泣き虫 十
ヨハネスは、抜き身の長包丁を持って地階に下りてきた。
ルートヴィヒが知る由もなかったが、その刀はヨハネス秘蔵の逸品だ
普段使いの物より、反りが強く刃が薄い。刃の磨ぎ方も、耐久性より斬れ味を重視したもの。
刃と刃の噛み合いを多用する戦法上、ヨハネスの刀剣は損耗が早く、数打ちの普及品を次々取り換えている。
その中で、この刀だけは特定の目的の為に大事に保管されていた。
右手にだらりと長包丁をぶら下げ、無造作にルートヴィヒに歩み寄るヨハネス。
パウルスは、無言で後ろに退いた。
素人ながら、ヨハネスの剣気に呑まれ、ルートヴィヒは身じろぎもできない。
気付いた時には、ルートヴィヒは斬られていた。
実際には、胸元を薄皮一枚斬られただけだ。
だがルートヴィヒの実感としては、身体がつながっている事の方が信じがたかった。
全身から冷や汗が噴き出して、それが震えだと分からない程に身体が小刻みに揺れ始めた。
ヨハネスが、二撃目を放った。
刃が斬り上げられ、切っ先がルートヴィヒの前歯をかすめた。
上唇が裂かれ、鮮血が飛び散る。
小便を漏らしたのが判った。
ヨハネスが、舌打ちしながら、長包丁を肩に担いで構えた。
また斬撃が来る。
そう思った以後の記憶が、ルートヴィヒには無い。
目を覚ますと、ルートヴィヒは柔らかな寝床にいた。
まず、清潔な服に着替えさせれているのに気付いた。
何かべたつくと思って確かめてみれば、上半身にいくつも薄いひっかき傷が残っており、その上に何か軟膏が塗られていた。
上半身を起こした所で、上唇に痛みが走った。
思わず触れると、唇に清潔な布が当てられ、その上から包帯を巻かれている。
「その傷だけ、二針縫いました。触らない方がいい」
その時、パウルスが室内に入ってきた。
ここはホーホベルク家の客間らしい、とルートヴィヒは気付いた。
「あれは、刃物への恐怖を克服し、正しい間合いをつかむ為の訓練です」
寝床の側の椅子に座りながら、パウルスが説明した。
「あれが、訓練なんですか?」
「そうです。実戦で、最初から刃が届く間合いに踏み込める人間はかなり少ないんです。逆に、特に長包丁を使っていたりすると、放っておけば届かない相手の刃を、手でつかみに行ったりしてしまう。だから正しい間合いで戦うためには、恐怖心を克服する必要がある」
——まあ、最終的にはやはり場数を踏むしかないのですが、とパウルスは話を締めくくった。
「それで、どうですか? まだ死にたいですか?」
「いえ……。あんな怖ろしい事は、もうこりごりです……」
「それは重畳。ひとまず、今日はここにお泊りください。明日、宿にお送りしましょう」
立ち上がろうとするパウルスを、ルートヴィヒは止めた。
「お待ちください。手伝って欲しい事があるんです」
「……閣下のご希望とあらば、なんなりと」
「ハイデルベルク城に行って、叔父に会いたいのです。僕は、なんとしてもシビラを取り戻さなければならない」
結局、三日後にルートヴィヒはハイデルベルク城に向って旅立ち、パウルス、ヨハネス、ザーラがそれに同道する事になった。
三日待ったのは、旅支度やルートヴィヒの回復を待った事の他に、ヨハネスの妻・ゲルトルートの説得に時間がかかったからである。
一手間違っていれば自分の夫が選帝侯を斬り殺しており、これからその選帝侯と後見人の対決に巻き込まれに行こうというのだから、良い顔をする妻はいない。
何度も激しい口論が行われ、愁嘆場の末に涙ぐむゲルトルートをヨハネスが抱きしめなだめる場面もあり、パウルスとしては大変居心地が悪かった。
ニュルンベルクからハイデルベルクまでは、約10日の道のりだった。
大部分は"帝国街道"という保護された道を辿れたし、ザーラもルートヴィヒも通い慣れた道だったので、道中に問題はなかった。
旅の当初は、ルートヴィヒはヨハネスを見ると足がすくんでいたようだが、次第に慣れ、普通に言葉を交わせる程度には回復していた。
ハイデルベルクに到着すると、一行は早速、謁見の間に通された。
一段高い所に、空位の玉座。その側に摂政であるオットー公の席。
周りには、大勢の人間が立ち並んでいる。
この時代には儀礼職と化した給仕長、軍務監、財務監などの宮廷職。逆に実務を担う財務官、公文書官、宮廷顧問や延臣たち。
居並ぶお歴々に対し、パウルスは自らの取るに足らぬ身分を感じた。右膝をついて頭を下げつつ、冷や汗をかく。
彼らは、ルートヴィヒの顔を見てざわついていた。
包帯をとった上唇に、若干縫い後が残っていた。
「宮廷長、余の留守居役、御苦労であった!」
思いのほかよく通る声でルートヴィヒがオットー公に声をかけ、そのまま前に進むと玉座に腰かけた。
「閣下、いささかご面相に迫力が増しましたな」
オットーの皮肉っぽい言葉を、ルートヴィヒは無視した。
「聞きたい事がある。余につけていた女中のシビラ、あれは宮廷長の手の者だな?」
「そうでございますよ。大事な閣下の身辺を任せるのです。そこらの者で良いはずがありません」
問い詰めるようなルートヴィヒの声を、オットー公がやんわりと受け流す。
ルートヴィヒが激高して刃傷沙汰になりやしないかと案じたパウルスが、玉座を盗み見るが、案外にルートヴィヒは冷静な顔をしていた。
メッサーのカッティング動画
https://youtu.be/FXXKj0gSP1s?si=pgLlhNnPZrYny9wc&t=312