第八話「狩人の流儀」
刺激的な夜の出会いから一週間、里の暮らしにも慣れた頃。
夜になると決まったように、俺は里の西外れにある古家に訪れていた。
きぃ、と木戸を開けると、研究机と椅子が乱雑に並んでいた。
その椅子の一つに、踊り子服を着た露出の高い女が腰かけている。
褐色の肌に長い耳──“ダークエルフ”。
彼女はエルフの中でも特異種らしかった。
「こんばんは。ヴァネッサ」
「ああ、山田か」
女は長い黒髪を手で流すと、こちらに振り返った。
彼女の名は、ヴァネッサ・レヴァン。俺に魔法を教える先生である。
授業料は“人間について教えること”。妙な契約だが、彼女はそれを気に入っていた。
「──主要な五大元素は火水木風土……他にもあるが、滅多にいないから省く」
カッカッ、黒板にイメージ絵を描きながら、ヴァネッサはすらすらと語る。
「魔法の属性は多岐にわたる。人によっては、まれに固有能力──『ギフト』が発現することもある」
彼女の白い手が上向きに開かれると、
ゆらり──
空気が震え、手のひらにボッと火が灯った。
「エルフの得意属性は風だが、理解を深めれば他属性も扱える。そして“先天的なマナの質と量”──それらを総合したものを『魔力』と呼ぶ」
彼女の手の上の火は、さらに強く燃え盛った。
「へぇ……呪文を唱えたりしないんだな」
「よく知ってるな! もちろん詠唱もあるぞ。強大な魔法であればあるほど、自身のマナだけでは足りなくなる」
燃え上がっていた火は、ガスが切れたようにふっと消えた。
「そこで、詠唱の出番というわけだ。精霊や神といった人外の力を借り、規格外の魔法を行使する。しかし……これは難度でいうと最高クラス。覚える必要はない」
「ええ!! 俺もカッコいいやつ、なんか出したいんだけど!」
「山田にはまだ早い。それに、マナの使い方も知らないだろ」
「うっ……たしかに」
「ふふ、そう落ち込むな。何事も手順がある。今日は実際に、お前のマナを──」
バンッ!
豪快に扉が開く音がした。
そこには浅黒い肌をした男──グレースがいた。
「おっ、いたいた。よっ! 山田!」
「隊長、なんでここに」
「ここに入り浸ってるって聞いてな。様子を見に来たんだ」
「……ノックぐらいしろ」
ヴァネッサは不快そうに口を開いた。
「あー忘れてた! 悪い悪い。ガッハッハ!」
「何をしに来た。グレース」
「言ったろ? 可愛い妹と、部下の様子を見に来たんだって。ほれ!」
彼は何かを放り投げると、ヴァネッサはそれを掴んだ。
彼女の手には、葉っぱに包まれた餅──草餅が握られていた。
「チッ。私に構うな」
「まーだ思春期なのかぁ? 母ちゃんもお前の顔見たがってるぜ。たまには帰って来いよ」
「私は……母の顔など、見たくない」
そう、ヴァネッサはグレースの妹だった。肌の色、顔、よく見ると似ている。
グレースは一瞬だけ目を伏せるが、すぐにいつもの笑みを取り戻していた。
「……気が向いたらでいいさ。じゃ、俺はもう行くぜ。山田、またなー!」
空気を察したように、グレースは扉を閉め出て行った。
ヴァネッサは兄が去った後、差し入れられた草餅を見て、
「あぁッ! イライラする!!」勢いよくそれを机に叩きつけた。
家族仲は、あまり良くないらしい。
深く聞くのは、やめておいた方がいいだろう……
「──取り乱して悪かったな。許せ」
「いや、いいんだ。色々あるだろうし」
「……助かる。気を取り直して、授業の続きを始めよう」
「自身の扱う魔法を極めた者を、『魔導師』や『魔女』と呼ぶ。という話は以前したな」
「ああ。体内の『マナ』を鍛錬し続けて、人知を越える道に至った者、だよな」
「正解。よく覚えているな、えらいぞ」
よしよし、とヴァネッサは頭を撫でて来た。
この人は恐らく、俺のことを子供だと思っている。少し気恥ずかしいが、嫌な気はしないので黙っていた。
外に出ると、空一面に星が瞬いていた。里の夜空はいつも美しい。
ヴァネッサは芝生の上に座ると、足を組んだ。
これは──座禅の姿勢だ。
「鍛錬にも色々なやり方があるのだが……今から師匠直伝のマナ鍛錬法を教えてやる」
彼女の師に会ったことはない。だが、これだけ博識な彼女の師匠だ。とてつもない人物に違いない。
