チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした
一 凡人枠、荒廃領地に立つ
死んだのは、市役所のトイレだった。
享年五十六歳。脳溢血。
健康診断の「要再検査」を三年連続で無視した結果だ。再検査に行く暇がなかった。正確に言えば、再検査の予約を入れようとするたびに住民課の窓口が修羅場になって後回しにしていた。
二十年間、同じ市役所で働いた。都市計画課に始まり、税務課、上下水道課、住民課——部署異動のたびに「地味だ」と笑われ、「公務員って楽でいいよな」と言われ続けた人生だった。
最後の仕事が「トイレの個室で意識を失うこと」だったのは、公務員としていかがなものかと思う。
——気がつくと、真っ白な空間にいた。
「はいはい、ご愁傷様でした」
目の前のカウンターに座っていたのは、とんがり帽子に星柄マントの青年。手には「MAGIC」と刺繍されたチープな杖。
「転生窓口の担当、ツクヨです。……この衣装は上層部の指定なので突っ込まないでください」
「はあ」
「さっそくですが、中村さんの案件。今、辺境公領から人材の要請が来ておりまして」
「辺境公領?」
「異世界です。剣と魔法のファンタジー。で、そこの領地が——ちょっと問題を抱えてまして」
ツクヨが書類をめくった。目の下にクマがある。神様も過労らしい。親近感がすごい。
「何年か前にA級チート転生者を送り込んだんですよ。剣聖タイプの。そしたら——」
「そしたら?」
「魔物は片っ端から斬って、ダンジョンは力づくで攻略して、土地は魔法で無理やり開拓して、領主にも口出しして——で、飽きたらふらっといなくなった」
「……迷惑な人ですね」
「ちなみに、その転生者の前世はニートのゲーマーです。人生で一度も税金を払ったことがない」
「一番行政に向いてないタイプじゃないですか」
「ええ。でもA級チートなので、上層部は通しちゃうんですよね。戦闘力さえ高ければ何とかなるだろうって。——なりませんでした」
ツクヨが苦い顔をした。
「A級チートの後始末って、いつもこうなんですよ。派手にぶっ壊すのは得意なくせに、維持管理には一切興味がない。——で、凡人枠の人にフォローを頼むしかないっていう」
「凡人枠、というのは」
「チートなしの転生枠です。特殊能力は付与されません。ただし、前世の知識と経験はそのまま持ち越せます」
ツクヨが宙に光る文字を浮かべた。
『中村修一 前世:地方公務員(二十年) 付与チート:なし 補助スキル:言語理解(標準装備のみ)』
「……本当に何もないんですね」
「予算がないんです。A級に使いすぎて。——正直に申し上げますと、中村さんへの期待値は低いです。上層部的には『まあ、現地で死なない程度に頑張ってくれれば』くらいの温度感でして」
「死なない程度」
「ええ。でも——」
ツクヨが少しだけ真面目な顔をした。
「個人的には、あの領地に必要なのはチートじゃないと思ってます。チートで壊れた場所を、チートで直すのは無理です。必要なのは——」
「普通の仕事、ですか」
ツクヨが目を瞬いた。
「……話が早いですね」
「二十年やってきましたから。上下水道の修繕も、住民台帳の整備も、税務の適正化も——やり方は知ってます。地味ですけど」
「地味、結構です」
ツクヨが初めて笑った。
「では、行ってらっしゃい。——ああ、その前に一つ」
「なんですか」
「チートは付与できませんが、転生時の身体調整は標準サービスに含まれてます。中村さん、享年五十六歳でしたよね。少し不摂生気味だったようですし——二十歳、若返らせておきますね」
「……は?」
「三十六歳の健康な身体でお届けします。肩こりも腰痛もなし。老眼もリセット。まあ、チートみたいなもんでしょ?」
ツクヨがウインクした。似合わない。
「……それはチートとは言わないと思いますが」
「健康な身体は最強のスキルですよ。——それじゃ、赴任先について。領主は十五歳の女の子です。先代が急死して、継いだばかりの。右も左もわからない状態で、チート転生者の後始末を押しつけられて、泣きそうになってる頃だと思います」
「……了解しました」
「あと」
「まだあるんですか」
「この衣装は私の趣味じゃありませんからね」
「二回目ですよ、それ」
光が溢れた。
◇ ◇ ◇
目を開けると——悪臭がした。
壮絶な悪臭。
生ゴミと下水と動物の糞が混ざったような、鼻の奥を直接殴られるような臭い。
俺は石畳の広場に立っていた。
周囲を見回す。
——ひどい光景だった。
建物は半壊したものが多く、屋根のない家も目立つ。道の真ん中に排水溝があるが、完全に詰まっていて、茶色い水が溢れている。
(古代ローマのクロアカ・マキシマ——下水道は文明の基盤だ。紀元前六世紀から排水の重要性を理解していた連中がいたのに、チート転生者はそれすら知らないのか)
広場の中央にはルーン噴水があるはずだが、完全に停止していた。浄水結界が切れているのだろう。水が腐り、緑色の藻が覆っている。
畑は——あるにはある。だが、土が妙に黒い。いや、焦げている?
