第二話 崩壊の教室
空はどこまでも青く、雲ひとつない快晴だった。
これ以上ないほどのデート日和だ、と俺は天気予報アプリを見ながら一人ごちる。
今日は日曜日ではないけれど、俺の心は既に週末へと飛んでいた。
通学路を歩く足取りは、羽が生えたように軽い。鞄の底には、丁寧にラッピングされた小さな箱が鎮座している。
渡すのは日曜日だが、学校に持っていくだけで、なんだかお守りのように俺を勇気づけてくれる気がした。
学校の下駄箱で靴を履き替えていると、視線の端にレナの姿が見えた。
彼女は友達と談笑していたが、俺の姿を見つけると、一瞬だけ表情を強張らせたように見えた。けれど、すぐにいつもの花が咲くような笑顔を向けてくれる。
「あ、翔太くん! おはよう!」
「おはよう、レナ」
駆け寄ってくる彼女の髪から、ふわりと甘いシャンプーの香りが漂う。
それだけで、俺の脳内からはドーパミンが溢れ出しそうになる。
単純すぎるかもしれないが、恋をしている男なんてこんなものだろう。
「昨日はごめんね、MINEの返信遅くなっちゃって」
「ううん、全然。忙しかったんでしょ?」
「うん……ちょっとね。あ、あのさ翔太くん」
「ん?」
レナは少し言い淀み、視線を泳がせた。
「日曜日のことなんだけど……」
「どうかした? まさか、都合が悪くなったとか?」
心臓が少し跳ねる。
まさか、という不安がよぎるが、レナは慌てて首を横に振った。
「ううん、違うの! 楽しみすぎて、昨日服を選んでたら寝不足になっちゃって……変な顔してたらごめんねって言いたかっただけ」
「なーんだ、そんなことか。レナはどんな顔でも可愛いよ」
「もう、翔太くんったら朝から恥ずかしいこと言わないでよ」
レナは頬を赤らめて俺の腕を軽く叩く。
その仕草も、はにかんだ表情も、すべてが完璧だった。
そう、完璧すぎたのだ。
今にして思えば、その時の彼女の笑顔は、あまりにも完成された「演技」のようだった。
瞳の奥にある微かな揺らぎや、時折見せる影のようなものに、俺は気づかないフリをしていたのかもしれない。
あるいは、幸せというフィルターが、不都合な真実を塗りつぶしていたのか。
予兆は、放課後に訪れた。
その日、俺は担任に頼まれて生徒会の資料整理を手伝っていた。
地味で目立たない俺は、こういう雑用を頼まれることがよくある。以前なら面倒だと感じていたが、今は違った。
この作業が終われば、レナと一緒に帰れるかもしれない。そう思うだけで、単調な作業も苦にならなかった。
作業が終わり、職員室を出たのは午後六時を回っていた。
校舎内の人気はまばらで、廊下は薄暗くなり始めている。
運動部の掛け声が遠くから聞こえてくる以外は、静寂が支配していた。
俺は急いで教室へ戻った。レナには「終わったら連絡する」と伝えてあったが、返信はない。
まだ待っていてくれるだろうか。それとも、先に帰ってしまっただろうか。
教室のドアに手をかけようとした時、中から話し声が聞こえてきた。
「……でさあ、マジウケるんだけど」
「キャハハ! それヤバくない?」
下品な笑い声。
聞き覚えのある、嫌な声だった。
俺の手が止まる。
ドアの小窓からそっと中を覗くと、教卓の周りに数人の男女が集まっていた。
黒川ダイキとその取り巻きたちだ。
机の上に腰掛け、土足のまま椅子に足を乗せているダイキ。その横で媚びるように笑うミキとケンジ。
そして、彼らに囲まれるようにして立っている、一人の女子生徒。
高槻レナだった。
(レナ……? なんであいつらと?)
