メリザンドの月と太陽5
完璧であらねばと、はっきり決意したのは、学院の入学の準備をし始めた頃。
それまでも貴族の集まりで、祖父母の目の届かないところで、チクチクとした嫌味は刺されていた。
だが、祖母が他界して、一人で女ばかりの集まりに招待されるようになると、言葉は針ではなく、はっきりした刃となってメリザンドの心を抉った。
『まあ、もう学院に入学なさるお年頃に……時の流れるのは早いものですわ。これからは益々身を慎まれませ、メリザンドさま』
『何せメリザンドさまはご母堂様に生き写し、お父様のようなことになってはと、公爵さまもさぞ心配でしょう』
『あら、心配なのは同学年になるご子息をお持ちの方々ではなくて』
『どちらに似てらしても、あの時とは逆のことが起るやもしれませんものね』
『心配ですわ』
お茶会の席で派閥の夫人に囲まれて、さも気の毒そうな口調で、でも心配なんて微塵もしていない顔で、からかうように言われた。
侮られた!!
判った瞬間、羞恥で脳味噌が焼けるような気がした。
両親については、変な知識を外部から植え付けられる前にと、祖父母からしっかり聞かされていた。
さりとて、美化した物語を作り上げ同じ道を辿らせてもいけないし、軽蔑した醜聞を信じて無用な憎悪を抱かせてもいけない。
なるべく客観的に、私見を交えず話すことに苦労しながらも、二人は父母について訪ねる度、包み隠さず話してくれた。
そのおかげでメリザンドは、父母が正しかったとは思っていないが、憎んでもいない。
貴族として愚かであるとは思っても、父母が出会ったおかげで自分は産まれ、やり方さえ間違えなければ、親子三人笑い合っていた未来もあったのではないかと、穏やかに存在を受け入れていた。
しかし、その父母を通して、彼女たちはメリザンドを侮辱した。
今思えば、彼女たちには彼女たちの言い分があったのだろう。そうしたくなる程、当時の醜聞で迷惑を被ったのかもしれない。
だが、そんなことメリザンドは知らない。
そうやって自分を通して父母を見て、言葉の刃を投げ付ける大人の無遠慮な悪意が、心を、矜持を傷つける度、メリザンドは頑なになった。
そんなに正しさを求めるなら、望み通りにしてやろう。母に生き写しといわれる容貌のまま完璧な令嬢に、父がなるはずだった正しい公爵に私がなってみせる。
震える幼い足で大地を踏み締めて、たった一人立ち向かうことを決めた。
吹き付ける非難の雨がどんなに強くとも、絶対に俯かない。
一度でも目をそらしたら、その瞬間刃は何倍にもなって襲いかかってくる。
言葉の刃がどれ程心を抉っても、悟らせなければ傷ついたことにはならないから、平気な顔をしてみせる。
負けるものか。
強く強く……正しく正しく……。
誰にも<私>を、否定などさせない!!
血が滲む程唇を噛んで暴風吹きつける中に黙って立ち続ける、幼い日の自分を見つめていたメリザンドを、アリエッタの声が現実に引き戻した。
「そんなこと、公爵閣下は望んでいなかったのにね」
唯一残った肉親の祖父は、一人で堪えて立つメリザンドにいつも寄り添ってくれた。
握り締めた拳を解き、噛み締めた唇を撫でて、見開いた目を覆い隠して……いつでも震えるメリザンドを包んでくれた。
けれど一度でもその手に縋ってしまったら、もう二度と自分の足では立てなくなるかもしれない。それが怖くて、メリザンドはいつもやんわりその手の中から抜け出していた。
それを淋しそうに祖父が見ていたのは知っていたのに……。
「外が暴風雨だって判っているのにわざわざ出て行くのは、強さじゃなくて、無謀。雨風が強ければ物陰に隠れてればいいんだから」
「でも、一度隠れたらそこから出たくなくなってしまうかもしれない」
「だったら出なければいいわ」
「そんな……」
「だから、ただ隠れてるんじゃなくて、その間に考えればいいの。雨風はいつか止むかもしれないし、他にもっと安全な場所が見つかるかもしれない。隠れ続けることを非難されて不安になるかもしれないけど、黙って事態の変化を見極めるのも、強さよ」
私はそうやって生き延びたと胸を張るアリエッタは、公爵家へ来てからも同じようにして、牙を磨いていたのだという。
五年間、公爵の支援のもと、メリザンドから逃げ回っているフリをして、自室ではひたすら研鑽を積み。
お披露目の日、たった一度の機会で自身に纏い付くすべてを覆し、メリザンドに示した。
無駄に波風立てるだけが強さではない、弁えるというのはそう言うことだと。
思えばメリザンドは、今日まで自分の強さ正しさ優秀さを証明するために、少しでも悪意を見せた相手は、問答無用に正攻法でコテンパンにしてきた。
あの日の夫人たちの顔はもう覚えていないけれど、後に彼女たちにしたことはちゃんと覚えている。
血の滲むような努力で身に付けた淑女の所作で、正々堂々と挑み、彼女たちのプライドを散々に蹴散らしてやった。とどめに、無邪気な顔で、子供の自分より劣った義母など敬えないと、申し込まれた婚約を蹴ってやったのだ。
今も仕返し方は間違ってはいなかったと思っている。でも、確実に無用な波風は立っただろう。
