悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。
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この短編の「舞台から降りた、その先」を描く連載版の執筆を始めました。
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公爵家の控室の鏡は、どの角度から見ても私を「公爵夫人」に仕立ててしまう。
背筋は伸び、髪は整い、微笑みは薄い。……まるで、この世界が用意した衣装を勝手に着せてくる。
私は鏡の前で、娘の髪飾りを直していた。
「クラリス、苦しくない?」
「だいじょうぶ。わたくし、おとなしくできるもの」
六歳の娘は背伸びして答えた。小さな胸が、ぎゅっと固い。緊張しているときの癖だ。
夜会の廊下から、笑い声が流れてくる。香油の匂いと甘い菓子の匂い。誰かのドレスが擦れる音。
この音の束を聞くと、私は反射で前世の記憶に指先が触れてしまう。
乙女ゲーム。貴族学園。王太子。ヒロイン。悪役令嬢。公開断罪。婚約破棄。破滅。
……全部、“よくできた物語”だった。
よくできすぎていて、現実にされると困る。
クラリスが鏡の中の自分を見て、ふいに口元を上げた。
「……わたくしが正しいに決まっておりますのよ」
声色まで、妙に芝居がかっている。
私の指が止まった。
それは知っている台詞だった。
“悪役令嬢”が序盤で言って、周囲に嫌われる、あの言い回し。
背筋が冷える。
――この子は、まだ悪くない。
――悪役に“される”。
廊下の向こうで空気が変わった。ざわめきが一つの方向へ寄っていく。
王太子が来たのだ。貴族たちが潮みたいに押し寄せる。その中心に、白い花のような令嬢がいる。目立たないふりをしているのに、勝手に視線が集まってしまう存在。
ヒロイン。
心の中でそう呼んでしまう自分に、ちょっとだけ舌打ちした。
舞台の照明が点いた。
私はクラリスの肩を抱いて、鏡から離した。
「クラリス」
「なあに、お母さま」
「その言い方、やめよう。あなたはあなたでいい」
娘はきょとんとしたあと、少しだけ眉を寄せた。
「でも、みんな、そう言ってた。強い人は、こう言うって」
誰だ。誰が教えた。
……答えは簡単だ。この国の“期待”が教えた。
私は笑って見せる。
「強い人はね、言い方を選べる人よ」
クラリスは首をかしげた。分からない顔でいい。
分からないまま、ここから連れ出せばいい。
私の中で決断が降りた。
降りよう。
この舞台ごと。
私はクラリスの手を握る。小さな手はあたたかい。あたたかいのに、ここは冷える。
「今日はもう帰ろう」
「え、まだお菓子が……」
「明日、もっといいお菓子を食べに行く。遠足みたいなやつ」
「えんそく?」
娘の目が少しだけ輝いた。
その光を見て、私は確信する。
断罪より先に、逃げる。
逃げるのは卑怯じゃない。母の仕事だ。
⸻
翌朝。
私は侍女ノエルを呼び、声をひそめた。
「領地へ行くわ」
「……はい?」
ノエルは瞬きの回数で驚きを表現するタイプだ。声を上げないあたり、優秀すぎて逆に怖い。
「できれば今日中に」
「夫人、本日中は遠足ではなく逃走ですね?」
「語感が悪い」
「では“戦略的撤退”で」
「それも言い方が堅すぎる」
ノエルは一拍置いて、うなずいた。
「了解です。生活に寄せます。『急な田舎行き』で」
「それはそれで雑だけど、好き」
ノエルが頭の中の棚を開ける顔になる。
「荷は最小限。お嬢さまの着替え、薬、毛布……甘い物」
「甘い物は重要ね」
「はい、非常に」
真顔で言い切る。こういうところが頼もしい。世界がどれだけ芝居でも、生活は正直だ。
私は娘の部屋に行き、寝起きのクラリスを抱き上げた。
「おはよう。遠足に行くわよ」
「えんそく! どこ?」
「空の広いところ」
「空って、広いの?」
「王都よりはね」
クラリスは寝ぐせのまま笑った。
昨夜の“台本の笑い”じゃない。ちゃんと子どもの笑いだ。
