第四十二話「シャオロン」
店に入ると、そこに居たのは──
白シャツに茶色のベストを羽織った、黒い肌のスキンヘッド男。
口元を縁取るあご髭は、丁寧に整えられている。
彼は慣れた手つきでグラスを回しながら、こちらを見た。
「コンバンハ。お好きな席にドウゾ」
「どうも……」
席は、カウンターに五つだけ。
右から二番目の席には、小麦色の肌をした女が座っている。
白リボンがついた三つ編みの黒髪は、後ろへと流れ──
その背には、黄金の龍。
黒を基調にしたチャイナ服だった。
白の差し色が入った胸元は、無防備に開いている。
だらしなく横へ放り出された両足には、スリットが深く切れ込み、太ももが露わになっていた。
足には、拳法家が履いてそうな平べったい黒靴──
映画に出てくる、女拳法家のような見た目だ。
彼女は、古金の腕輪をつけた腕をカウンターにつき、ぼんやりとしていた。
──さすがに、横に座るのは変か。
俺は、左から二番目の席へと腰かけた。
すると──
女はこちらへ顔を向けた。
薄く開いたその瞳は切れ長で、柔らかな蜜色。
ほんのり上気した顔は、どこか妖艶だ。
酒で濡れた唇が、甘い笑みを浮かべた。
「珍し~い。こんなボロい店に、客が来るなんてさ」
「悪口言うなら、お酒ださナイヨ」
「冗談だってば。ボブのお酒は世界一! おいし~いよっ」
ころりと猫なで声で、彼女はおどけた。
「おかわり!」
「ハイハイ、いつものネ。あなたはどうスル?」
そういうと、店主は俺にメニューを渡した。
「……じゃあ、この春のフルーツカクテルで」
「かしこまり。ちょい待たれヨ」
日本語に慣れない外国人、みたいな喋り方だ。
その時。
女が、席を左へひとつ──
すり寄るように、俺の横へと移動してきた。
「お兄さん、名前は?」
「山田緋色──街に来たばかり、です」
「ふぅん……あたし、シャオロン! ただの飲んだくれ。イェーイ!」
彼女は拳を突き出してきた。
俺は、その拳に合わせるように手を出した。
ただの飲んだくれ、か。
──嘘だ。
シャオロンを実際に見るまで、俺は存在すら認識できなかった。
彼女からは、一切の魔力を感じない。
『魔力を隠しすぎると目立つ』
ギルドで、エリンが言っていたことがよく分かった。
“無”とは、異質なのだ。
釈然としないものはあったが、深く考えないことにした。
この店には、酒を飲みに来ただけだ。
──楽しもう。
「オマチ。春のフルーツカクテル、“桃イチゴもりもりドリンク”、ネ」
前に置かれたのは、桃色の実がたくさん入ったカクテル。
そしてボブは、シャオロンに酒瓶を注いでいく。
ラベルには、“天龍”と書かれていた。
どぎつい香りが鼻をつく。
匂いだけで酔いそうだ。
「チーラ!」
彼女は酒を突き出してきた。
乾杯の挨拶は、エルフの里と同じらしい。
「チーラ」
ちんっと杯を鳴らし──
口に、酒を含んだ。
瞬間。
甘みが弾けた──ッ!
甘いだけじゃない。
舌の奥で酸味と微かな苦み、喉を落ちたあとも余韻が残る。
何だ、これは。
果実酒の軽さと、しっかりとした酒の芯が同居している。
「……うまい!」
思わず、声に出てしまった。
この世界に来てから飲む酒で、もしかしたら一番かもしれない。
「でしょー! この辺じゃ、ボブの酒が一番美味いんだ~」
「私の故郷──アメリカで流行っていたお酒を、アレンジしたお酒デース」
「……」
アメ?
