教室でデイズを犯そうとした事から始まり、紆余曲折を経て、とうとう人食いの化け物になってしまった。
そして、今はフォレストピアへと向かっている。
フォレストピアは、帝国の東側にある、魔の大森林の中に存在する、複数の国が集まった国家群だ。
大森林はキールの故郷であるルイーゼの町にも、やや近かった。
そして、あの全ての元凶であるロロの居る灰色の村は、ルイーゼよりも東に位置し、更に大森林に近い。
つい先日スウォームから聞いたのだが、あの陰気な死霊術師は男爵となり、灰色の村もグレイ領と名を改め、ロロが統治することになったみたいだ。
雨の大森林を見る。
雨が降ると、いつも思い出す。
帝国の牢獄から保釈された、あの日。
父のコレクション収集のため、父の手下となった、あの日。
貴族から平民へと堕ちた、あの日。
キールは、革の手袋を付けたままの拳を握りしめる。
ロロから受けた屈辱は忘れられず、また、決して忘れないように。
マルは、相変わらず不必要なお喋りを繰り返していた。
秘密主義のフォレストピアだが、そこの冒険者のトップがこんなに情報が駄々洩れでいいのだろうか。
「でねでね、わたし、アカデミーの校長に言ったのよ~。あれが教師じゃあお株が知れるって……。
あー!ちょっとまって、ストップ!馬車、ストーップ!」
マルが急に、馬車の御者に掴みかかり、停車させようとする。
御者は後ろに引っ張られ、身体を仰け反らせた。
御者は慌てて手綱で馬を叩く。
急停止する馬車。
マルが御者を解放し、告げる。
「こっから先、勝手に進むと、街道警備隊に問答無用で攻撃されるから!
ちょっと待ってて!」
マルが軽やかに馬車の屋根の上に乗ると、アカデミーの制服のベルトに取り付けてあった複数の革のポーチのひとつから、光る水晶のライトを取り出した。
どう考えても、ライトの方がポーチより大きい。
恐らくは、ポーチの内部は魔法により拡張されているのだろう。
マルは雨に濡れながら、街道の向こうへとライトを何度か点滅させる。
すると、雨で煙る街道の奥からも、何度か点滅するライトの光が見えた。
マルが屋根から素早く馬車の中へと戻る。
馬車から出たのはほんの少しの間だったというのに、全身がずぶ濡れになっていた。
左側頭部で括った黒髪のサイドテールの先から、雫が垂れる。
マルはポーチに手を突っ込むと、大きなバスタオルを取り出した。
そのバスタオルを頭にかぶり、雨を拭く。
「もー、雨やだー。
フォレストピアって、森の国だけど、雨の国でもあるんだよー。知ってた?
たぶん、一年の十分の九くらい、雨降ってる」
そんなことはキールには、知るはずもなかった。
フォレストピアは秘密主義だ。
近づく者を問答無用で攻撃するくせに、何を言っているのか。
マルは続けて御者に言う。
「もう大丈夫だよ~。
街道警備隊にも、合図が伝わってるから」
御者は肩越しにマルを見て、手綱で馬を二回叩いた。
再び馬車は発進する。
馬の蹄の、心地よい音。
馬車の木製の車輪の、荒っぽい音。
雨の、心をざわつかせる音。
だが、今はもう、マルのお喋りの音は無くなっていた。
マルは御者の隣に立ったまま、街道の奥を見つめている。
馬車は進む。
やがて、街道警備隊の検問所らしきものが見えてきた。
それは、大きな門の全体に、木の葉が隙間なく貼り付けられていて、一見するとまるで森そのもののよう。
しかし、人影はどこにも見当たらない。
検問所を一人残さず留守にする事などあるのだろうか。
マルが、門に向かって叫ぶ。
「ただいまー!」
すると、門に貼りつけられていたと思っていた木の葉の塊の一部が、もそりと動いた。
門だけではない。
周りの森の藪も、動き始める。
よく見ると、それは人間だった。
門と同じように、身体全体に木の葉を貼り付けていて、完全に森と一体化している。
今の様に意図的に動いたりしない限りは、そこに人間がいることなど、全くわからない。