(魔法で無理やり耕したのか……)
チート転生者が土属性か何かの魔法で一気に開墾したのだろう。土壌の微生物も養分も全部吹き飛ばして。そりゃ作物は育たない。
前世の知識では、土壌の回復には数十年から数百年かかる。まずは三圃制だ。畑を三つに分けて、一年目は小麦、二年目は豆、三年目は何も植えずに休ませる。休ませている間に土の養分が回復する——中世ヨーロッパの農民が何百年もかけて確立した、地味だが確実な方法だ。
チートで壊したものは、チートでは直せない。時間と手間をかけるしかない。
通りを歩く住民たちは、やせ細り、疲れ切った顔をしていた。子供が水たまりの汚水で遊んでいる。衛生的にまずい。
(A級チートが暴れて、飽きて去った後——か)
チート転生者がいた頃は、魔法で浄水し、魔法で害虫を駆除し、魔法で畑を耕していた。全部一人でやれていた。
だが、その一人がいなくなれば——すべてが止まる。
普通の行政手続きなんて、何も整備されていなかった。住民台帳もない。排水管理もない。税の徴収記録もない。
チート一人に依存した社会は、チート一人がいなくなるだけで崩壊する。
(魔王よりタチ悪いだろ、これ)
「——あの、もしかして」
声がした。
振り向くと、少女が一人立っていた。
十五歳くらいの、赤毛の少女。小柄で、そばかすがあって、目が大きい。服装は貴族の令嬢のものだが、裾が泥で汚れている。手にはくたびれた帳簿を何冊も抱えていた。
目の下にクマがある。ツクヨと同じ過労の顔だ。
「転生者の方……ですか?」
「ええ、まあ。中村修一です。——あなたが領主様?」
「は、はい。フィーネ・ヴァレスティア。この公領の——一応、領主です」
少女——フィーネは俺を上から下まで見た。その目には、かすかな期待と、大きな不安が混ざっていた。
「あの……チートは?」
「ありません」
「え」
「凡人枠です。剣も振れません。魔法も使えません」
フィーネの顔から血の気が引いた。
「で、でも、何かあるんですよね? 前の転生者の方は、聖剣が使えて、魔法も使えて——」
「前の方がいなくなったから、こうなったんですよね?」
「……はい」
「じゃあ、同じタイプが来ても、また同じことになりますよ」
フィーネが口をつぐんだ。
俺は広場を見回した。詰まった排水溝。止まったルーン噴水。焦げた畑。疲れ切った住民。
「フィーネ様」
「は、はい」
「俺はチートも聖剣もないですが、前世で二十年間、地方公務員をやっていました」
「ち、ちほうこうむいん?」
「住民の暮らしを支える仕事です。——水道の修繕、道路の整備、住民台帳の管理、税の公平な徴収。地味で退屈な、誰も褒めてくれない仕事です」
俺はフィーネの抱える帳簿に目をやった。
「その帳簿、見せてもらえますか」
「え? これは今期の税収記録ですけど——」
「ありがとうございます」
帳簿を受け取り、最初のページを開いた。
——三秒で閉じた。
「……ひどいですね」
「え?」
「同じ住民から二回税を取ってます。住所の記載がないから、誰から取ったか本人にしか分からない。合計額も合ってない。——これは帳簿じゃなくて、メモ帳です」
フィーネの顔が真っ赤になった。
「す、すみません! 前の転生者の方が『税金とか面倒だから適当でいい』って——」
「分かりました。まず、これを直しましょう」
「直す?」
「住民台帳を作ります。全住民の名前、住所、家族構成、職業を登録する。次に、その台帳に基づいて税額を再計算する。二重取りの分は返還する」
フィーネが目を丸くした。
「それ……すごく地味な仕事じゃないですか?」
「はい。地味です」
「魔物を倒すとか、ダンジョンを攻略するとか——」
「しません。排水溝の掃除と住民台帳の整備をします」
フィーネは呆然としていた。
「あの……本当に、それで領地が良くなるんですか?」
「良くなります。——ただし、時間はかかります」
俺は止まったルーン噴水を見た。
「チートは一日で奇跡を起こせますが、一日でいなくなります。行政は一日では何も変わりませんが、十年後も二十年後も動き続けます。——どちらが必要か、この領地が証明しているでしょう」
フィーネが噴水を、排水溝を、焦げた畑を見回した。
その目に——何かが宿った。
「……お願いします。中村さん」
「では、明日から始めましょう。まず必要なのは——」
「なんですか?」
「全住民集会です。領主として、住民の前に立ってください」
「わ、私がですか!?」
「領主ですから。口下手でも構いません。大事なのは、顔を見せることです」
フィーネが泣きそうな顔をした。が、小さく頷いた。
(よし、第一歩だ)
チートで壊された世界を、チートなしで立て直す。
前世で二十年かけて身につけた、地味で退屈な仕事の出番だ。
二 排水溝と住民台帳
翌朝。
フィーネの提供してくれた執務室で、俺は領地の現状を整理した。
公領の名は「ヴァレスティア公領」。人口はおよそ二千人。
二年前まではA級チート転生者——「剣聖レイガス」が駐留しており、彼一人の力で領地運営の大半を回していた。
魔物の討伐。ダンジョンの攻略による収入。土魔法による開墾。浄水結界の維持。
すべて、レイガス一人がやっていた。
そして——飽きて、去った。