「ちょ、ちょっとボブさん。今、なんて?」
「アレンジした、お酒デス?」
「その前!」
「アメリカで?」
「その、アメリカがあった、その惑星の名前って──」
「「地球」」
「オー……山田さん。アナタ……“転生者”、デスカ?」
──。
「ワタシは、十七年ほど前にここに来たのデス。その頃は、他にも転生者がいて──」
転生者。
この街では、そう呼ぶらしい。
「バミューダトライアングル、という現象を知ってマスカ?」
「えーと。船とか、飛行機が……突然消えてしまう、みたいなやつでしたっけ」
「そうです。フロリダ、バミューダ、プエルトリコを結ぶ魔の三角地帯。その海域に行くと、不可解な事故が起きる。ワタシは、あの光の渦も、それと同じ何かなのではないか──と、勝手に思ってイマス」
なぜ俺は、自分だけを特別だと思っていたんだ。
車のラジオで、言っていたじゃないか。
『最近よく人が消えているそうですよ』
と──。
「それで、皆さん特別な固有能力を持ってマシタ」
「ギフト……」
「ええ、その人だけの特別なチカラ──緋色さんにも、ありますよネ?」
「えっ。いや、俺は……多分、無いですね」
心あたりが、全くない。
頑張れば、胸からミサイルとか出せるのだろうか。
「オー、そういう人もいるのかもしれまセンネ」
ボブは、同情気味に俺を見た。
「ちなみに、マスターの力は何ですか?」
「ワタシの力は、“美味しいお酒を作る”──デス」
「それだけ……ですか?」
「おかしいデショウ。皆が、モンスターと戦っている間……ワタシはこのバーで、ず~っとお酒を作っていたのデス」
少しだけ寂しそうに、彼は微笑んだ。
シャオは、ボブの腕をぱんぱんと叩いた。
「あたしの役には立ってるよ。自信もちなって~っ!」
「あんま嬉しくないネ」
気づけば、話題はいくつも巡っていた。
ボブは海洋学者だったこと。
本当は、冒険に憧れていたこと。
シャオロンは『荒天』と呼ばれる南大陸の出身で、少しだけ拳法をしていること。
他愛もない会話が繰り返され、夜は更けていった──。
「シャオ。店じまいデース、もう出てケ」
「ねむい〜。うーごーけーなーいー!! ボブ、運んでっ 」
「ワタシは、片付けがあるのデース」
駄々をこねるシャオロンを見て、ボブは肩をすくめた。
「Oh, Right! 山田サン。この娘、家まで送ってくれまセンカ?」
「いや……俺、男ですよ」
「ハーッハッハ! 大丈夫デース!」
豪快にボブは笑った。
何が大丈夫なんだろう。
「お代は、半分でいいですかラ。お願いシマース」
潰れた女を、初めて会った男に任せるのはどうかと思うが……。
そんな無害そうな男に見えるのか、俺は。
「さっ、出てった出てった。また来てくだサーイ」
「ちょ、ちょっと」
そうして俺たちは、追い出されるように店の外へ。
シャオロンは、ふらふらとした足取りで、両手を広げた。
「おんぶっ!」
「……」
仕方ない。
どうせ時間はある。
送り届けて、すぐに帰ろう。
俺は後ろに手をやり、露わになった両ももを支えた。
分厚い──凄まじい筋肉だ。
「家、近いのか?」
横に視線をやると、シャオの顔がすぐ間近だった。
長いまつ毛が揺れる。
「近いような~遠いような~。ふふ」
「どっちに行けばいいんだよ」
「あっち~」
俺は、流れに身を任せることにした。
彼女が指で示す方へと、歩いていく。
通りには、風音だけが流れていた。
歩き始め、数分。
──ざわ。
不気味な気配。
「……何だ」
それは、前、左、右。
示し合わせるように、俺たちに迫っている。
やがて、現れたのは──
黒いフードを深く被った、全身黒ずくめの三人組。
顔は影に隠れ、正体は分からない。
腰には、黒い長刀。
……嫌な予感がした。
「見つけたぞ。シャオロン・ユエ」
ノイズ混じりの男声。
その声は、ひどく機械的だった。
謎の人物たちは、腰に手をやり──
そして、
刀を、抜き放った──ッ!
「その女を渡せ」
銀の刀身が、月明かりを冷たく弾く。
ただ事ではなさそうだ。
「……断る」
「大人しく渡せば、お前は助けてやる」
鋭い殺気は、これは遊びではないと告げていた。
シャオロンを庇う義理はない。
が、しかし。
酒を飲み交わした仲、いわば飲み友である。
風牙隊五か条、その二──“仲間を見捨てない”、だ。
「さぁ。こっちに──」
「嫌だね」
きっぱりと、俺は言った。
「チッ」
短い舌打ちが聞こえると、三者は黒刀を構えた。
三方向から、じりじりと脅威が迫る。
シャオロンは背中で、呑気に寝こけている。
事情を聞く暇はなさそうだ。
エンバータウンは魔法禁止。
早くも、ルールを破ることになるとは。
俺は──
「身体強化」
小さく呟き、後ろへ身を翻した。
駆けていく、前へ。
走る、走る。
駆ける、駆けていく──ッ!
