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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。
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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/13

 本作をお読みいただき、ありがとうございます。

 この短編の「舞台から降りた、その先」を描く連載版の執筆を始めました。

 連載版は作者ページからご覧いただけますので、よろしければ作者ページをフォローしていただけると更新が追いやすくなります。

 公爵家の控室の鏡は、どの角度から見ても私を「公爵夫人」に仕立ててしまう。

 背筋は伸び、髪は整い、微笑みは薄い。……まるで、この世界が用意した衣装を勝手に着せてくる。


 私は鏡の前で、娘の髪飾りを直していた。


「クラリス、苦しくない?」


「だいじょうぶ。わたくし、おとなしくできるもの」


 六歳の娘は背伸びして答えた。小さな胸が、ぎゅっと固い。緊張しているときの癖だ。


 夜会の廊下から、笑い声が流れてくる。香油の匂いと甘い菓子の匂い。誰かのドレスが擦れる音。

 この音の束を聞くと、私は反射で前世の記憶に指先が触れてしまう。


 乙女ゲーム。貴族学園。王太子。ヒロイン。悪役令嬢。公開断罪。婚約破棄。破滅。


 ……全部、“よくできた物語”だった。

 よくできすぎていて、現実にされると困る。


 クラリスが鏡の中の自分を見て、ふいに口元を上げた。


「……わたくしが正しいに決まっておりますのよ」


 声色まで、妙に芝居がかっている。


 私の指が止まった。


 それは知っている台詞だった。

 “悪役令嬢”が序盤で言って、周囲に嫌われる、あの言い回し。


 背筋が冷える。


 ――この子は、まだ悪くない。

 ――悪役に“される”。


 廊下の向こうで空気が変わった。ざわめきが一つの方向へ寄っていく。

 王太子が来たのだ。貴族たちが潮みたいに押し寄せる。その中心に、白い花のような令嬢がいる。目立たないふりをしているのに、勝手に視線が集まってしまう存在。


 ヒロイン。

 心の中でそう呼んでしまう自分に、ちょっとだけ舌打ちした。


 舞台の照明が点いた。


 私はクラリスの肩を抱いて、鏡から離した。


「クラリス」


「なあに、お母さま」


「その言い方、やめよう。あなたはあなたでいい」


 娘はきょとんとしたあと、少しだけ眉を寄せた。


「でも、みんな、そう言ってた。強い人は、こう言うって」


 誰だ。誰が教えた。

 ……答えは簡単だ。この国の“期待”が教えた。


 私は笑って見せる。


「強い人はね、言い方を選べる人よ」


 クラリスは首をかしげた。分からない顔でいい。

 分からないまま、ここから連れ出せばいい。


 私の中で決断が降りた。


 降りよう。

 この舞台ごと。


 私はクラリスの手を握る。小さな手はあたたかい。あたたかいのに、ここは冷える。


「今日はもう帰ろう」


「え、まだお菓子が……」


「明日、もっといいお菓子を食べに行く。遠足みたいなやつ」


「えんそく?」


 娘の目が少しだけ輝いた。

 その光を見て、私は確信する。


 断罪より先に、逃げる。

 逃げるのは卑怯じゃない。母の仕事だ。



 翌朝。


 私は侍女ノエルを呼び、声をひそめた。


「領地へ行くわ」


「……はい?」


 ノエルは瞬きの回数で驚きを表現するタイプだ。声を上げないあたり、優秀すぎて逆に怖い。


「できれば今日中に」


「夫人、本日中は遠足ではなく逃走ですね?」


「語感が悪い」