俺は息を潜め、壁に背を預けて聞き耳を立てた。
入っていって声をかける勇気はなかった。ダイキたちは俺の天敵だ。関わればロクなことにならない。
レナが困っているなら助けたいが、様子を見る限り、彼女は彼らと普通に会話しているように見えた。
「てかさ、レナ。お前、いつまで『彼氏ごっこ』続けんの?」
ダイキの声が、静まり返った廊下にまで響いてきた。
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
彼氏ごっこ?
「そうそうー。あたしたち見てて痛々しいんですけどー。あんな陰キャと手繋いだりとか、罰ゲームだとしてもキツすぎでしょ」
ミキの甲高い声が続く。
罰ゲーム。
その単語が、俺の頭の中で反響した。
かつて噂されていた言葉。俺自身が最も恐れていた言葉。
まさか、まだそんな話をしているのか?
いや、違うはずだ。レナとの三ヶ月は本物だ。あんなに優しく微笑んで、あんなに愛おしそうに俺の名前を呼んでくれた。
それが嘘なわけがない。
「……もう、いいじゃん。もう少しで終わるから」
レナの声が聞こえた。
消え入りそうな、けれど確かに彼女の声だった。
俺は耳を疑った。
否定してくれ。そんなの嘘だって、怒ってくれ。
祈るような気持ちで、次の言葉を待つ。
「終わるって、いつだよ? お前、まさかアイツに情が湧いたとか言わねえよな?」
ダイキが面白そうに問いただす。
「そんなわけ……ないでしょ」
レナの声が、わずかに震えていた。
「ただ、可哀想だから。あんなに浮かれて、私のこと本気で好きになって……いきなり真実をバラしたら、何するか分かんないし」
「ハッ! なに、ストーカー化すんのが怖いわけ? ま、あいつならやりかねねえな。いかにも粘着質っぽいし」
「だろ? だからさっさと切っちまえよ。俺らも見てて飽きてきたわ。一ヶ月の予定が三ヶ月だぞ? お前の演技力にはアカデミー賞やるけどさ」
ダイキが机をバンと叩く音がした。
俺の体温が、急速に奪われていくのを感じた。
指先の感覚がなくなり、胃の奥が鉛のように重くなる。
一ヶ月の予定。
三ヶ月の延長。
演技力。
断片的な言葉が繋がり、残酷な一枚絵を完成させていく。
「でも、ダイキくん。レナだって頑張ってるんだよ? 昨日だって、あの陰キャからのキモいMINEに『愛してる』とか返してたしー」
「うわ、マジ? サムッ! お前すげーな、女優かよ」
「……やめてよ、ミキ」
レナの困惑したような声。
だが、それは否定ではなかった。
昨日、俺が送ったメッセージ。
それに対する返信。
あれが、ミキたちに見せびらかされ、嘲笑のネタにされていた?
あの「愛してる」は、彼女の本心ではなく、ただのノルマ達成のための作業だったのか?