私は胸の中で段取りを確認する。
馬車、護衛、別邸、医師への連絡、夫への説明、王宮への体裁。
……前世ではやったことがない。こんな段取りの遠足。
でも、やる。
ノエルが小声で言った。
「夫人、旦那さまには?」
「言うわ。ちゃんと。でも……間に合わないかもしれない」
「間に合わない場合、旦那さまは怒ります」
「怒らせる。娘を守れるなら」
ノエルは一瞬だけ笑って、すぐ真面目な顔に戻った。
「では、怒らせましょう。上手に」
上手に怒らせる。
欲しくなかった技能だ。
⸻
書斎で、夫のアデルは私の顔を見るなり察したように眉を動かした。
「何だ、その目は」
「遠足の目よ」
「ふざけるな」
理解が早い人は怖い。逃げ道を塞ぐのが上手いから。
机の上には貴族学園の招待状。金の飾り枠。校章。
未来の火種が、紙になって鎮座していた。
「クラリスを春の親睦会に出す。王宮も見ている」
「……まだ六歳よ」
「だからだ。早く“慣れさせる”。遅れるほど不利になる」
不利。
その一語で、娘の人生が測られてしまう。
私は正論の槍を振り回したい気持ちを飲み込む。
ここで戦えば舞台が盛り上がる。観客が増える。敵が増える。
だから一点だけ。
「あなた、クラリスに聞いた?」
アデルの口が止まった。
「……何を」
「行きたいかどうか」
沈黙が落ちた。
沈黙は、彼の中にも答えがある証拠だ。
「学園は道よ。道は選べる。クラリスの道は、クラリスに選ばせたい」
「理想論だ、マリアンヌ」
「理想を持たない人間が子どもを育てるのは、もっと危険よ」
アデルの目が細くなる。怒りの前の顔だ。
私は一歩も引かない。けれど、ぶつからない。
「領地に行きます。静養という形にしましょう」
「静養?」
「昨夜、少し咳が出たの。医師も空気の良い場所を勧めるでしょう」
私は嘘を言い切らない。今朝、緊張で少し咳が出た。子どもは正直だ。
その正直を盾にするのは、母のずるさだ。
「王都から距離を置く。学園も王宮も、いったん離す」
「それは逃げだ」
「そうよ」
私はあっさり認めた。
「逃げる。子どもを連れて逃げる。母親だから」
アデルは言葉を探すように唇を噛んだ。
悪人じゃない。けれど、善人であるだけでは子どもは守れない。
「……いつ戻る」
「戻らない可能性もある」
「馬鹿な」
「馬鹿でもいい。クラリスが泣かずに眠れるなら」
アデルは答えられなかった。
⸻
昼前、王宮から使いが来た。
丁寧な言葉で、拒否できない形の“お願い”を置いていく。
私はその紙を見て、心の中で乾いた笑いが出た。
舞台は照明を増やし始めている。観客席が満員になる前に、裏口から出なければ。
ノエルが言う。
「夫人、出発を早めますか」
「早めましょう。遠足は早起きが正義」
「お嬢さま、遠足という言葉を信じております」
「信じてていいの。遠足よ。人生を取り戻す遠足」
ノエルは荷を確認し、眉をひそめた。
「ぬいぐるみが三つ入っています」
「必要よ」
「一つで」
「クラリスが泣く」
「……では二つで。交渉成立です」
交渉の単位がぬいぐるみ。平和だ。
⸻
出発の門で止められた。
門番ではない。王宮の紋章を付けた使者と、夫の部下が待っていた。
「夫人。お嬢さまのご同行は、王宮のご意向で……」
丁寧だが、逃げ道を塞ぐ丁寧さだ。
私は馬車の扉の前で立ち止まる。クラリスが私の背に隠れ、ぬいぐるみを抱きしめる。
私は微笑んだ。こういうときの微笑みは武器だ。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。昨夜からお嬢さまの具合が不安定で、医師の指示で空気の良い領地へ向かいます」
「医師の指示?」
「ええ。咳が少し。熱も……」
そこでクラリスが、本当に咳き込んだ。
「けほ、けほっ」
……空気、読みすぎ。
私は内心で抱きしめる。抱きしめると芝居に見えるので我慢。母親、忙しい。
使者の目が揺れる。子ども相手に強引に出るのは体裁が悪い。
彼らの弱点は善意じゃない。“見られている”意識だ。