「では“戦略的撤退”で」


「それも言い方が堅すぎる」


 ノエルは一拍置いて、うなずいた。


「了解です。生活に寄せます。『急な田舎行き』で」


「それはそれで雑だけど、好き」


 ノエルが頭の中の棚を開ける顔になる。


「荷は最小限。お嬢さまの着替え、薬、毛布……甘い物」


「甘い物は重要ね」


「はい、非常に」


 真顔で言い切る。こういうところが頼もしい。世界がどれだけ芝居でも、生活は正直だ。


 私は娘の部屋に行き、寝起きのクラリスを抱き上げた。


「おはよう。遠足に行くわよ」


「えんそく! どこ?」


「空の広いところ」


「空って、広いの?」


「王都よりはね」


 クラリスは寝ぐせのまま笑った。

 昨夜の“台本の笑い”じゃない。ちゃんと子どもの笑いだ。


 私は胸の中で段取りを確認する。

 馬車、護衛、別邸、医師への連絡、夫への説明、王宮への体裁。

 ……前世ではやったことがない。こんな段取りの遠足。


 でも、やる。


 ノエルが小声で言った。


「夫人、旦那さまには?」


「言うわ。ちゃんと。でも……間に合わないかもしれない」


「間に合わない場合、旦那さまは怒ります」


「怒らせる。娘を守れるなら」


 ノエルは一瞬だけ笑って、すぐ真面目な顔に戻った。


「では、怒らせましょう。上手に」


 上手に怒らせる。

 欲しくなかった技能だ。



 書斎で、夫のアデルは私の顔を見るなり察したように眉を動かした。


「何だ、その目は」


「遠足の目よ」


「ふざけるな」


 理解が早い人は怖い。逃げ道を塞ぐのが上手いから。


 机の上には貴族学園の招待状。金の飾り枠。校章。

 未来の火種が、紙になって鎮座していた。


「クラリスを春の親睦会に出す。王宮も見ている」


「……まだ六歳よ」


「だからだ。早く“慣れさせる”。遅れるほど不利になる」


 不利。

 その一語で、娘の人生が測られてしまう。


 私は正論の槍を振り回したい気持ちを飲み込む。

 ここで戦えば舞台が盛り上がる。観客が増える。敵が増える。


 だから一点だけ。


「あなた、クラリスに聞いた?」


 アデルの口が止まった。


「……何を」


「行きたいかどうか」


 沈黙が落ちた。

 沈黙は、彼の中にも答えがある証拠だ。


「学園は道よ。道は選べる。クラリスの道は、クラリスに選ばせたい」


「理想論だ、マリアンヌ」


「理想を持たない人間が子どもを育てるのは、もっと危険よ」


 アデルの目が細くなる。怒りの前の顔だ。

 私は一歩も引かない。けれど、ぶつからない。


「領地に行きます。静養という形にしましょう」


「静養?」


「昨夜、少し咳が出たの。医師も空気の良い場所を勧めるでしょう」


 私は嘘を言い切らない。今朝、緊張で少し咳が出た。子どもは正直だ。

 その正直を盾にするのは、母のずるさだ。


「王都から距離を置く。学園も王宮も、いったん離す」


「それは逃げだ」


「そうよ」


 私はあっさり認めた。


「逃げる。子どもを連れて逃げる。母親だから」


 アデルは言葉を探すように唇を噛んだ。

 悪人じゃない。けれど、善人であるだけでは子どもは守れない。


「……いつ戻る」


「戻らない可能性もある」


「馬鹿な」


「馬鹿でもいい。クラリスが泣かずに眠れるなら」


 アデルは答えられなかった。



 昼前、王宮から使いが来た。

 丁寧な言葉で、拒否できない形の“お願い”を置いていく。


 私はその紙を見て、心の中で乾いた笑いが出た。

 舞台は照明を増やし始めている。観客席が満員になる前に、裏口から出なければ。


 ノエルが言う。


「夫人、出発を早めますか」


「早めましょう。遠足は早起きが正義」