「真似してみろ。まずは目を閉じて、体内を流れるマナを見つけるんだ。ふぅぅ──」
彼女は深く、ゆっくりと息を吐く。
俺も姿勢を整え、同じように呼吸を深めた。
「体を鎮め、周りの音を、命を、すべてを感じるように、心を無にしていく。そして胸の奥に湧き上がるマナの流れを──そっと探るんだ……」
丁寧に、言葉を選ぶように、ヴァネッサは説いた。
沈んでいくような感覚だ。心が落ち着いていく気がする……。
「鍛錬していけば、空気中に漂うマナ──『魔素』や生命に宿る魔力も感じられるようになるぞ」
小一時間ほど、同じ姿勢で目を閉じていた──うん……尻がいてぇなコレ。
そう思い始めた頃、体の奥に温もりを感じた。
それは、ぽうっと広がる小さな熱だ。その余熱は胸から指先へ、全身にゆっくり流れていた。
そして気づく。空気中にも、同じ“気配”が漂っている──それはかすかに、でも確かに。
そうか──これが魔素なのか。
木陰を走る小動物、ふわりと浮かんだ精霊、命の気配が分かる。
この世界は、マナで満ちている……
──違和感。
……おかしい。
ヴァネッサは横に座っている。
もっとも存在感のある命、であるはずなのに……彼女からは何も感じなかった。
「ああ、私か? もうそこまで気づいたか」
「ヴァネッサ……もしかして、幽霊、なのか……?」
「ちがうちがう、マナを隠しているんだ。マナというのは力でもあるが、弱点にもなりえるからな」
彼女はその場に立ち、んーっ、と背筋を伸ばした。
「周りに自分の位置がバレるってこと?」
「その通り! 察しがいいな」
えらい、えらいと俺の頭を撫でながら、彼女は話をつづけた。
「マナを隠さない者は、手札を晒してカードゲームをしているようなものだ」
「なるほど。とんでもない馬鹿だな」
「ちなみにお前は、いま全てをさらけ出している」
「いやんッ! 見ないでぇっ!!」
「しかし、お前は不思議だ。なんというか……そう、まるで誰かが、無理やりマナ回路を後付けしたような……」
彼女が首を傾げたとき、
「もっと、やわらか~く、リラ~ックス。ホッホッホ」
いつの間にか、ホッホと笑う老エルフが彼女の横にいた。
老エルフはヴァネッサの大きなお尻を、撫でるように触っている。
この人はっ──! 訓練中に体を治してくれる謎の爺さん!
「……おい……尻に触るなジジイ!」
「ホッホッホ」
ヴァネッサは爺さんの手をペシンッと叩き落とした。
「全く……紹介しよう。このエロジジイは、私の師匠だ」
「えぇッ!?」
「非常に遺憾だが……こう見えて、齢七百を越える里一番の魔導師だ。皆、師匠のことを──」
「大したもんじゃない。ジイサンでえーよ」
ヴァネッサの言葉を遮るように、爺さんは言った。
「お爺さん、そんな凄い人だったんですね」
「ホッホッホ」
「いつもありがとうございます。あれってどうやって──」
「あれはのう~」
爺さんに質問していると、ヴァネッサは消えていた。
なんだか機嫌が悪そうだったな。
そして爺さんの話は、ほとんど理解できなかった。
灯りの落ちた室内に、ヴァネッサは立っていた。
「……大したもんじゃない、か。」
ぽつりと漏らす、誰に言うでもなく。
机に置かれた草餅──兄の手土産。
視線をそこへ落とすと、まぶたの奥で微かに感情は揺れた。
「天才という奴は、いつも忌々しい」
低く言葉を吐きすてると、草餅に触れた。
冷たい闇の中で、それは唯一の“温もり”のようだった。
*
ダッダッダッ、森を走る、走る、走るッ──!
「ハァッ、ハッ、ハァッ……!」
背後から、強烈な魔力の気配。
“それ”は迫っている。凄まじい勢いで、俺に……!
ドン、ドン、ドンッ──森を揺らす重音が地面を伝う。
瞬間、咆哮が森を裂いた。
「ガァアアアア!!!!!!!!」
姿を現したのは、狼の頭骨に一角を生やした巨大な獣、ホーンウルフ。
眼窩の奥で赤い光が揺れ、黒鉄色の体毛は逆立っている。四肢は太く、爪は小刀のように長い。
並の個体ではない。小さな民家ほどの大きさだ。
大気中の魔素が乱れると、稀に生まれる『変異体』。
エルフたちは畏れと警戒を込めて、それをこう呼んだ──
魔素に狂い、形を歪めた狂獣──『魔獣』と。
「っ……何でこんな奴が──!」
地を削る勢いで、それは距離を詰めてきた。
速ッ──!