そこへ護衛が一歩出た。ノエルが手配した人物。いかにも責任を取れそうな声で言う。
「責任は私が負います。公爵家の命により、お嬢さまの安全を最優先します」
公爵家の命。
……アデル、黙って許可したのね。たぶん、怒りながら。
使者は短く息を吐いた。
「……ご快癒をお祈りします。ですが、王宮への報告は――」
「私から書面で」
私はきっぱり言った。
クラリスが小さく囁く。
「……怒られる?」
私は振り返り、娘の頬に髪を払ってやる。
「怒られてもいい。あなたは悪くない。お母さんが選ぶ」
娘の目が少し濡れた。すぐこらえる。強い子だ。
強くさせる場所に置きたくないくらい、強い。
馬車が動く。
門が遠ざかる。王都の石畳が揺れを伝える。私はようやく息を吐いた。
――降りた。
舞台の端から、外へ。
⸻
王都を離れるほど、空が大きくなる。
クラリスは窓に額を寄せ、景色を追いかけた。
「お母さま、見て。木が、いっぱい」
「領地は木の数で勝負してくるからね」
「木の数……勝負……?」
「負けると森に呑まれる」
「こわい!」
「冗談よ」
娘が笑って、ぬいぐるみを抱く腕が少し緩む。王都では固かった腕だ。
夕方、別邸に着いた。
古い屋敷。豪華じゃない。でも風が通る。床が鳴る。壁に日が当たる。生活の音がちゃんとする。
ノエルが窓を開け、深呼吸した。
「夫人。ここは空気が勝っています」
「勝ってる?」
「王都に対して」
「いい勝負ね」
クラリスは屋敷を探検し、最後に私のところへ戻ってきた。
「ねえ、お母さま」
「なあに」
「ここでは、わたし、どうしたらいい?」
胸がきゅっと縮む。
王都では子どもでも“役割”を求められる。どう振る舞うべきかを。
私はしゃがみ、娘と目線を合わせた。
「ここではね、誰の役もしなくていい」
「……ほんと?」
「ほんと。いじわるな顔もしなくていい。強いふりもしなくていい。泣いてもいい」
クラリスの唇が震え、ぽろぽろ泣いた。声を出さずに。
私は抱きしめた。ここは舞台じゃない。
娘は泣き終える前に寝落ちした。
安心すると、子どもはこんなに軽く眠るのか。私は初めて知った。
寝顔を見ながら、遅れてやってきた震えを噛み殺す。
守れた。
守れたけれど、ここからが始まりだ。
⸻
数週間後、王都から手紙と噂が届く。
噂はいつも香り付きだ。甘い言葉の香り、正義の香り、嫉妬の香り。
ノエルが封を切り、要点だけを私の前に置いた。
「夫人。学園の“親睦”が荒れております」
「荒れる?」
「はい。主役がいないので」
私は苦笑した。
本来なら、クラリスが“悪役令嬢”として立ち、ヒロインが泣き、王太子が守り、周囲が盛り上がり、断罪が完成する。
でも――悪役がいない。
正義は敵がいないと形になりにくい。
形にならない正義は、だんだん自分の足を踏む。
「代役を立てようとした者がいたようです」
「誰が」
「複数です。貴族の子女は皆、少しずつ誰かの椅子を狙っております」
ノエルの現実的な言い方に、私は笑いそうになる。
「それで?」
「証拠が薄いまま騒いだせいで、王太子の側近が困っております。泣いた令嬢の話が二転三転して整合が取れず……」
「舞台装置が壊れたのね」
「はい。音響担当が泣いております」
「音響?」
「比喩です」
ノエルは真顔のまま言い切った。私は肩を揺らす。こういう小さな笑いが、今の私には必要だ。
そして――夫からの手紙。
一通目は予想通り、丁寧な命令だった。
“早く戻れ。公爵家の体面を忘れるな。”
私は燃やさない。燃やすと舞台が盛り上がる。
代わりに、返信しない。舞台に返事をしない。
二通目は遅れて来た。封蝋が歪んでいた。
アデルの手が震えたのだろう。器用なら、もっと早く娘に「行きたいか」と聞けた。
短い文字で、こう書いてあった。
――すまない。
――クラリスに会いたい。
たった二行。
その二行に、崩れた舞台が透けて見えた。
私は便箋を取り、短く書く。
“娘の意思が最優先。王都には戻らない。娘を社交の道具にしない。会うなら領地で。守れるなら来て。”
最後に一言。
“父親として来て。公爵として来ないで。”