「もっと強い奴と戦いたい」と言い残して。
(RPGのプレイヤーか、お前は)
問題を整理する。
一、上下水道。ルーン噴水が停止し、浄水結界が失われている。住民は川の水を直接飲んでいる。疫病のリスクが高い。
二、農業。チート転生者の土魔法で無理やり開墾された畑は、土壌が死んでいる。作物がまともに育たない。
三、税制。住民台帳が存在せず、税の記録は「徴税官の記憶頼み」。二重課税、取りこぼし、不公平が横行。
四、衛生。排水溝が詰まり、街中に汚水が溜まっている。ゴミの収集システムもない。
五、治安。魔物除けの結界がレイガスの魔力頼みだったため、領地周辺に小型魔物が出没し始めている。
五つの問題。
前世なら五つの部署に分けて対応するレベルだ。だが、ここには部署どころか職員もいない。いるのは俺と、領主のフィーネと、数名の使用人だけだ。
(優先順位をつけろ。前世でもそうしてきただろう)
答えは明白だった。
最優先は——水だ。
人間は飯がなくても数日は生きられる。だが、きれいな水がなければ、三日で疫病が広がる。
「フィーネ様」
帳簿を広げたまま居眠りしていたフィーネが、びくりと顔を上げた。
右の頰に、帳簿のインクが付いている。「税収」という文字が反転して頰に写っていた。本人は気づいていない。
「は、はい! 起きてます!」
「ルーン噴水の修繕についてです。部品はどこから調達できますか」
「え、えーと……光魔晶を交換すれば動くと聞いていますけど、在庫が……」
「在庫管理簿はありますか」
「ざいこ……かんり……ぼ?」
フィーネが初めて聞く外国語のように一音ずつ復唱した。
「物品の数と場所を記録した帳簿です」
「そんなものは——レイガスさんが、全部頭の中で管理してました」
(頭の中で管理。最悪のパターンだ。IT業界で言う「バスファクター」が一だ。その一人がバスに轢かれたらプロジェクトが止まる、という概念。この領地の場合、その一人が「飽きた」だけで全てが止まった。バスどころの騒ぎじゃない)
前世の市役所でも、ベテラン職員が定年退職するたびに同じ問題が起きていた。「あの人しか知らない」情報が一斉に失われる。
「分かりました。まず、倉庫の棚卸しをしましょう」
「たなおろし?」
またもや漢語を一音ずつ味わうフィーネ。この子、行政用語を聞くたびにこの顔をするのか。先が思いやられる。
「物品を全部数えて、リストを作ることです」
フィーネは不思議そうな顔をしていたが、素直についてきた。
◇ ◇ ◇
倉庫の中身は、予想以上にカオスだった。
レイガスがダンジョンから持ち帰った魔物の素材、武器、防具、宝石——が、床に山積みになっている。その隙間に、魔動灯の交換用光魔晶や、浄水用のルーン石が埋もれていた。
壁には聖剣で「レイガス参上」と刻まれていた。小学生か。
「……これ、宝の山じゃないですか」
「え?」
「光魔晶、ありますよ。十二個。ルーン噴水に必要なのは三個だから、四回分の交換ストックがある」
フィーネが目を見開いた。
「えぇ!? ここにあったんですか!?」
「この武器や素材も、売れば領地の財源になります。——管理されていなかっただけで、資産は眠っていたんですよ」
ただし、壁の落書きは消しておこう。来客に見られたら領地の品位に関わる。
俺は光魔晶を取り出し、その日のうちにルーン噴水の修繕に取りかかった。
修繕自体は簡単だった。魔晶を所定の位置にはめるだけ。マニュアルが刻印で噴水に彫ってあった。
ごぼごぼ、と水が流れ始める。
緑色の藻が少しずつ押し流され、澄んだ水が広場に満ちていく。
「水だ!」
最初に気づいたのは、汚水で遊んでいた子供だった。
噴水に駆け寄り、透明な水に手を突っ込む。
「おかあさん! お水がきれい!」
声につられて、住民たちが集まってきた。
おそるおそる水を手に取り、口に含み——
「本当だ。浄水が戻ってる」
「二年ぶりだ……!」
歓声が上がった。
住民たちが噴水を囲み、きれいな水を汲み上げている。
汚水で遊んでいた子供が、両手で水を掬ってフィーネのところに持ってきた。
「りょうしゅさま、おみず!」
小さな手の隙間から、水がほとんどこぼれている。でも、子供は得意げに笑っていた。
フィーネがしゃがみ込んで、残り少しの水を受け取った。
「……ありがとう」
その声が震えていた。目が赤い。
フィーネが俺を見た。
「中村さん……すごいです。魔法も使わずに」
「魔法じゃありません。在庫管理です」
「え?」
「倉庫に部品があったのに、誰もそれを知らなかっただけです。記録がなかったから。——これが、台帳を作る意味です」
フィーネが、ぽかんとした顔で頷いた。
◇ ◇ ◇
噴水の次は、排水溝だ。
これは力仕事になる。俺一人ではどうにもならない。住民の協力が必要だ。
翌日、フィーネに全住民集会を開いてもらった。
広場に百人ほどが集まった。全人口の五分の一。悪くない出席率だ。
フィーネが壇上に立った。膝が震えている。声も震えている。
「あ、あの……皆さん。今日は、お知らせが——ありまして」
住民たちの視線は冷たかった。
無理もない。先代領主の急死、チート転生者の失踪、領地の荒廃。住民の信頼は地に落ちている。
「新しく、赴任した方を——紹介します。中村さんです」
俺が前に出た。