魔獣は四肢が沈むほど力を籠めると、頭の一角を振りかぶった。
横薙ぎ──!
俺は銀の長剣を瞬時に抜き、反射で合わせた。ほとんど勘に頼ったガードだ。
「ぐぅっ……!!」
直後、俺の体は弾かれ、木の幹へと衝突した。
肺から空気が絞り出る。痛みより先に、恐怖が走る。
俺は驕っていた──
風牙隊の訓練で、少しは強くなったと思っていた。
目の前の獣は、肉の味を想像したのかヨダレをたらしている。
勘違いしていた──
魔獣は反撃を恐れているのか、少しずつ距離を詰めてくる。
筋力や体力があろうと、身体を強化しようと、この圧倒的な野生の前では、無力に等しかった。
後悔していた──
俺は、一体何をしているのか。
なぜ、こんなところに来てしまったのか。
そもそも、俺の人生は、どこから間違っていたのか。
もう眼前に、魔獣の濡れた牙が迫っていた。
ああ、
「……ちくしょう──」
──時は遡り、早朝。
このエバーウッドのエルフ里にきて、もはやひと月が経とうとしていた。
「森の空気は、傷ついた心を癒してくれる。そう、俺は地上を彷徨う旅人っ! その名も──」
低音ボイスで自分に酔っていると、ふと視線を感じた。
緑髪の少女、リーリーが俺を黙って見ている。
口を開こうとした瞬間、
「えと、邪魔して、ごめん……? ──先、行くねっ!」
「ちょっとまって!! 置いてかないでっ! リーリーさーーん!!」
少女は俺の言葉よりも速く、ぴょんぴょんと走り去り、すぐに見えなくなってしまった。
里の壮麗な景色を眺めながら、今日も訓練場へ歩く。
ここ数日、書庫でこの世界──ファンタジア──について調べた結果、いくつか興味深いことが分かった。
まず──今はファンタジア歴二〇二五年、七月二日。
俺がいた世界とまったく同じ年号だ。
季節の巡り方、太陽の動きさえも地球と似ている。
偶然として片づけるには、気になる点が多すぎる。
しかし──転生したのがここで、
「本ッ当に良かった……!!」
ファンタジアには、人間を露骨に嫌う国もあるらしい。
もしそんな場所に転生していたら──考えるだけで恐ろしい。
転生者は他にもいるのか。なぜ俺だったのか。
疑問は尽きないが、里の書庫だけでは謎を解けそうになかった。
気楽にいこう……そう思ってないと、やってられない。
広大な訓練場についた。今日も朝陽は眩しい。
だが、空気はいつもと違っていた。
銀の長剣を静かに磨く者。
青緑の弓を持ち、弦の張りを確かめる者。
皮の軽装備を締め直し、呼吸を整える者。
いつも回復してくれる爺さんも、今日はいない。
そして褐色肌の男──グレースはいつものぼさぼさな茶髪ではなく、きっちり髪を整えていた。
ライルも栗色の短髪を念入りに整え、体をゆっくり伸ばしている。
その横に立ち、俺は声をかけた。
「……腕立て、しないのか?」
「ああ、今日は野外訓練だ」
「野外?」
「風牙隊、集まれ!」
グレースが大きく声をあげた。
エルフたちは迷いなく隊長のもとへ歩み寄る。その数、およそ三十。
この里には五百を越える守り手がいるが、グレース率いる風牙隊は、その中でも選りすぐり──里の精鋭を集めた特殊部隊だった。
……なんで俺、ここにいるの?