「で、どうすんのレナ。日曜にデートなんだろ? そこで終わらせんの?」
ケンジが茶化すように聞いた。
「……うん。そのつもり。映画見て、適当に理由つけて別れる」
「へえ、優しいじゃん。最後の思い出作りってか?」
「違うよ。……ただ、穏便に済ませたいだけ」
レナの声は淡々としていた。
俺が知っている、甘く優しい声色はどこにもない。
そこにいるのは、陽キャグループの一員として、空気を読み、同調し、異物を排除しようとする冷徹な他人だった。
「ま、いいけどさ。あ、そうだレナ。こっち来いよ」
ダイキが手招きをする気配がした。
衣擦れの音。そして、短い沈黙の後、濡れたような音が微かに聞こえた。
キスをしている音だ。
俺の脳髄が白く弾けた。
「ん……っぷ。やっぱお前は俺のモンだな。あの陰キャには指一本触れさせてねえだろうな?」
「……うん。手だけ。キスもしてない」
「よーし、いい子だ。あいつが知ったら発狂するかもな。『僕の天使は、実はビッチでした』ってな! ギャハハハ!」
爆笑が教室中に響き渡る。
俺は、それ以上立っていられず、膝から崩れ落ちそうになった。
壁に手をついて、必死に体を支える。
呼吸がうまくできない。
肺の中に、ガラスの破片が詰まったみたいに痛い。
嘘だ。
全部、悪い夢だ。
そう思いたかった。
でも、教室から聞こえてくる声は、あまりにも生々しい現実だった。
レナは俺の彼女じゃなかった。
最初から最後まで、黒川ダイキの女だったのだ。
俺はこの三ヶ月間、彼らの退屈しのぎのおもちゃとして、ピエロを演じさせられていただけだった。
俺が映画のチケットを取って喜んでいる時も、夜遅くまでプレゼントを選んでいる時も、彼女は裏で彼らと繋がり、俺を嘲笑っていたのか。
「翔太くん優しいね」
「翔太くんといると落ち着く」
あの言葉も、あの笑顔も、すべてが台本通りのセリフだったのか。
(……ふざけるな)
心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
パリン、という硬質な音ではない。
もっと重く、ドロリとしたものが決壊する音。
愛おしさも、切なさも、幸福感も、すべてがどす黒い汚泥に飲み込まれていく。
俺はゆっくりと立ち上がった。
今すぐ教室に乗り込んで、叫び出したい衝動に駆られる。
「ふざけるな! 全部聞いてたぞ!」と。
ダイキを殴り、レナを問い詰め、その場をめちゃくちゃにしてやりたい。
だが、俺の理性がそれを押し留めた。
そんなことをして何になる?
多勢に無勢だ。俺が暴れたところで、ダイキたちに取り押さえられ、さらに惨めな思いをするだけだ。
それに、感情に任せて吠えるのは、負け犬のすることだ。
俺は負け犬にはなりたくない。
ただの被害者で終わりたくない。
俺は鞄を握りしめた。
中には、まだあのプレゼントが入っている。
このネックレスは、もう渡されることはない。
永遠に輝きを失った、ただの銀の塊だ。
「……おい、誰かいるんじゃね?」
教室の中で、誰かが気配に気づいたようだ。
俺は息を殺し、音もなくその場を離れた。
廊下を走ることもせず、ただひたすらに静かに、影のように階段を降りる。
涙は出なかった。
泣くことすら馬鹿らしい。
涙を流す価値もない連中だ。
俺の純情を、時間を、想いを、ゴミのように扱った報いを、必ず受けさせてやる。
校舎を出ると、空は茜色に染まっていた。
あれほど美しく見えた夕焼けが、今は毒々しい血の色に見える。
俺はスマホを取り出し、電源を切った。
レナからの連絡など、もう二度と見たくない。
いや、違う。
見るのだ。これからは「監視対象」として。
帰宅した俺は、自室の鍵を閉め、カーテンをきっちりと閉ざした。
部屋の暗闇の中で、パソコンの電源ボタンを押す。
青白い光が顔を照らし出す。
いつもの駆動音が、今は戦闘開始の合図のように聞こえた。
モニターに映る自分の顔は、能面のようだった。
怒りも悲しみも超越した、虚無の瞳。
俺はキーボードに指を置いた。
まず手始めに、ダイキのSNSアカウントを徹底的に洗う。
表向きのアカウントではない。奴が裏で使っている、鍵付きの、あるいは匿名のアカウントだ。
奴の性格なら、必ずどこかでボロを出している。
自己顕示欲の塊のような男だ。犯罪自慢や、他人を見下す書き込みをしていないはずがない。
画像解析ソフトを立ち上げ、奴が過去に投稿した写真の背景、瞳に映り込んだ景色、Exifデータまで全てを解析する。
特定には時間がかかるかもしれない。
だが、俺には時間ならいくらでもある。
愛を失った俺に残されたのは、膨大な時間と、冷え切った執念だけだ。
「……レナ」
モニターに向かいながら、俺はかつての恋人の名前を呟いた。
愛しさを込めて呼んだその名前は、今は呪詛のように響く。
「お前もだ。お前も同罪だ」
彼女が脅されていたのか、それとも本気で楽しんでいたのか、そんなことは今の俺には関係ない。
俺を騙し、俺の心を殺したのは事実だ。
「可哀想だから」?