ざわめき。——そして失望の空気。
「チートは? チートは持ってるのか?」
「魔法は使えるのか!?」
「また聖剣使いが来てくれたのか!?」
「チートはありません」
広場が、しん、と静まった。
「剣も振れません。魔法も使えません」
「……はあ?」
「じゃあ何しに来たんだ」
「排水溝の清掃と、住民台帳の整備です」
沈黙。
そして——失笑が広がった。
「排水溝の清掃? なんだそりゃ」
「住民台帳? わけわからん」
「レイガスは一日でダンジョンを三つ攻略したんだぞ! 排水溝の掃除とか、そんなもん——」
「そのレイガスがいなくなって、今どうなってますか」
俺の声が、笑いを遮った。
「噴水は止まり、排水は詰まり、畑は枯れ、税は二重に取られている。——全部、チート一人に頼り切った結果です」
住民たちが黙った。
「レイガスは確かに強かった。だが、排水溝の掃除はしなかった。住民台帳も作らなかった。税の公平な仕組みも整えなかった。——なぜなら、地味だから。退屈だから。誰も褒めてくれないから」
俺は詰まった排水溝を指さした。
「俺がやるのは、その地味な仕事です。一日では何も変わりません。だが、半年後にはこの街の排水は正常に流れ、一年後には畑に作物が実り、二年後にはレイガスがいた頃より暮らしやすくなる」
住民たちが顔を見合わせた。
「保証するんか?」
「保証はできません。公務員は保証はしません。ただし——予定は立てます。計画を作り、工程を示し、進捗を報告します。約束するのは、プロセスの透明性です」
また沈黙。
「……変なやつだな」
最前列にいた老人が呟いた。
「チートもないくせに、偉そうなことを言う。……で、お前のスキルはなんだ?」
「公務員です」
「スキルを聞いとるんだが!?」
「だから公務員です。——まあいいでしょう。排水溝の掃除を手伝ってくれる方を、五人ほど募集しています。日当として銀貨一枚をお支払いします」
倉庫の魔物素材を売った金だ。フィーネに相談して、当面の運営資金として確保してある。
「……銀貨一枚?」
住民の目の色が変わった。
「排水溝を掃除するだけで?」
「はい。道具は俺が用意します。作業後、きちんと日報を書いてもらいますが」
「にっぽう?」
「今日やった作業を記録する報告書です」
「報告書まで書くのか」
「はい。記録なしの仕事は、仕事ではありません。——前世の上司の受け売りですが」
老人が隣の男と顔を見合わせた。
「……まあ、銀貨一枚もらえるなら」
「俺もやるぞ」
「わしも」
五人どころか、十二人が手を挙げた。
(日当の力は偉大だ。前世も今世も変わらないな)
こうして——世界で一番地味な領地再建が、始まった。
三 チートの後始末
排水溝の清掃は、三日かかった。
溜まっていたのは二年分のヘドロだ。掻き出しても掻き出しても、奥から黒い塊が出てくる。臭いも凄まじい。日当の銀貨一枚がなければ、誰もやりたがらない仕事だ。
だが——三日目の夕方。
ごぼごぼ、と音がして。
排水溝に水が流れ始めた。
茶色い水が、街の外の川へ向かって勢いよく流れていく。
広場に溜まっていた汚水が、みるみる引いていった。
「——臭いが、消えた」
作業に参加していた老人——住民集会で「変なやつ」と言っていた男だ——が、ヘドロまみれの手で顔の汗を拭いながら呟いた。
「嘘だろ。二年間ずっとこの臭いの中で暮らしてたのに——こんなに違うのか」
街に、風が通り始めた。
文字通り——排水が流れるようになったことで、空気が変わったのだ。
住民たちが家から出てきた。
鼻をひくひくさせ、信じられないという顔をしている。
「臭くない……?」
「ほんとだ。臭くない」
「排水溝掃除しただけで、こんなに変わるの?」
老人が腕を組んで、きれいになった排水溝を眺めていた。
「なあ。一つきれいになると、他の汚えところが気になってくるな。……隣の通りも、やるか?」
(前世の犯罪学で「割れ窓理論」と呼ばれていた現象だ。一つの割れた窓を放置すると街全体が荒れていく。逆もまた真。——この老人は、理論の名前を知らないまま本質を掴んでいる)
フィーネが俺の横に立った。
「中村さん。みんな、驚いてます」
「当たり前のことなんですけどね」
「当たり前?」
「排水溝は定期的に掃除するものです。前世では、年に一回は業者が入ってました。二年も放置すれば、どんな街だって悪臭に包まれます」
フィーネが不思議そうな顔をした。
「レイガスさんは、消臭の魔法を使ってました」
「根本原因を解決せず、症状だけ魔法で消していたんですね。——それは対症療法です。排水溝が詰まっているのに、臭いだけ消しても意味がない」
「対症療法……」
「チートの人は、力があるから力で解決しようとする。でも、問題の本質は力では解決できないことが多いんです」
◇ ◇ ◇
次の手は、住民台帳の整備だった。
俺はフィーネの執務室に籠もり、羊皮紙に線を引いた。
名前。住所。家族構成。職業。課税額。
(やっていることは、ウィリアム征服王のドゥームズデイ・ブックと同じだ)
十一世紀のイングランド。征服王は支配した土地を管理するために、全土地・全住民・全家畜の記録を作らせた。それが「審判の日の書」——ドゥームズデイ・ブック。「把握なくして統治なし」は、千年前からの行政の鉄則だ。