「整列!」
考える間もなく、全員が横十人・縦三列の隊列を瞬時に組む。
そして“休め”の姿勢をとり、長剣の先を地へと落とすと、柄に片手を添えた。
「傾注! 今日は野外訓練だ。魔獣狩りに行くぞ!」
訓練場の空気がピンと張りつめた。
皆は無言で次の言葉を待っている。
「……狩りって……俺、まだ自信ないんだけど」
ぼそっと横にいたライルにいった。
「基礎はもうすでに叩き込んである。あとは、実戦あるのみ」
「だいじょーぶ! リーリーもいくし!!」
ライルの前列にいたリーリーが、元気よく振り返った。
「……そうか、そうだよな!」
めちゃくちゃ不安である。
「そこ、静かに! いつもどおり三班に分けていくぞ! 風牙一隊は俺、二隊はリーリー、三隊はライルが班長だ」
「隊長! 自分はどうすれば?」
挙手すると、グレースに問うた。
俺は正式なメンバーではないので、ぶっちゃけ居残りしたい。
こっちは銃すら持たない平和主義国家、日本から来たんだ。
魔獣とか普通に怖い。熊より強そうだ。
「山田は……ライルについていけ!」
「えー!! リーリー、緋色と一緒がいい!」
「だめだ、お前は二隊の班長だろう」
「やだやだー! ライルのいじわるー!!」
「黙れ。二班は森の奥に行くんだぞ……山田にはまだ早い」
ていうか、行かないとダメなんだ。
訓練に混ぜてもらってる以上、当然か。
脳裏に、もはや死語となった感嘆詞が浮かんだ。
トホホ……
行きたくないでござる……
里を出てすぐ──深い森へと続く“集結地”に、俺たちは集まっていた。
遠くには里の尖塔がまだ見え、しかし一歩進めば完全に戦場へ踏み込む、そんな境界の場所だ。
「集合は太陽が西に落ちきる前、夕刻! くれぐれも無理はするな! 以上! 別れ!!」
グレースの号令が鋭く響くと、風牙隊は一斉に姿勢を正し、それぞれの班長を先頭に散っていった。
訓練時の和やかさはなく、任務前の張りつめた気配がある。
「──傾注! いつもどおり三隊は後方支援だ。すでに隊長とリーリーは先陣を切った。僕たちは漏れた小物の処理をする! 一匹も逃すなよ。わかったか!」
ライルの呼びかけに、エルフたちは一斉に応と声をあげた。
「お前は、僕の横を離れるな」
きゅんっ。
ライルさん、イケメンッ……。
俺が女だったら、間違いなくこいつに惚れている。
「行くぞ! 遅れるなよ。身体強化!」
俺は魔法の授業で教わった、ヴァネッサ直伝の身体強化……≪ブースト≫を発動させる。
体内のマナを集中させ、魔力を両足に流し込んでいく。
イメージする──鋼のような筋肉を、強靭な肉体を。
地を蹴る。
軽い。気持ちがいい──体が普段より動く全能感。
ライルの背に続き、森の中を駆けていく。
木々の間を抜ける細道は、いつの間にか崖沿いの道へと変わった。
その崖道は大きく蛇行し、遥か下、谷底へと続いている。
先陣は、すでに下ったのだろう。
風が抜け、頬が冷たくなった。そして森の奥──何かが“押し流れてくる”。
一つ、二つ、三つ……数が多い──!
「……来るぞ!」
ライルが叫んだ。地面が激しく震えている。
前方百メートルほど先の林間から、額に角を生やした狼の群れが飛び出してきた。
群れの瞳は揺れ、こちらへと雪崩れ込んで来る。先陣の討ち漏らしだ。
「ホーンウルフの群れだ! 構え!!」
掛け声と同時に、守り手たちは銀長剣を構えた。
二人一組で死角を潰しながら、押し寄せる群れを長剣でいなしていく。
エルフの勇ましい声と獣の咆哮が交錯し、崖道は戦場へと変わった。
「ハァァアアアッ──!!」
ライルは俺の負担を減らそうとしているのか、一人で複数を相手にしている。
刃が走るたび、狼は裂かれ飛ぶ。凄まじい戦闘力だ。