「お嬢さま、遠足という言葉を信じております」


「信じてていいの。遠足よ。人生を取り戻す遠足」


 ノエルは荷を確認し、眉をひそめた。


「ぬいぐるみが三つ入っています」


「必要よ」


「一つで」


「クラリスが泣く」


「……では二つで。交渉成立です」


 交渉の単位がぬいぐるみ。平和だ。



 出発の門で止められた。


 門番ではない。王宮の紋章を付けた使者と、夫の部下が待っていた。


「夫人。お嬢さまのご同行は、王宮のご意向で……」


 丁寧だが、逃げ道を塞ぐ丁寧さだ。

 私は馬車の扉の前で立ち止まる。クラリスが私の背に隠れ、ぬいぐるみを抱きしめる。


 私は微笑んだ。こういうときの微笑みは武器だ。


「ご心配をおかけして申し訳ありません。昨夜からお嬢さまの具合が不安定で、医師の指示で空気の良い領地へ向かいます」


「医師の指示?」


「ええ。咳が少し。熱も……」


 そこでクラリスが、本当に咳き込んだ。


「けほ、けほっ」


 ……空気、読みすぎ。

 私は内心で抱きしめる。抱きしめると芝居に見えるので我慢。母親、忙しい。


 使者の目が揺れる。子ども相手に強引に出るのは体裁が悪い。

 彼らの弱点は善意じゃない。“見られている”意識だ。


 そこへ護衛が一歩出た。ノエルが手配した人物。いかにも責任を取れそうな声で言う。


「責任は私が負います。公爵家の命により、お嬢さまの安全を最優先します」


 公爵家の命。

 ……アデル、黙って許可したのね。たぶん、怒りながら。


 使者は短く息を吐いた。


「……ご快癒をお祈りします。ですが、王宮への報告は――」


「私から書面で」


 私はきっぱり言った。


 クラリスが小さく囁く。


「……怒られる?」


 私は振り返り、娘の頬に髪を払ってやる。


「怒られてもいい。あなたは悪くない。お母さんが選ぶ」


 娘の目が少し濡れた。すぐこらえる。強い子だ。

 強くさせる場所に置きたくないくらい、強い。


 馬車が動く。

 門が遠ざかる。王都の石畳が揺れを伝える。私はようやく息を吐いた。


 ――降りた。

 舞台の端から、外へ。



 王都を離れるほど、空が大きくなる。


 クラリスは窓に額を寄せ、景色を追いかけた。


「お母さま、見て。木が、いっぱい」


「領地は木の数で勝負してくるからね」


「木の数……勝負……?」


「負けると森に呑まれる」


「こわい!」


「冗談よ」


 娘が笑って、ぬいぐるみを抱く腕が少し緩む。王都では固かった腕だ。


 夕方、別邸に着いた。

 古い屋敷。豪華じゃない。でも風が通る。床が鳴る。壁に日が当たる。生活の音がちゃんとする。


 ノエルが窓を開け、深呼吸した。


「夫人。ここは空気が勝っています」


「勝ってる?」


「王都に対して」


「いい勝負ね」


 クラリスは屋敷を探検し、最後に私のところへ戻ってきた。


「ねえ、お母さま」


「なあに」


「ここでは、わたし、どうしたらいい?」


 胸がきゅっと縮む。

 王都では子どもでも“役割”を求められる。どう振る舞うべきかを。


 私はしゃがみ、娘と目線を合わせた。


「ここではね、誰の役もしなくていい」


「……ほんと?」


「ほんと。いじわるな顔もしなくていい。強いふりもしなくていい。泣いてもいい」


 クラリスの唇が震え、ぽろぽろ泣いた。声を出さずに。

 私は抱きしめた。ここは舞台じゃない。


 娘は泣き終える前に寝落ちした。

 安心すると、子どもはこんなに軽く眠るのか。私は初めて知った。


 寝顔を見ながら、遅れてやってきた震えを噛み殺す。


 守れた。

 守れたけれど、ここからが始まりだ。



 数週間後、王都から手紙と噂が届く。

 噂はいつも香り付きだ。甘い言葉の香り、正義の香り、嫉妬の香り。