マルが得意げにお喋りを始める。
「凄いでしょ、あれ。全身に葉っぱをくっつけてるんだ。
ギリースーツって言うんだけど、あそこに人が居るなんて思わなかったでしょ?」
「あ、ああ。全然わからなかった……」
キールは、マルの言葉に返答する。
思えば、マルと出会ってから、キールがまともに反応するのは初めてかもしれない。
あのギリースーツとやら。
魔法でも何でもない。
ただの小細工に過ぎない。
だが、その小細工は、人の目を欺くには、十分過ぎるほどの効果があった。
それこそ、そこらの魔法よりも、ずっと。
もし警備隊がその気ならば、キールたちに存在すら気付かせないまま、一気にキールたちを殲滅できたであろう。
マンイーターとなり、強大な力を身に付けたキールたちだったが、相手を意識すらできないのであれば、為す術も無く殺されるのは普通の人間と変わりない。
キールは、正直な所、フォレストピアを侮っていた。
所詮は森に住む、未開の国だろうと。
だが、認識を改めねばなるまい。
今の状況は、喉元に刃を突きつけられて、それに気付かないのと同じだ。
何と言う間抜けなことか。
キールは、決して弱者ではない。
だが、相手を侮って油断する悪癖があった。
それは時に、戦士としては致命的になる。
しかし、生まれついて持ってしまったこの要素は、なかなか直すことができなかった。
関所の門が開く。
重たい音を立てて。
キールは、歯を食いしばる。
自分の迂闊さに腹を立てて。
マルが、開いた門を背に、キールたちへ両手を広げる。
「ようこそ、フォレストピアへ!
ここが首都であり、唯一の玄関口、『アルファ』だよ!」
門が、開き切る。
キールは最初、門の先にもまだずっと森が続いているように見えた。
しかし、違う。
森に見えたのは、全て木々そっくりに偽装した建物だ。
ご丁寧に、屋根には茂った葉を付けて。
それが数百と連なって、まるで森と一体化しているよう。
これでは、帝国の偵察飛行部隊が上空から見ても、ただの森にしか見えないだろう。
建物からは、住民たちが出入りしていた。
皆、保護色の緑の服を着て。
キールたちの乗る馬車が、ゆっくりとフォレストピアの大地に入国する。
門を過ぎても、ギリースーツを着た警備隊が、馬車を誘導している。
本来は厳重になされるであろう身体検査は、マルのおかげで無しのようだ。
馬車が、木々に擬態した家々の間を通り過ぎる。
他国からの来訪者など、滅多に来ないどころか、下手をしたら一生お目にかかれないであろう民衆が、家の窓から顔を覗かせてキールたちの馬車を指差して驚いている。
この国には、王が居ない。
その代わりに、評議会と呼ばれる貴族たちが国を治めている。
情報統制しているのも、評議会の意向だそうだ。
その方が、国民を制御しやすいのだろう。
しばらく馬車が進んだころ。
突如、スウォームに抱き着いていたマルが跳ね起き、声を上げる。
「あっ!そこを右に曲がったところ!
わたしの研究室!
雷蜘蛛の死骸も、そこに保管してあるよ!」
マルの研究室は、首都の一等地にあった。
見た目からは想像できないが、これでもフォレストピアの冒険者の頂点なのだ。
大木に偽装した、五階建ての家屋。
しかも、地下室まで完備しているらしい。
どうやら、雷蜘蛛の死骸も、その地下室にあるようだ。
研究室の一階部分は、錬金術の店になっていた。
マルがドアを開けて中に入ると、店員たちが揃ってマルを出迎えた。
「マル様。おかえりなさいませ」
「ただいま!みんな!」
マルが店員たちに手を振って、挨拶を返す。
店の中には所狭しと、薬や素材が並べられていた。
マルがスウォームの腕に絡みつきながら、一同を案内する。
「ここはね、わたしが調合した薬とか毒が売られてるのよ!」
「S級冒険者の錬金術師が調合した薬ですか。効きそうですね」
「効きそうどころか、必須よ!