足手まといになるまいと、俺も長剣を握りしめた。少しでも数を減らすんだ。
「チッ……おかしい。数が異常だ!」
「くっ……はぁっ、はっ……!」
汗が吹き出し、息が焼けるように荒い。
いまだに狼たちは怒涛の勢いで崖道に押し寄せてくる。
「デヤャァアッ!!!!」
ライルが無数の狼を斬り払う中、三匹が縫うように抜けて来る。
大丈夫──やれる。やるしかない。
「来いよ。オラァ!!」
気勢を込め叫んだ。
牙、角、体当たり──三つの殺意は同時に迫る。
足元で弾けた小石が、背後の谷底に吸い込まれていく。
「山田!! 僕から離れるなッ!」
声にはっとした瞬間、狼の突進が迫った。
とっさに剣の腹で受け止めるも、俺は突き飛ばされた。
「あっ──」
浮遊感──
手を伸ばすも、何も掴めない。
これ、死──
スローモーション。
人は死を感じた時、
世界がゆっくり見えるらしい。
ああ──今日の空、こんなに青かったんだ。
重力は、遅れてやってきた。
「山田!! 山田ー!!!!」
「うぉおおおああああああーーーー!!」
谷底の闇へ落ちていく。
枝葉が頬を裂くように流れ、落下の風が耳を切り裂いた。
──深い森の底へ、俺は飲み込まれた。
「……くぅ~……痛ってぇ~! 生きてる、よな。俺……」
湿った土の匂いが鼻を刺した。
見上げれば、崖の上から差し込む光が、木々の隙間でゆらゆらと揺れている。
落下の衝撃をやわらげたのは──落ち葉が積もってできた厚い葉床だった。
どうにか命は拾ったらしい。
どこだ、ここ……森の奥だろうか。
「ん……?」
この葉床、よく見ると変だ。自然とできたにしては大きい。
まるで何か大きな生物が、寝るために用意したような──
そう思った瞬間、ズシ、ズシ──と地を揺らす音がした。
低く唸るような獣声。
とてつもなく嫌な予感が、背筋をなぞった。
「……」
喉が鳴る。
俺は声をあげず、ただ走った。
その場を逃げ出すように、全力で。
「グァガァアアア!!!!!!!!」
咆哮が、背を突き刺した──
──そして、現在。
眼前に迫る爪に、走馬灯のように今までの日々がよぎった。
「……ちくしょう──」
死を覚悟した、その時だった。
シュバッ──!
一閃の矢が魔獣の顔面へ突き刺さる──かに見えたが、魔獣は牙で噛み砕いた。
異常を察したのか、後ろに跳躍した。
シュババッ──!
魔獣を追随するように、無数の矢が降り注いでいく。
風を纏った矢じりは、空中で軌道を曲げ、魔獣の目へ、腹へと突き刺さっていく。
「ガァアアアア!!!!!!」
「これはっ──」
負傷した魔獣は咆哮をあげ、後ずさった。
「風牙二隊! 前へ!! 獲物は瀕死だ! 囲め!!」
木々の間からエルフの部隊、風牙二隊が姿を現す。
先頭を駆けるのは緑髪の少女──リーリー。その表情に、普段の陽気さは微塵もない。
リーリーは五本の矢をつまみ上げ、弓へと添えた。
「風よ──風の大精霊エルゼよ──古き盟約を風に示せ。理を曲げ討つは汝の怨敵、──裂き断てまつれ──≪軌風翠閃・五連≫──!」
詠唱に応じるように、緑翠色の覇気が矢を包む。
そして──
弦を引き、放つ。
爆──ッ!
穿つように疾駆する五本の翠閃。
それは弓射というより、弓を踏み台にしたカタパルト発射だ。
魔獣は跳ね、走り、飛んだ。
回避、回避、回避──しかし矢は軌道を変え、逃走を許さない。
魔獣の動きが鈍る。息が荒い。
次の瞬間──
ダンッダンッ! 弾ッ弾ッ弾ッ!!
赤黒い体毛に爆音が鳴った。“命中”ではなく、それは“炸裂”だった。
魔獣の皮膚は、五本の風矢に突き破られた。
魔力で矢じりを強化したのかッ──それも複数本の矢を一度に!