ノエルが横で小声で言った。
「夫人、書きすぎは禁物です。相手は読むより都合よく解釈する生き物です」
「……ノエル、あなた、怖いわ」
「生存の知恵です」
私は封をして、手紙を託した。
⸻
返事から数日後、屋敷の前に馬が一頭止まった。
アデルが降りる。
いつもの王都の装いではない。旅装だ。靴に泥がつき、髪が少し乱れている。
クラリスが窓から覗いて、私の服を掴んだ。
「……お父さま?」
「うん。どうする?」
娘は迷って、私の顔を見た。
私は頷く。選ぶのはあなた。
クラリスは小さく息を吸い、外へ出た。
アデルは膝をつき、娘と目線を合わせた。公爵としてではなく、父親として。
「クラリス」
娘は一歩だけ近づき、すぐ止まった。
王都の空気が、まだ残っている。
アデルがぎこちなく言う。
「……おまえに、聞いたことがなかった」
娘が瞬きをする。
「行きたいか、どうしたいか。……聞かなかった」
アデルは不器用に頭を下げた。
「すまない」
クラリスはしばらく黙ってから、小さく言った。
「お父さま、わたし、こわかった」
アデルの肩が震える。泣かない。泣くほど器用じゃない。
「……すまない」
娘が続ける。
「でも、ここは好き。空が広い」
アデルは息を吐いた。
負けを認めた人の息だ。負けは、いつも悪いものじゃない。
私は玄関から出て、二人の横に立つ。
「条件は読んだ?」
「読んだ」
「守れる?」
「守る」
短い。短いけれど、今はそれでいい。
約束は、言葉より暮らしで証明される。
ノエルが背後で小さく咳払いをした。
「旦那さま。お茶をお淹れしますか」
「……頼む」
「お茶は逃げませんので、落ち着いて座ってください」
ノエルの言い方が少し刺さっている。
アデルは刺さったふりをせず、素直に頷いた。今日は公爵ではなく父親だから。
⸻
その夜、クラリスは庭で拾った小枝を並べて、何かを作っていた。
「なにしてるの?」
私が聞くと、娘は真剣な顔で答える。
「おうち。ちいさいおうち」
「ここ?」
「ううん。もっと、ずっと、ちいさい。わたしが入れるくらい」
小枝の家を指で囲い、そっと言った。
「ここなら、こわい夢、入ってこれない気がする」
私はしゃがんで、娘の隣に座った。
「こわい夢、見たの?」
「うん。みんながわたしを見て、笑って、いけない子って言うの。お父さまも、知らない顔」
胸の奥がきゅっと縮む。
「でもね」
クラリスが続けた。
「お母さまが来て、手を引っ張って、走ってくれた。だから起きたら、ちょっとだけ、へいき」
私は娘の髪を撫でた。
「夢はね、台本みたいなものなの。誰かが書いたやつ」
「だれが?」
「わからない。でも、ここでは燃やしていい」
クラリスは笑って、小枝の家に息を吹きかける。
「ふーっ」
「燃えないわよ」
「えへへ」
笑い声が夜の空気に溶ける。
王都の照明ではなく、星の光が降ってくる。
私は空を見上げた。
舞台を降りたのは、敗北じゃない。
母としての勝利だ。
そして娘の人生は、これから書き直せる。
台本の外で、暮らしの中で、笑いながら。
遠足は――まだ終わっていない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「悪役令嬢」ものの“お約束”を、真正面から殴るのではなく、ひょいっと避けてみたらどうなるだろう……という発想から生まれました。
断罪の舞台は、照明が明るいほど正しそうに見えます。でも、子どもの人生は舞台装置じゃありません。だから母は、まず手を引いて降ります。遠足という名の撤退です。
クラリスが悪役になるのではなく、“悪役にされる”という視点を大事にしました。
そして、守るための選択は「戦う」だけじゃなく「環境を変える」ことでもいい。そんな気持ちを込めています。
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ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。