彼女たち以外にも、同じようなことを何度もした。
だってそちらが間違っているのだもの、文句があるのならいつでも受けて立つと、清廉潔白さを前面に押し出して告げていた。
正しさで塞がれた口から零れる不平不満は、所詮愚痴や逆恨み。ならば誰に何を言われても、恥じる必要などない。
私は正しい。
だからたじろがない。
それが<強さ>だと信じていた。
「私はずっと、自分で暴風雨の中に飛び出して行ったくせに、避けない雨粒に文句を言っていたのね」
ポツリと零すと、アリエッタは困った顔で、しかし同意を示した。
「まあ……そうですね。確かに、ご両親や閣下へのあからさまな悪意を聞き流すのは難しいとは思います。でもいつも真っ向から全力で受け止めてたら疲れるでしょう? 適当な相手には適当な対処でいいんです。それこそこちらには、公爵家という権力もあるんですから」
と、あの日のメリザンドの言葉を奪って笑うアリエッタが眩しくて目を細めた。
五年も一緒に暮らしていたのに、真面にアリエッタを見つめたのは今日が初めてのような気がして……如何に自分の視野が狭かったか思い知らされる。
多分、アリエッタと向かい合う機会はこの五年何度もあったのだ。
先触れやお茶会を断られた時めげずに、直接この部屋のドアを叩いていたら、もっと早くにアリエッタの本質を知ることが出来た。
同じ屋敷の中、歩けばほんの数十歩の距離なのに……形式に囚われ、歩み寄るのはあちらからだと尊大さを振りかざしていた所為で、こんなに時間が掛かってしまった。
同じように、自分の間違った強がりの所為で機会を逃したものも、過去にはたくさんあったのだろう。
初めて後悔して、メリザンドはアリエッタに頭を下げた。
「ごめんなさい、アリエッタ。それからありがとう、私に気付かせてくれて」
「気付いたなら、これから変わればいいだけです」
「……でもきっと、私の所為で失われ、もう取り戻せないものもあるのでしょうね」
「正直、ご両親の醜聞に比べたら微々たるものです。私が調べた感じだと、やり返された本人は別にして、若い世代には貴女に好意的な方の方が多いですよ。学院でも、皆の憧れの君だったのでしょう?」
「……え?」
「ん?」
「憧れ? 私が?」
「ええ、男女問わず貴女に憧れてる子は多いみたいです。弱きを助け強きを挫く、清廉潔白な正義の令嬢として有名ですよ」
知らされた事実に驚いて、顔を真っ赤に染めたメリザンドは両手で頬を押さえる。
「………し、知らないわ、そんな、私、憧れられているなんて」
「女子からは特に評判いいですよ。堅くて厳しいけど、理不尽や間違ったことは絶対言わないし、身分の隔てなく公正な評価をしてくれる。だからここのメイドや侍女は人気の就職先なんですって」
「そんな……」
正直メリザンドは、学院生に嫌われていると思いこんでいた。
公爵令嬢という王族に次ぐ高い地位も壁だろうし、何より両親のことがある。青春という意味での学生生活は入学前から諦めていた。
だから、形式のために通い、貴族としての付き合いに徹した。当然、親友と呼べる友達は一人も出来なかったし、もちろん恋人も、好きな人すらいない。
なのに、憧れられているなんて突然言われても信じられない。
「言ったでしょ、判る人には真実はちゃんと伝わる。背負うもののために、清廉潔白でいようとする貴女の努力を判ってくれる人はちゃんといる。後は、貴女がそんな人をちゃんと見つけられるかどうかです」
「見つけられるかしら……?」
不安そうに青い目を彷徨わせたメリザンドは、一月前まででは有り得なかった顔で、縋るようにアリエッタを見てくる。
「そのお手伝いをするために私がいますから、ご心配なく」
アリエッタもまた、以前では考えられない、自信に満ちた表情で胸を張って答えた。
ふと気付けば瞬く間に時間は過ぎていて、部屋に差し込む光が陰り始めていた。色の変わり始めた窓の外に視線を向けたアリエッタに気付いて、メリザンドも同じ方を見る。
淑女らしくというなら、そろそろお暇する時間だ。
……名残惜しい。
誰かと過ごす時間をそんな風に感じたのは初めてだった。
だからそれもまた初めて、願った。
「ねぇ、夕食の後も時間を頂戴。私もっと貴女と話したいわ」
「夕食後は毎日閣下とご一緒することにしてますので……」
「ああ、そうだったわね。だったら、私もご一緒出来るように夕食の時に相談してみていいかしら?」
「もちろんです」
「では、また後で」
約束が出来たことが嬉しいのか、あっさり腰を上げたメリザンドは、続いて立ち上がろうとしたアリエッタを押し止どめて、一人で扉へ向かう。ドアノブに手を掛けたところで振り返り、座ったまま見送るアリエッタに小さく手を振った。
「楽しかった、ありがとうアリエッタ」
ふんわりと笑って言う顔は、淑女の笑みではなかった。
感情がつい滲み出てしまったような笑みは、アリエッタが初めて見た、本当のメリザンドの笑顔。
ああ……歓喜の溜め息を零したアリエッタは、夕食の団欒を思い浮かべ、忍び笑いを押さえることが出来なかった。
読んで頂きありがとうございました。