この国は、わたしの虫よけの薬を家に塗らなかったら、病気持ってる蚊とかダニに噛まれて、死んじゃうわ!
ちゃんと馬車にも、虫よけを付けてたのよ!
雨で落ちないやつね!」
それを聞いて、キールはぞっとする。
魔の大森林は危険でも、街道やフォレストピア内だけは安全だと思い込んでいた。
だがよく考えたら、蚊やダニは、街道や国など関係なしに血を吸いにやって来るのが当たり前だ。
馬車で森を通過している時、馬車からは絶対に離れてはいけないとマルが言っていたのは、虫よけの範囲から外れるからだと、今更ながらに理解した。
店の奥のドアを開けると、地下へと続く階段が見えた。
この階段の奥に、雷蜘蛛とやらの死骸が保管されているらしい。
マルが階段へと足を一歩踏み入れると、真っ暗だった階段に、ぼんやりと明かりが付いた。
光の水晶の明かりが、自動起動するようになっている仕掛けのようだ。
地下は地上と違い、木造ではなくレンガ造りだった。
歩く度に、ブーツの底に仕込んだ真鍮板が重い音を立てる。
キールの前を行くスウォームが、腕にしがみついているマルに尋ねる。
「マルさん、フォレストピアの勇者、って知ってますか?」
「ゆうしゃ?なにそれ?」
「雷蜘蛛を討伐した人らしいです」
「え?雷蜘蛛って、街道警備隊が総出で倒したって聞いてるんだけど……。
も、もしかして、わたしにまで嘘ついたのっ!?評議会め!」
マルの叫びが、レンガ造りの地下に響く。
(勇者……?)
キールも初めて聞く単語だ。
すると、キールたちの後ろに付いてきていた、E級冒険者のひとりが、足を止める。
キールは、肩越しに後ろを向いた。
薄暗い明かりの下、冒険者は、青い顔をして立ち竦んでいる。
キールが声をかける。
「どうした?」
「い、いえ、なんでも、ないです」
再び歩き出す冒険者。
スウォームが、一瞬こちらを見た気がした。
「ここだよっ!」
一同が歩いて来た先には、鉄製の両開きの扉があった。
マルが、扉を思い切り開ける。
地下室は、真っ暗であった。
しかし、マルが中に入ると、階段と同じく、地下室にもぼんやりとした明かりが灯る。
そこには、
大きな水槽の中で、
薬液に浸され、
胴体を真っ二つにされた、
人間よりも遥かに大きな、
巨大な赤毛の蜘蛛の死骸があった。
「デカいな……」
キールは、蜘蛛の死骸に気圧される。
魔神、と呼ばれた蜘蛛。
しかし、その強さの本質は、体躯の大きさではないだろう。
ただ大きいだけであれば、他にも多くの種の獣がいる。
スウォームが、水槽のガラスに手を触れる。
「これが、雷蜘蛛」
スウォームは、ズボンのベルトに挿してあった、杖を手に取る。
学生時代、最弱であったスウォームを、虐めていた生徒の骨で作った杖を。
その杖を手に取り、過去を思い出す。
あの頃はまだ、スウォームとは名乗っていなかった。
ただの弱者だった頃の名は、捨てた。
今は、虫の『群れ』だ。
スウォームは、杖にマナを込める。
数多くの人間を食い、体内に溜め込んでいたマナを。
「よみがえれ」
スウォームの杖から、無数の、黒く光る蝶の大群が飛び立つ。
スウォームの死霊術は、蝶の形だ。
マンイーターになる前は、一匹ずつしか出現しなかった、魔法の蝶。
それが今では、数えきれないほどに。
蝶の姿をしたマナの群れは、水槽のガラスをすり抜け、巨大な蜘蛛の死骸の中へ、次々と吸い込まれていく。
蜘蛛は、うっすらと、黒く光る。
「動け」
スウォームは、呟く。
祈るように。
だが、蜘蛛は光るばかりで、微動だにしない。
「動け!」
スウォームは、叫ぶ。
今はもう、弱者ではない。
