第111話 負け犬の拳は宙を舞う 前編
それは、いつかは訪れることで、終わりはいつも傍にあって驚くべきことではない。
でも、人はいつまでも今を永遠と思い、それを甘受する。
僕にはどうすることも出来なかった。
ただ、いつも終わらないでくれと願い続けていた。
「おい、井上先輩がボクシング部の主将と付き合い始めたらしいぞ」
「あの、学園のマドンナが?」
「俺たちの高嶺の花が?」
「俺、明日から学校来る理由無くなったわ」
うちの高校の男子の間では、その日その話題で持ちきりだった。
井上怜奈先輩、新体操部のエースにしてアイドル級の美貌と誰にでも分け隔てのない優しさで学内外問わず男子たちを虜にしていた。
そんな井上先輩の突然の交際の噂。
校内が揺れている気がした。
男子たちがそわそわと落ち着かない。
僕は、その様子を冷静に観察していた。
「宮本氏、貧乏ゆすりがもはやバイクのエンジン張りに小刻みに揺れているけど、大丈夫?」
「大丈夫なわけないだろ、宮本は俺たちの中でも井上先輩に一番入れ込んでたんだから」
「でも、そもそも接点が通学の電車でたまに話し掛けて貰った程度じゃ、どのみち期待薄だったでしょ」
僕の友人の上田、池山、伊藤が口々心配の声を掛けてくれる。
チビ、デブ、ガリの三人だけどともに学園生活を共にしている親友だ。
しかし、一つだけ訂正しておかねばならない。
「おい、伊藤、失礼なことを言うな。僕ごときが井上先輩と付き合えるなんて思ったことはこれっぽっちもない」
「本当は?」
「……いや、妄想はセーフだろ?」
「アウトやで」
俺だって、毎朝顔ぐらい洗っている。
そこに写る容姿が美しくないのは百も承知だ。
正確だって十六年も自身と付き合って来たんだ、その汚さは折り紙付きだ。
ボクシングの主将は県大会でもいつも上位に食い込むほどの実力者で、顔もイケメンだと女子の噂話を盗み聞きでよく耳にする。
はっきり言って勝てる点など見つからない。
お似合いのカップルだ。
そう、本当に自分と井上先輩が何かあるなんて、妄想以外じゃ全く考えてなかった。
そして、それはその通りになった。
僕は、彼女の横顔を見ているだけで満足だった。
幸せな気分になった。
満員電車も退屈な授業も、クラスのボス格に小突かれるのも、全て我慢できた。
でも、もうその横顔は誰かのものになった。
勿論、彼氏が出来たら、好きな人を嫌いになれるなんて単純なものじゃない。
でも、今までの彼女とは決定的に違う人になるのだ。
今となっては、恋人のいる井上先輩に告白することすらできない。
僕には何も出来ない。
いや、厳密に言えば、彼女に恋人が出来る前だって、何も出来なかった。
自分で、自分は知っている。
僕が告白することで傷付く子だっている。
不快な思いをするかもしれない。
僕自身の身だって、さらに底辺に堕ちるだろう。
僕の気落ちした表情を見てか、デブの上田が元気付けてくれる。
「宮本氏、元気出してよ。帰りにマック奢ってやるからさ」
チビの池山が励ましてくれる。
「そうそう、底辺の俺たちには高嶺の花過ぎたよ。調子がいいだけの宮本がらしくないぜ。切り替えていこうや。まぁ、俺も結構好きだったんだけどな、井上先輩」
ガリの伊藤はネットに影響された変な言葉遣いでトドメを刺そうとする。
「失恋乙」
こいつらも人のことは言えない、ブ男、性格難、特に何の才能も無しの連中だ。
こいつらといる僕のレベルも推して知るべし。
だけど、こいつらとのくだらない会話も俺にとって、井上先輩と同じぐらい学校に通う理由でもあった。
「そうだな」
僕はさっきより少しだけ、声が明るくなって返事をした。
帰りの電車で今期のアニソンを聞きながら、揺られていると、少し手前に井上先輩が見えた。
友達と談笑しているようだ。
僕は横目でぼーっとその様子を眺めていると、彼女が僕を見つけてくれた。
わざわざ近付いてきてくれて挨拶をしてくれる。
「宮本くん、今帰り?」
「……うっす」
「私も~、たまに同じ時間になるよね」
僕たちは二、三言、言葉を交わすと、また井上先輩は友達との方へ帰っていく。
当然、彼氏のことなんて聞くことは出来ない。
知っている。
それは僕以外の人にだって、誰にだって、分け隔てなく行っている普通の挨拶だ。
だけど、僕にとって、冴えない僕らにとって神の施しに近い、生きる気力だったんだ。
僕の恋は、このままいつものようにどこにも届かないまま、シャボン玉のように中途半端な高さで弾けてしまうのだろうか?
どこにも届かない思いは、誰にも届けられないこの気持ちを僕はどうする。