その上から目線の同情が、何よりも許せなかった。
俺は可哀想なピエロなんかじゃない。
お前たちの人生を終わらせる、死刑執行人だ。
カタカタカタ……ッターン!
乾いたタイピング音が部屋に響く。
数時間の作業の末、俺は一つの手がかりを見つけた。
ダイキの取り巻きの一人、ケンジが使っている裏アカウントだ。
そこには、未成年の飲酒パーティーの動画がアップされていた。
顔は隠されているが、服装や声で特定は容易だ。そしてその場には、ダイキらしき人物も映っている。
これはまだ序の口だ。
こんなものでは終わらせない。
もっと深く、もっと致命的なものを掘り起こしてやる。
奴らが積み上げてきた虚構の城を、土台から崩してやるのだ。
俺は次のターゲットに狙いを定めた。
高槻レナ。
彼女のスマホ、クラウドデータ、プライベートなやり取り。
倫理的なストッパーは、先刻教室の前で砕け散った。
俺はハッキングツールを起動し、彼女のアカウントへの侵入を試みる。
パスワードは簡単だった。俺の誕生日と、彼女の誕生日の組み合わせ。
……皮肉な話だ。
そんなパスワードを設定しておきながら、裏では俺を嘲笑っていたなんて。
ログインに成功し、彼女のMINEの履歴が画面に流れる。
ダイキとのやり取り。ミキたちとのグループチャット。
そこには、俺が知らない「高槻レナ」の姿があった。
ダイキに怯え、ミキたちに同調し、そして俺のことを……。
『陰キャくん、またプレゼント用意してるみたいw』
『マジ? ウケるー。何くれんの?』
『分かんないけど、どうせ趣味悪いアクセとかじゃない?』
『捨てちゃえ捨てちゃえ』
数日前の、ミキとの会話ログ。
レナの発言は『……そうかもね』と短かったが、否定はしていなかった。
画面を見つめる俺の目が、乾いて痛む。
やはり、救いようがない。
俺は保存ボタンを押し、ログを全てローカルドライブにコピーした。
証拠は揃いつつある。
復讐のシナリオが、俺の頭の中で構築されていく。
まずは外堀から埋める。取り巻きたちを社会的に抹殺し、孤立させる。
そして最後に、本丸であるダイキとレナを、地獄の底へ突き落とす。
ふと、机の隅に置かれたプレゼントの箱が目に入った。
俺は無造作にそれを掴み、ゴミ箱へ投げ捨てようとした。
だが、手が止まった。
これを捨てるのは簡単だ。
だが、それではただのゴミになってしまう。
俺はこの箱を、復讐の道具として使うことに決めた。
これが、俺たちの「愛の証」ではなく、「断罪の証」になるように。
時計の針は深夜二時を回っていた。
明日は月曜日。また学校で彼らの顔を見なければならない。
だが、もう平気だ。
俺はもう、昨日の俺ではない。
仮面を被るのは、お前たちだけじゃない。
俺もまた、従順で鈍感なピエロの仮面を被り、お前たちの喉元にナイフを突き立てるその瞬間まで、完璧に演じきってやる。
「楽しみにしてろよ、レナ、ダイキ」
モニターの光だけが照らす部屋で、俺は歪んだ笑みを浮かべた。
それは、かつてレナに向けた温かな微笑みとは似ても似つかない、冷酷な狩人の表情だった。
復讐という名の、新しいゲームが始まったのだ。
期限切れの恋の精算を、きっちりとつけてやる。