ただ迫害される者ではない。
強き者に、なったはずなのだ。
蜘蛛は、動かない。
「……」
スウォームは、黙る。
力が至らなかったのか。
今でもまだ、弱者のままなのか。
永遠に、そうなのか。
「……くそっ」
スウォームは、吐き捨てる。
足元のレンガに、水滴が落ちる。
それが自分の涙だと、今になって気づく。
スウォームは、俯く。
その時。
蜘蛛の脚が、水槽のガラスを掻いた。
スウォームは、跳ねるように顔を上げる。
黒く光る、真っ二つになった蜘蛛の巨躯。
それが、少しずつ繋がっていく。
蜘蛛の脚が動き出す。
浸かっていた水槽の中の薬液に、泡を吐きながら。
「うごいた」
スウォームが、呟く。
浅黒い肌の美しい顔に、涙を流しながら。
蜘蛛の身体から、黄色い稲妻が迸る。
水槽が割れ、大量の薬液が、大波となって皆にかぶった。
「きゃあっ!」
ミーシアの叫びが背後から聞こえた。
それ以外の者は、素早く臨戦態勢へと入る。
マルは魔法のポーチから、なにやら金属の筒らしきものを取り出した。
セブンが、秘宝の指輪に魔法を込めると、球状のバリアがセブンを包み込んだ。
ナインが右手を前に差し出し、掌を上に向けると、極小の黒点が宙に現れる。
キールは、袖から真鍮の鎖の束を解き放つ。
「ま、待てっ!」
スウォームが叫ぶ。
黒髪からは、薬液の雫を滴らせて。
二つに分かれていた蜘蛛の身体は、もう完全に再生されていた。
赤毛の蜘蛛が、スウォームたちを見る。
その目は光を取り戻し、もはや死骸ではなくなっていた。
蜘蛛が、言葉を発する。
巨大な体躯には似合わない、幼い少年の声で。
「こ、ここは……?
僕の奥さんたちは?
君たちは、誰だい?
一体どうなってる?」
スウォームが返答する。
「あなたは死んだんですよ。
フォレストピアの勇者の手によって。
そして、私が今、蘇らせたのです。
死霊術によって」
蜘蛛は、深い黒色の瞳で、スウォームを見つめる。
「そっか。
僕は、勇者にやられたんだね。
記憶が、あやふやだ……。
僕の、奥さんたちは?
奥さんたちは無事?」
スウォームは、蜘蛛に告げる。
フライングパンの禁書『固有種目録』に記録されていた、事実を。
「あなたの妻である大蜘蛛たちは、あなたが死んだあと、自らの身体に牙を突き立てて、あなたの後を追ったそうです」
蜘蛛は、スウォームを見つめる。
「そ……っか。
僕の奥さんたち、死んじゃったんだね。
死ぬのは、僕だけでよかったのに。
もう……」
蜘蛛の目から、涙が零れ落ちた。
キールはスウォームを問いただす。
「おいおい、どうなってんだ。
こいつ、中身はただのガキじゃねえか。
魔神とか言ってたのは何なんだよ」
その問いに、赤毛の蜘蛛が応える。
「ははは。別に、魔にも神にもなったつもりは無いんだけどね。
僕はただの蜘蛛だよ。
でもね……」
何かが破けるような音がして。
蜘蛛の身体が、黄色の稲妻に包まれる。
「奥さんたちを死なせた!
勇者は許せない!」
あまりにも眩しすぎる雷光に、キールたちはまともに目を開けてはいられなかった。
だが、敵対するかもしれない相手を前に、目を瞑る訳にはいかない。
顔に手をかざし、薄目を開けて、様子を伺うキール。
そして、キールは見ていた。
蜘蛛の身体が、縮んでゆくのを。
四本の前脚は癒着し、二本の腕となり。
四本の後脚は癒着し、二本の脚となり。
糸の束が現れ、胴体に巻き付き服となり。
キールよりもさらに小さくなり。
そして、稲妻の光がうっすらと消えてゆく頃。
そこには、ゆったりとした服を着た、くしゃくしゃの赤毛の、十歳前後の少年が、目を瞑って佇んでいた。