泣き虫 八
(承前)
とりあえず、ルートヴィヒ閣下に剣術指南をしている事を、ザーラを通してオットー公に報告する事となった。
オットー公次第ではあるが、可能であるならばヨハネスがハイデルベルク城に赴いて奏上した方が良いだろう。
問題は、シビラの件についてである。
それとなく懸念をオットー公に伝える、というのが最も穏当と思われた。しかし、その後の事と次第によっては、要らぬ告げ口をしたとして、未来の選帝侯に逆恨みされる怖れがあった。
かと言って、気付かなかった体で報告を怠り、それが元でオットー公の望まぬ事態が起きた場合、今度はオットー公から強い敵意を向けられそうである。
ヨハネス・リヒテナウアー自身は、本音の事を言えば自分ひとりの事であれば、どうにでもなると思っている。
最悪、ゲルトルートを連れ、オットー公もルートヴィヒ閣下も影響力が届かない遠方に移住すればいい。
しかし残されたホーホベルク家の事や、何より、これより世に出ようという一人息子の事を考えると、刹那的な行動には出にくい。
まさかシビラを捕縛して問い質す訳にもいかず、まずは様子を見るしかあるまい、というのがその日の結論になった。
さしあたっては、軽はずみな事はしないよう、リヒテナウアーはパウルスに申し渡した。
その日の夕方の空気は冷たく、ペグニッツ川の水気を含んでいた。
フラウエン門から聖ローレンツ教会へ向かうケーニヒ通り。そこに立ち並ぶ宿屋の一つに、赤い牡牛亭というのがある。
旅の貴族や書記官を泊める、ニュルンベルクでも評判の高級宿である。
その裏庭の暗がりに立ち、ザーラは深呼吸をした。
男装ではなく、久方ぶりに女の姿をしている。
金色の短髪を白布の頭巾で隠し、手に盆を携えたその姿は、宿の女給と見まごうばかりだった。
リヒテナウアー親子の苦境と、父オットーへの反発心。
それらが、彼女に衝動的な行動をとらせていた。
それは幼い頃からの気質で、なんとなくできると目算が立てば、試さずにはいられなかった。
養父母が、そんな彼女の性質を矯めなかったのは、いまにして思えば彼女の出自を不憫に思っていたからだろうか。
赤い牡牛亭の裏口の扉は、厨房へとつながっている。
皿を洗う音、煮詰めたワインの匂い。
ザーラは盆を手に、その中へすべり込んだ。
料理番の男が一べつしたが、夕刻の雑務に紛れ、疑う気配はない。
階段を上り、上階へ。
レオンハルトが逗留している部屋の近く、その向かいに、若い侍女シビラの部屋がある。
ザーラは扉に身を寄せ、耳を澄ませた。
室内に人の気配はない。
かんざしを抜き、鍵穴に差し込む。
レヒフェルトの館で、養父の倉庫をこっそり開けたときと同じ、金属の擦れる感触。
部屋は狭く、慎ましく整っていた。
机の上には針仕事の道具と祈祷書。香水の瓶もない。
十四歳の少女らしい清貧と律儀さが、そのまま空気に残っていた。
だが、机の奥、引き出しの裏板の隙間に、灰白色の紙束が押し込まれていた。
羊皮紙ではない。麻布や古綿をすいて作った、ぼろ紙だ。
ところどころに繊維のかたまりが透け、端には商家の書き損じの文字が見える。
それを糸で綴じた、即席の覚え書き帳。
一三九〇年、参事会員ウルマン・ストローマーが城壁のすぐ外に製紙工場を作った。
それ以来、こうした紙もニュルンベルクでは流通していた。
ザーラは、静かに頁をめくった。
> 「二人の愚かなお供を、あの方が追い返してしまった。
> こんな事は、はじめてだ」
次の頁。
> 「あの方は今日も稽古をなされた。
> 教えの男は熱心であるが、心までは測れぬ。
> あの方は、しばしば彼を称えられる。
> その声を聞くたび、胸が熱くなる」
次の頁。
> 「目覚めと共に、笑みを浮かべられる。
> あの方の笑顔は、幼子のように無防備である。
> 記すまいと思うが、どうしても手が止まらぬ」
ザーラは眉をひそめた。
> 「次の指示を待てとのこと。
> 北の御方様へのご恩義は忘れた事はないが
> もうあの方を偽るのが苦しい」
筆跡がところどころ掠れ、最後の行には、墨の滴が滲んでいる。
そこから先は白紙だった。
ザーラは帳面を閉じた。
おおむね、事の次第は判明した気がした。
北の御方、はオットー公の臣下が主君を呼ぶ時によく使う婉曲表現だ。
そして意外な事に、この少女が情と任務のはざまで、二つに裂かれている様子が見てとれた。
廊下の向こうで軋む音がした。
ザーラは紙束を元の位置に戻し、寝台の帳の陰へ身を潜める。
扉が開き、シビラがそっと入ってきた。
かすかな灯を掲げ、机に腰を下ろす。
しばらく、何も書かず、ただ両手を胸の前で組んだ。
唇が微かに動く。祈りか、それとも謝罪か。
ザーラは闇の中で、その幼い肩の震えを見つめていた。
手のひらには、紙束を撫でたときのざらつきが残っていた。
外へ出たとき、空はすでに群青に沈み、城壁の上には半ば欠けた月が浮かんでいた。
ザーラは、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
これから、夜警の見回りを避けて、市中に確保した隠れ家まで戻らなければならない。
石畳を蹴った時、走り出したのは自分ではなく、先ほどの肩を震わせていた少女なのだとザーラは思った。
まったく理屈は合わないが、そう感じてしまったのは忘れなかった。