前世のエクセルが恋しいが、ないものは仕方ない。手書きでやる。
住民を一人一人呼び出して、聞き取りをした。
最初は警戒されたが、「税の二重取りを解消するための作業です」と説明すると、協力的になる住民が増えた。
「あのー、去年、銅貨を五十枚余分に取られたんだが、返してもらえるのか?」
「台帳ができれば確認できます。二重取りが認められた場合は、返還します」
「本当か!?」
「記録に基づいて対応します。——だから、正確な情報を教えてください」
こうして住民が次々と情報を持ってきた。中には「うちは三年分多く払わされていた」という家もあった。
問題は徴税官だった。
「何を勝手なことをしている!」
分厚い腹をした中年の男が怒鳴り込んできた。徴税官のゲルハルト。レイガス時代から税の徴収を任されていた男だ。
古代ローマに「プブリカニ」という徴税請負人がいた。国家から徴税権を買い取り、余分に取り立てた分を懐に入れる。あまりに横暴が過ぎたため、属州の反乱の原因にもなった。——目の前の男は、その生き写しだ。
「住民台帳だと? 余計なものを作りおって。税の徴収は俺のやり方で問題なくやっている!」
「問題はあります」
俺は台帳を見せた。
「鍛冶屋のハンスさんから、去年一年で六回徴税しています。正規の納税期は年二回です。残り四回分の記録はどこにありますか」
「そ、それは——」
「パン屋のマリアさんからは、『領主追加税』という名目で銅貨二百枚を徴収していますが、領主の帳簿にこの税目は存在しません」
ゲルハルトの顔が青ざめた。
「フィーネ様」
俺は領主を振り返った。フィーネは帳簿を開いていた。
「この『領主追加税』——ご存知でしたか」
「……いいえ。聞いたこともありません」
広場にいた住民たちが、ゲルハルトを見つめた。
その目は——怒りに満ちていた。
「ゲルハルト……お前、ポケットに入れてたのか?」
「俺たちが食うにも困ってる時に!?」
「ま、待て! これは——勘違いだ! 記録が——」
「記録がないから問題なんです」
俺は淡々と言った。
「記録があれば、誰も疑われずに済んだ。記録がないから、不正が見えなかった。——これが、住民台帳を作る二つ目の意味です」
ゲルハルトは住民たちの視線に耐えられず、その場から逃げ出した。
走る速度だけは異常に速かった。その体力を仕事に使え。
後日、横領額の精査と返還手続きを進めることになる。ゲルハルトは隣の領地に逃げたらしいが、住民台帳のおかげで被害額は銅貨の一枚単位まで正確に算出できた。記録は裏切らない。
◇ ◇ ◇
住民台帳の整備が進むにつれ、面白いことが分かってきた。
「中村さん。この領地、人口が思ったより多いです」
フィーネが台帳の集計結果を持ってきた。
「先代の記録では人口千五百人とされていましたが、実際に聞き取りをしたら——二千百人います」
「六百人も未登録?」
「はい。レイガスさんの時代に流入した人が多いようです。ダンジョン攻略の仕事を求めて来たけど、チート転生者が全部一人でやってしまうので仕事がなく、でも帰る場所もなくて、居着いてしまった人たち」
「登録されていないから、行政サービスの対象外になっていたわけですね」
「はい……。この人たちにも税を課すべきでしょうか?」
「課税は必要ですが、まずは登録して、行政サービスの対象にすることが先です。噴水の配分も、浄水の恩恵も、登録された住民と同等に受けられるようにする」
「でも、六百人分の費用は——」
「税収が増えます。未登録住民を把握すれば、正規の課税ベースが広がる。横領分の回収も合わせれば、財政は改善するはずです」
フィーネが帳簿を見つめた。
「……チートで解決できなかったことが、台帳一冊で見えてくるんですね」
「行政の基本です。把握しなければ、対処できない。——二十年前の上司の口癖でした」
四 チート転生者、帰還
変化が目に見え始めたのは、赴任から三ヶ月後だった。
朝、走れる。
これが何より驚きだった。前世の五十六歳の身体では、階段を上るだけで息が切れていた。それが今は、街の端から端まで走っても平気だ。三十六歳の身体は軽い。目もよく見える。肩も凝らない。
ツクヨは「チートみたいなもんでしょ」と言っていたが——正直、否定できなくなってきた。身体が若いと、不思議と気力も湧く。五十六歳の俺なら「もういいか」と諦めていたかもしれないことを、三十六歳の俺は「やってみるか」と思える。
二十年分の知識と経験を、二十年分若い身体で実行する。これは——ある意味、チートなのかもしれない。
排水溝は完全に復旧し、街から悪臭が消えた。
ルーン噴水は常時稼働し、きれいな水が広場を潤している。
住民台帳が完成し、税の公平な仕組みが動き始めた。横領分の一部は住民に返還された。
焦げた畑は、堆肥を混ぜ込んで土壌改良を進めている。まだ収穫には至らないが、最初の芽が出始めていた。
「中村さん! 東区の魔動灯、交換完了しました!」
住民のアルノルドが報告書を持ってきた。日報のフォーマットに慣れてきたらしく、字もきれいになっている。
「ありがとうございます。記録簿に記載しておきます。次は南区ですね」
「おう。もう段取りは分かってるから、任せとけ」