『複数の魔法を行使するには、繊細なコントロールと集中を要する』
ヴァネッサがそう言っていた。これは並の技術ではない。
俺は身体強化を一つ発動させるのがやっとだった。
リーリーがやっているのは、ゲームのコントローラーを同時にいくつも操作しているようなものだ。
彼女は天才だと自分で言っていた。
どうやらそれは、自称ではないらしい──
「あれっ? ひーろ、何してるの? だいじょーぶ?」
木の幹で瀕死になっている俺をみて、リーリーはいつもの調子で声をかけてきた。
「……大丈夫、じゃない……まっじで死ぬかと思った……」
「なんで居るのー? ここ、リーリー担当なのに!」
「いや、足滑らしちゃってさ──」
──この一帯の魔獣は一掃され、戦闘はひと段落ついた。
エルフたちは手際よく魔獣の肉をはいでいる。
「すまなかった。俺の失態だ」
ライルは深く頭を下げた。
「いいって。そばを離れた俺が悪いんだ」
「しかし……」
彼がここまで沈むのは珍しい。
責任を感じているんだろう。何ていい奴なんだ。
「いいからいいから。さぁ、俺らも肉はごうぜ!」
「ああ……」
魔獣の解体が順調に終わると、里に持ち帰る分を荷に詰めた。
そして焚き火の準備が始まった。
「持ち帰れない分はここで食うぞ! お前ら残すなよ!」
グレースが声を張った。
「ここまで綺麗に食うんだな」
「けして命を無駄にはしない。それが守り手──いや、命を狩る狩人の流儀だ」
肉を剝いでいるあいだに、ライルは元の調子に戻っていた。
俺は焚き火の上に魔獣肉をかざした。
じゅう──
「おなかすいたー!!」
リーリーが魔獣肉を眺めながら、よだれを垂らしている。
脂が弾け、香ばしい匂いが風に乗って広がる。
肉の表面がじりじりと焼け、赤身がわずかに汗を浮かべた。
そろそろか。
「山田、これを使え」
「これは……まさか、塩!?」
「洞窟からとった岩塩だ。かけてみろ……飛ぶぞ」
くくっ、とライルは口角を上げた。
ひとつまみ振りかけて、かぶりついた。
「うっ──まッ!」
噛んだ瞬間、肉汁が舌に流れ込み、疲れ切った体に染みた。
戦いの恐怖も、痛みも、一口で消えていく。
ほとばしる野性の旨味。これは確かに──“飛ぶ”。
「よし……」
俺は持参していた山水の竹筒に、森の樹からとった赤い樹液を垂らした。
この樹液は甘いのだ。とてつもなく──
山田特性激甘ブレンドジュースの完成である。
「クックック……! リーリー。キミも一杯やるかね?」
「んっ……何これ。んーっ。ん? あっまぁあああああああ!!!! うぇぇー!!」
リーリーは舌をべっと出した。樹液で真っ赤だ。
ふ……お子ちゃまにはまだ早いか。
「虫歯になるぞ。訳の分からんものを作るな」
「そんな、美味しいのに……」
ライルに咎められたその時、背後から明るい声が飛んだ。
「おう、山田! ちょっといいか?」
グレースだ。彼は俺の返事を待たずに、ゆっくり歩き出した。
その背中は、ついて来いと語っていた。
「こっちだ」
少し離れた木陰に、ひっそりと小さな焚き火が灯っている。
静まり返った空気の中、ぱち、ぱち……と薪の音が細くひびく。
グレースは倒れた大木に腰を下ろした。
「まぁ、座ってくれ」
促されるまま隣に腰を下ろす。
焚き火の揺らぎが、彼の横顔に淡い影を落としていた。
「隊長、どうしたんですか?」
「その、だな……ヴァネッサとは、最近どうだ?」
「ヴァネッサ──さん、ですか。妹さんには、本当に良くしてもらってますよ。おかげで魔法も少し使えるようになりましたし」
彼女に教えてもらった身体強化が無かったら、普通に死んでいた。
狼の凶悪な顔を思い出し、体がブルッと震える。
「そうか……あいつとは、今後も仲良くしてやってくれ」
珍しいな。いつも明るいグレースが、寂しそうな顔をしている。
「あいつはさ、俺とずっと比較されてたんだ。本当は才能があるのに、周りがプレッシャーを与えたせいで、殻に閉じこもっちまった」
そういえば……ダークエルフは高い能力を生まれながらに持っている──と、書館の本には書いてあった。
数少ない褐色肌は、才能の証なのだ。
「剣聖なんていう大層な通り名で呼ばれちゃいるが……俺は、妹に何もしてやれない、ただの情けない兄貴なのさ」
自嘲気味に彼は笑った。
そうか。ヴァネッサは『天才』──剣聖と呼ばれる兄と、常に比較され生きてきた。
彼女が兄を遠ざける理由は、きっとそこにあるのだろう。
「山田。俺じゃあ、ヴァネッサを笑わせてやれないんだ」
「──あいつを、頼む」
グレースは太ももに両手を置くと、深く頭を下げた。
“剣聖”という立場ではなく、ただの“一人の兄”として。
どうにかしてやりたい。俺は元の世界に残してきた、妹と弟を思い出していた。
家族と仲良く出来ないというのは……とても、とても辛いことだ。
「はい、もちろん。彼女のことは、俺に任せて下さい」
「……そーかそーか!! ガッハッハ! 俺のことはお兄ちゃんって呼んでもいいんだぜ! 式はいつにする!?」
「いや、結婚はしないと思います。あと普通に隊長って呼びます」
いつか何の垣根もなく、二人で仲良く話して欲しい──
焚き火の明かりを見つめながら、そう願った。