背後には、三つの気配。
それは離れることなく、絶えず追ってきている。
──速い──ッ。
身体強化をしているというのに、簡単には巻けそうになかった。
「何だってんだ……!」
騒ぎを大きくするのは、賢明な判断ではない。
街についたばかりなのに、初日から衛兵に捕まるのはごめんだ。
どうすべきか。
「シャオロンッ! おいっ。起きろって!」
「ん~~。ねむい」
「寝てる場合かよっ。誰なんだよあいつら!」
「ぇ~、知らな~い。あたしってば、人気者だからさぁ~」
「はぁっ!?」
「んふ。守ってぇん」
彼女は耳元でそう呟くと、人差し指を前に出した。
「へへ。あっちあっち~」
「こ、ここはっ……」
示された先は、妖艶な裏通り。
ピンクの看板が立ち並ぶ、ザ・エロホテル通りだった。
「あっちぃ。はやくはやく~」
凄まじい速度で、気配が迫っている。
行くしかない──!
「分かった。あっちだな!」
路地裏を駆け抜け、曲がり、抜け、また曲がっていく。
何度そうしたか分からない時。
廃墟のような石造のビルを、シャオロンが示した。
「あそこっ。あの上、あたしん家~」
背後の気配は──
もう、なかった。
「あ~、疲れた……」
「んふ、あんがとぉ。ほんじゃっ、こっちこっち~」
彼女は手招きすると、寂れた階段を登りはじめた。
「あっ。おいっ」
薄汚れたビルの階段を、上がっていく。
「なぁ、シャオロン」
「シャオでいいよ」
「……シャオ。家についたし、もういいだろ。俺は帰るよ」
「え~、怖い~。あいつら、また来るかもだよぉ」
琥珀色の瞳を揺らし、すがるように俺を見上げた。
甘ったるい声は、明らかにからかっている。
「一緒に居てよ。お・に・い・さ~ん」
「俺は、山田緋色だ」
「そーだったね。ひ・い・ろ」
軽く溜息をついた。
「……ちょっとだけだ」
「さっすがぁ~!」
ほどなくして。
三〇三号室と書かれた部屋の前で止まった。
シャオは部屋の鍵を開け、入っていく。
俺も、その背を追うように入った。
中は──
酒瓶の山。
窓際には、シンプルな白ベッドがひとつ。
家具らしきものはそれだけ。生活感がまったくなかった。
「よいしょっ」
シャオはパァンと俺の背を弾き、勢いよくベッドに叩きつけた。
「うぉっ! 何を──」
力強い。
全く抵抗できなかった。
そして覆いかぶさるように、シャオは飛び込んで来た。
「抱き枕ゲ~ット!」
「ちょっ!」
「あたし……姉さんがいてさぁ。いつも、こうして寝てたんだぁ」
その声色は、どこか寂し気だ。
「じゃ、おやすみっ」
「えっ!」
すぐに、すーぴーと寝息をたてはじめた。
「帰りたい、んだけど……」
爆裂的な四肢が、体に絡みつく。
──しなやかな体だ。
背負っている時には、特に意識していなかったが……
研ぎ澄まされた筋肉の中に、練り上げられたマナを感じた。
何年鍛錬すれば、こうなるのだろうか。
この娘は、俺より強いかもしれない。
それどころか、ライルや、里の戦士たちよりも──
ぽいんっ。
「……」
脱出を試みた俺の手に、柔らかいものが当たった。
まさか、これはっ──
「んんっ」
「……」
『緋色、やっちまよ。これは“良い”っていうサインだ。ケケケ』
俺の中で、悪魔が囁く。
「ぁっ──」
心の天使が暴れ出す。
『やめろバカッ。見知らぬ女と、何をっ!』
『黙れ! 据え膳食わねば男の恥!』
『これは犯罪である。フィオナに、顔向けできるのか?』
争いは、続いた──。
「……ふぅ」
俺は心を静め、寝ることにした。
風牙隊五か条、最後の教訓──“誠実であれ”。
俺は、誠実に生きる。
欲に負ければ、大抵は誰かを傷つける。
それは相手かもしれないし、自分かもしれない。
そう、誠実に生きるんだ。
そして俺は疲れていたのか、あっさりと眠りに落ちた。
*
音なく。
気配なく。
ゆらり、ゆらゆら。
薄汚れた廃ビルを上がる、三つの影。
黒衣の脅威が、静かに忍び寄る。
足を止めたのは──
三階、三〇三号室。
一人がドアノブに手をかけた時。
「ふん~ふぅ~ん♪」
女の鼻歌が聞こえた。
「ッ!?」
黒フードが横を向くと──
手すりの端に、一人の女が背を向けて座っていた。
月夜に、金龍が浮かんでいる。
女は酒瓶を片手に、空を見上げていた。
「ふふ。良い月だねぇ~」
「……南海の龍、シャオロン・ユエ」
「ん~。その呼び名、あんま好きじゃないんだよねぇ」
シャオロンは手すりから降りると、ゆっくりと三人へ歩み寄った。
薄く笑うその顔は、余裕すらある。
「“女神の涙”は、どこにある」
その言葉に、シャオロンの目蓋はぴくりと跳ねた。
「へぇ。寺院の追手かと思ってたけど……」
空気が、冷える。
黒衣の三人は、腰の刀を抜いた。
「アンタら……あの女の、仲間なんだぁ」
シャオロンは酒をあおると、瓶を前へと放り投げた。
──消えた。
否。
瞬時に、距離が詰まっていた。
黒衣の眼前で、三つ編みが揺れる。
「っ!」
黒衣が反応した時にはすでに、スリットの切れ目から、右脚が撃ち込まれていた。
顎への蹴上げ──からの、叩き落とし。
ダァンッ!