アルノルドは最初の住民集会で「変なやつ」と言っていた老人だ。今では清掃班の班長を自任している。
変化は、住民の顔に表れていた。
三ヶ月前は疲れ切っていた目に、光が戻りつつある。
子供たちが汚水ではなく、きれいな噴水の水で遊んでいる。噴水前で水を汲んでくれたあの子供は、最近、フィーネの後をついて回っている。小さな副領主気取りだ。フィーネは困った顔をしながらも、まんざらではなさそうだった。
パン屋のマリアが、横領分の返還金で小麦粉を仕入れ、久しぶりにパンを焼いた。その匂いが街に広がった時——何人かの住民が泣いていた。
「パンの匂いがする街って、いいですね」
フィーネが執務室の窓から外を眺めていた。その声は、三ヶ月前とは別人のように落ち着いていた。
「当たり前の風景ですよ。——当たり前が戻っただけです」
「でも、当たり前って——難しいんですね」
「難しいです。だから公務員がいるんです」
◇ ◇ ◇
その平穏が壊れかけたのは、赴任から四ヶ月目だった。
「——よう。久しぶりじゃん」
広場に立っていたのは、金髪碧眼の青年だった。
腰に聖剣。背中にマント。全身から魔力が溢れている。
街を歩く住民たちが凍りついた。
「レ、レイガス——」
「帰ってきたぜ。東のダンジョン、もう制覇しちゃったからさ。暇になったんだよね」
A級チート転生者、剣聖レイガス。
二年前にこの領地を放り出した張本人が——ふらりと帰ってきた。
手には土産らしきドラゴンの牙。誰が喜ぶんだ、それ。
レイガスは広場を見回した。
「お、噴水直ってんじゃん。排水溝もきれいになってるし。——あれ、パンの匂い? 前はこんなのなかったよな」
あったんだよ。お前が排水溝を詰まらせて臭いで掻き消してただけだ。
そして、俺を見つけた。
「……誰?」
「中村です。四ヶ月前に赴任しました」
「ふーん。転生者? チートは?」
「凡人枠です。チートはありません」
レイガスが目を丸くした。
「チートなしで、これやったの? 噴水直して、排水溝掃除して、街きれいにして?」
「はい。あと住民台帳の整備と、税制改革と、倉庫の棚卸しも」
「は? なにそれ。——いや、それより」
レイガスは腰の聖剣に手をかけた。
「俺、しばらくここにいるから。前みたいにダンジョン攻略とか——」
「お断りします」
レイガスが固まった。
「……え?」
「ダンジョン攻略の収入は不安定です。攻略者が一人いなくなれば、すぐに収入がゼロになる。この領地は、それで一度崩壊しました。同じリスクは取れません」
「いや、俺がいるから大丈夫だって——」
「『俺がいるから大丈夫』で何が起きたか、この領地が証明しています。あなたがいた二年間、排水溝は一度も掃除されなかった。住民台帳は作られなかった。税は横領され放題だった。——チートで解決できる問題しか解決しなかったからです」
レイガスの顔が強張った。
「俺は——魔物を倒して、ダンジョンを攻略して、開墾もして——」
「はい。そして、去りました。あなたが去った後のこの街がどうなっていたか、知っていますか」
「……」
「噴水は止まり、排水溝は詰まり、畑は枯れ、住民は汚水を飲んで暮らしていました。——あなたが『退屈だから』と去った後、二年間ずっと」
レイガスが黙った。
住民たちが広場に集まり始めていた。
その目は——冷たかった。
「レイガス」
アルノルドが前に出た。
「お前がいた頃、確かに魔物はいなかった。ダンジョンの金もあった。——でもな、排水溝は詰まってたし、税はデタラメだったし、お前が飽きて出てった後は地獄だった」
「それは——」
「中村さんが来てくれて、やっとまともに暮らせるようになったんだ。あんたの力は——もう、要らねえよ」
レイガスの顔が歪んだ。
「い、要らない? 俺が? A級チートの俺が?」
フィーネが前に出た。
膝は震えていたが、声は震えていなかった。
「レイガスさん。あなたの力は確かにすごかったです。でも——力だけでは、人は暮らせません」
「……」
「中村さんは、排水溝を掃除してくれました。住民台帳を作ってくれました。税を公平にしてくれました。——どれも地味で、退屈で、誰も褒めてくれないことです。でも、それがなければ街は回らない」
フィーネが深呼吸した。
「この領地を壊したのは、あなたの力です。でも、立て直したのは——中村さんの、普通の仕事です」
広場が静まり返った。
住民たちが頷いている。
レイガスは——しばらく無言で立っていた。
拳を握りしめ、唇を噛み、目を伏せ——
「……うるせえよ」
低い声だった。怒りと、その奥に——何か別のものが混ざっている。
「お前らに何が分かるんだよ。俺は——俺なりに、やってたんだ」
レイガスは背を向けた。マントが翻る。
広場を横切り、街の外へ向かって歩き出した。走らなかった。走れなかったのかもしれない。
住民たちがざわめいた。
「行っちまったぞ」
「やっぱりああいう奴は——」
「追わなくていいんですか?」
フィーネが心配そうに聞いた。
「大丈夫です。——一晩、考える時間が必要なんでしょう」
前世の市役所でも、新しい制度に反発する住民がいた。説明会で怒鳴り散らして帰った人が、翌週そっと窓口に来ることがある。怒りは受け止めればいい。大事なのは、戻ってこられる場所を用意しておくことだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