黒衣の一人が、床へと沈む。
そのまま地に手をつき、腰を落とした。
低い、構えだ。
「……ッ!」
「んふっ」
シャオロンは、不敵に笑った。
残る二人は、同時に踏み込んだ。
「ハッ!」
シャオロンは身を低く沈めたまま、振り下ろされた刃を、撫で流す。
遅れて死角から、横薙ぎの一振り。
鋭い刃が、褐色の頬を掠め抜けていく。
にぃ、と笑った。
「≪魔功拳・桜嵐≫!」
地鳴る踏み込み。
正面の腹に一撃、二撃ッ!
弾ける嵐の連閃。
浮いた体を引き上げるように、叩き込む掌底。
片足を軸に回し、もう一人を足払う。
流れのままに、強烈な、裏拳──ッ!
放り投げた酒瓶は、まだ宙を舞っていた。
シャオロンは、それが落ちる前に──
酒瓶を掴み取った。
「ぁぐッ……」
黒衣の一人が、ずるりと地を這っている。
「だめだめ~、逃がさないよ。聞きたい事あるんだぁ~」
そして──
笑みが消えた。
「“枯渇の魔女”は、どこにいる」
低く冷たい声だった。
「クク。逃げられないよ、シャオロン」
どこか愉快そうな、機械じみた女声。
「お前……」
黒衣の顔を覆っていたローブを、シャオロンが引き剥がす。
その中は──
黒曜石のような肌。
ぎょろりとした眼玉、横一文字に裂けた口。
それは、漆黒の人形だった。
その口が、ぎこちなく開閉する。
「かわいそうなシャオロン……師範を殺して、姉も裏切った。月蝕は、お前を逃がさない。女神の涙は、どこにある。女神の涙は──」
「黙れ」
一撃。
拳が叩き込まれた。
人形は、黒い霧となって散っていく。
見渡すと、残る二人の姿もすでになかった。
「……酔い、醒めちゃったなぁ」
シャオロンは、手すりへと腰を下ろす。
それから酒瓶を傾け、月を見上げた──。
*
──光。
「う……」
瞳をあけると、ベランダに朝陽が差し込んでいた。
「オハヨッ。緋色!」
酒焼けた声がした。
視線を向けると──
シャオが壁に背を預けながら、酒をぐいと飲んでいた。
空き瓶が、何本か増えている。
「超いい朝だねえ! ひっくっ」
「ああ……おはよう」
「私の体、楽しかった?」
艶のある顔で、彼女は笑った。
「神に誓います。わたくしは、何もしていません」
……少しだけ触れてしまったのは、黙っておこう。
「えぇっ! こんな、美少女を前にして!? 嘘だ~!」
彼女は大げさにおどけると、意地の悪い笑みを浮かべ、肘で小突いてきた。
「抱いたんでしょ~。そうなんでしょ~」
「無防備な女を襲うのは、俺のポリシーに反する」
「ちぇ~。真面目だねぇ」
そして俺たちは、外へと出た。
──陽の光が眩しい。
「んじゃっ。あたしは、また呑みいくから、ばいばぁい」
「朝から行くのかよ」
「酒は、いつ飲んでも、美味し~いのっ」
頬を赤らめながら、シャオは笑った。
そのまま路地の奥へと、ふらふら歩いていく。
不思議な女だった。
「あっ……」
フィオナに、何も言っていない。
今日は、ギルド依頼を一緒に受ける約束だ。
早く帰らなくては。