南区を巡回していると、切れた魔動灯の下に見覚えのある金髪が立っていた。
レイガスが、高い柱の上の魔動灯を見上げている。
聖剣は腰にあるが、手はかけていない。ただ——見上げていた。
「……おはようございます」
声をかけると、レイガスは振り返った。
目が赤い。一晩中、外にいたのかもしれない。
「……なあ」
「はい」
「俺さ。排水溝の掃除もできなかったんだな」
「できなかったんじゃありません」
俺は言った。
「しなかっただけです。——でも、今からでもできますよ」
レイガスが魔動灯を見上げた。
「……これ、届かねえよな。普通の人じゃ」
「はい。高所作業なので、身体能力の高い人がいると助かるんですが」
「魔動灯の交換……? A級チートに?」
「地味な仕事でよければ、歓迎します」
レイガスは——しばらく魔動灯を見つめていた。
が、やがて、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……地味な仕事か」
「地味な仕事です」
「やったことない」
「だから、やりがいがあるんですよ」
レイガスが聖剣に目を落とした。そして——鞘に手を当てたまま、抜かなかった。
「……教えてくれよ。俺にもできること」
「ではまず、日報の書き方から——」
「にっぽう!?」
五 凡人の仕事
赴任から一年が経った。
ヴァレスティア公領は——見違えるように変わっていた。
ルーン噴水は常時稼働。魔動灯は全区画で点灯。排水溝は月一回の定期清掃が住民の手で行われている。
焼けていた畑には作物が実り、秋には最初の収穫祭が開かれた。
赴任当初は三圃制——畑を三分割して順番に休ませるやり方で土壌を回復させた。そこから一歩進めて、今はノーフォーク式四圃制に移行している。畑を四つに分けて、一年目は小麦、二年目はカブ、三年目は大麦、四年目はクローバー。ポイントは「休耕地がゼロ」になること。カブは家畜の飼料になり、クローバーは根に窒素を蓄えて土を肥やす。つまり四つの畑すべてが常に使われながら、土壌も回復していく。十八世紀イギリスでこの方法が広まった途端、食料生産が爆発的に増えて産業革命の土台になった。
魔法なしで、知識だけで、食料問題を解決する。前世でこの話を聞いたのは高校の世界史だったが、まさか自分でやることになるとは思わなかった。
収穫祭ではフィーネが「領主として初めての挿花」という謎の儀式を「たぶんこういうのだろう」と自信なさげに執り行った。花を持つ手が震えていたが、笑顔は震えていなかった。
式の後、フィーネがぽつりと言った。
「父が最後にこの儀式をしたのは、私が八歳の時でした。……すごく大きな手で、花がちっちゃく見えて。——いつか私も、あんなふうにできるかな」
「もうできてますよ」
フィーネが目を擦った。インクではなく、涙を。
住民台帳に基づく公平な税制が定着し、横領されていた分の返還も完了した。未登録だった六百人が正式に登録され、全住民が行政サービスの対象となった。
財政は黒字転換。倉庫に眠っていたダンジョン素材の売却益と、正規化された税収により、翌年度の予算が初めて「計画的に」組める状態になった。
「中村さん。来年度予算案、見てください」
フィーネが分厚い書類を持ってきた。——自分で作った書類だ。
「おお。きちんとした予算案ですね。項目ごとに根拠もある」
「中村さんに教わった通りに。歳入見込みと歳出計画を分けて、予備費も——」
「百点です」
フィーネが照れくさそうに笑った。
一年前まで「在庫管理簿って何?」と言っていた少女が、予算案を作っている。人は、道さえ示せば自分で走る。
◇ ◇ ◇
レイガスは——まだ領地にいた。
「中村さーん! 北の森の魔物、五匹討伐完了! 日報書いたから確認してくれ!」
「ご苦労様です。……レイガスさん、この日報」
「今日は日付入れたぞ!」
「日付は入ってますが、魔物の名前が全部『なんかデカいやつ』になってます」
「だって名前知らねーし!」
「図鑑を渡しましたよね。先週」
「字が多くて読めなかった」
「A級チートなのに?」
「チートと読解力は関係ねえだろ!」
前世でニートのゲーマーだったことが、こういうところに出る。
レイガスは「魔動灯交換係兼魔物討伐係」として、領地の維持管理要員に落ち着いていた。
A級チートの戦闘力は、適切なローテーションの中で使えば、領地の安全保障として極めて有効だ。かつてのように「全部一人でやって飽きて去る」のではなく、決められた範囲で、定期的に。赴任時に挙げた五つの課題のうち、最後の「治安」だけはどうしても戦闘力が必要だった。——皮肉なことに、問題の元凶が最後の問題の解決者になったわけだ。
日報は相変わらず下手だ。字がやたらとデカくて、一ページに三行しか書けていない。最近は魔物の似顔絵を添えるようになったが、画力もチートではなかったらしく、全部同じ顔に見える。
だが、修正液を自分で使うようになった。それだけで十分な成長だ。
「なあ、中村さん」
「なんですか」
「前世でさ、俺、ゲームばっかやってたんだよ。RPG。レベル上げて、ボス倒して、次のダンジョン。——こっちに来てからも、同じことしてた」
「……」
「でも、RPGって——ラスボス倒したら終わりだろ。ゲームクリア。で、飽きたら次のゲーム」
「現実は、ラスボスを倒した後も続きますからね」
「そう。続くんだよ。排水溝は詰まるし、税は集めなきゃいけないし、畑は毎年耕さなきゃいけない。——終わらないんだ」
レイガスが空を見上げた。
「でも、それが——悪くないって、最近思う」
「終わらない仕事を続けるのが、生活ですから」
「中村さんは、前世でそれを二十年やったんだろ?」
「はい」
「すげーな。——俺には、できなかったことだ」
「今はできてますよ。日報も書いてるし」
「あれ嫌い」
「慣れてください」
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
真っ白な空間。安っぽいカウンター。
とんがり帽子の青年が、書類を揃えている。
「やあ、お久しぶりです。中村さん」
「ツクヨか。——何の用だ」
「定期フォローです。年に一回くらいは様子を見ることになっているので」
ツクヨが書類を広げた。
「ヴァレスティア公領。赴任一年。評価——」
「評価?」
「上層部が転生者のパフォーマンスを査定してるんですよ。四半期レビューみたいなものです」
「神様も四半期レビューがあるのか……」
「ありますよ。——で、中村さんの評価なんですが」
ツクヨが言葉を切った。
「上層部は困惑してます」
「困惑?」
「チートなしの凡人枠が、A級チート転生者が荒らした領地を一年で立て直した。——前例がないんです」
「大したことはしていません。排水溝を掃除して、台帳を作って、税を公平にしただけです」
「それが大したことなんですよ。A級チートを五十人送り込むより、凡人枠の行政官を一人送り込む方がROIが高いかもしれない——って、安定派が報告書を書いてます」
「ROI……神様が使う言葉じゃないでしょう」
「神様も予算で動いてますからね。投資対効果です。まさか凡人枠の方が費用対効果で勝つとは、誰も思ってなかった」
ツクヨが苦笑した。
「正直、嬉しいですよ。私はずっと——凡人枠にも意味があると思ってましたから」
「……そうか」
「ちなみに、例のA級チート転生者も日報を書いてるそうですね。こちらの報告書にも上がってきてます」
「読んだのか」
「ええ。魔物の欄が全部『なんかデカいやつ』でした。査定のしようがありません」
「……あいつには図鑑を渡してあるんですが」
「A級チートに読解力は付与されないんですよ。予算の都合で」
お前が付与しなかったのか。
「あ、ちなみに。この衣装は——」
「趣味じゃない。知ってる」
「三回目でしたか。——でも、次に会う時は変わってるかもしれませんよ。中村さんの報告書が上に通ったら、凡人枠の予算が増えるかもしれない。そしたら、制服のデザイン予算も——」
「そこに予算を使うな」
ツクヨが笑った。今度は本当に楽しそうに。
そして、ふと真顔になった。
「中村さん。赴任前に、二十歳若返らせましたよね」
「ああ。あれは助かりました。五十六歳の身体では、排水溝の掃除も畑仕事も無理だった」
「でしょう? 三十六歳の身体で、二十年分の知識と経験を使う。——ほら、身も心も若返る。これ、立派なチートでしょう?」
ツクヨが得意げに胸を張った。
「……」
否定できなかった。
二十年分の知識を、二十年分若い身体で。確かに——反則かもしれない。
「凡人枠でも、工夫次第でチートになれるんですよ。——私はそう信じてます」
俺は苦笑した。
負けた。完全にツクヨの作戦だったのだ。チートを渡せないから、代わりに若さを渡した。そして、それが一番効いた。
夢が薄れていく。
最後に見えたのは、相変わらず似合っていないとんがり帽子と——「どうだ」と言いたげなドヤ顔だった。
◇ ◇ ◇
朝。
執務室の窓を開けると、パンの匂いが漂ってきた。
広場では子供たちが噴水の周りで遊んでいる。魔動灯が朝の光に負けて薄く光っている。
フィーネが来年度の農業計画を持ってきた。
レイガスが日報を持ってきた。今日は日付が入っていた。
アルノルドが排水溝の定期清掃報告を持ってきた。
全部、普通の仕事だ。
地味で、退屈で、誰も褒めてくれない仕事だ。
でも——この街は回っている。
チートがなくても。聖剣がなくても。
排水溝がきれいで、水が澄んでいて、パンの匂いがする。
それだけで、人は暮らせる。
俺は机に向かった。
今日の予定を確認する。
午前:南区の魔動灯定期点検。
午後:来年度予算案のレビュー。
夕方:農業委員会の第一回会合。
夜:ゲルハルトの横領返還に関する隣領との折衝案作成(継続案件)。
地味な一日だ。
昨日と同じで、明日も同じだろう。
でも——それでいい。
チートで壊された世界は、チートでは直せない。
必要なのは、地味で、退屈で、誰も褒めてくれない——普通の仕事だ。
前世で二十年。今世でも、続ける。
それが——凡人の仕事だ。
(完)
お読みいただきありがとうございます!
チートが面白い世界でチートが去った後、普通に行政をする——そんな地味な話を書いてみました。
感想・ブックマーク・評価をいただけるとものすごく励みになります。