 ノエルが封を切り、要点だけを私の前に置いた。


「夫人。学園の“親睦”が荒れております」


「荒れる?」


「はい。主役がいないので」


 私は苦笑した。


 本来なら、クラリスが“悪役令嬢”として立ち、ヒロインが泣き、王太子が守り、周囲が盛り上がり、断罪が完成する。


 でも――悪役がいない。


 正義は敵がいないと形になりにくい。

 形にならない正義は、だんだん自分の足を踏む。


「代役を立てようとした者がいたようです」


「誰が」


「複数です。貴族の子女は皆、少しずつ誰かの椅子を狙っております」


 ノエルの現実的な言い方に、私は笑いそうになる。


「それで?」


「証拠が薄いまま騒いだせいで、王太子の側近が困っております。泣いた令嬢の話が二転三転して整合が取れず……」


「舞台装置が壊れたのね」


「はい。音響担当が泣いております」


「音響?」


「比喩です」


 ノエルは真顔のまま言い切った。私は肩を揺らす。こういう小さな笑いが、今の私には必要だ。


 そして――夫からの手紙。


 一通目は予想通り、丁寧な命令だった。


 “早く戻れ。公爵家の体面を忘れるな。”


 私は燃やさない。燃やすと舞台が盛り上がる。

 代わりに、返信しない。舞台に返事をしない。


 二通目は遅れて来た。封蝋が歪んでいた。

 アデルの手が震えたのだろう。器用なら、もっと早く娘に「行きたいか」と聞けた。


 短い文字で、こう書いてあった。


 ――すまない。

 ――クラリスに会いたい。


 たった二行。

 その二行に、崩れた舞台が透けて見えた。


 私は便箋を取り、短く書く。


 “娘の意思が最優先。王都には戻らない。娘を社交の道具にしない。会うなら領地で。守れるなら来て。”


 最後に一言。


 “父親として来て。公爵として来ないで。”


 ノエルが横で小声で言った。


「夫人、書きすぎは禁物です。相手は読むより都合よく解釈する生き物です」


「……ノエル、あなた、怖いわ」


「生存の知恵です」


 私は封をして、手紙を託した。



 返事から数日後、屋敷の前に馬が一頭止まった。


 アデルが降りる。

 いつもの王都の装いではない。旅装だ。靴に泥がつき、髪が少し乱れている。


 クラリスが窓から覗いて、私の服を掴んだ。


「……お父さま?」


「うん。どうする?」


 娘は迷って、私の顔を見た。

 私は頷く。選ぶのはあなた。


 クラリスは小さく息を吸い、外へ出た。


 アデルは膝をつき、娘と目線を合わせた。公爵としてではなく、父親として。


「クラリス」


 娘は一歩だけ近づき、すぐ止まった。

 王都の空気が、まだ残っている。


 アデルがぎこちなく言う。


「……おまえに、聞いたことがなかった」


 娘が瞬きをする。


「行きたいか、どうしたいか。……聞かなかった」


 アデルは不器用に頭を下げた。


「すまない」


 クラリスはしばらく黙ってから、小さく言った。


「お父さま、わたし、こわかった」


 アデルの肩が震える。泣かない。泣くほど器用じゃない。


「……すまない」


 娘が続ける。


「でも、ここは好き。空が広い」


 アデルは息を吐いた。

 負けを認めた人の息だ。負けは、いつも悪いものじゃない。


 私は玄関から出て、二人の横に立つ。


「条件は読んだ?」


「読んだ」


「守れる?」


「守る」


 短い。短いけれど、今はそれでいい。

 約束は、言葉より暮らしで証明される。


 ノエルが背後で小さく咳払いをした。


「旦那さま。お茶をお淹れしますか」


「……頼む」


「お茶は逃げませんので、落ち着いて座ってください」


 ノエルの言い方が少し刺さっている。

 アデルは刺さったふりをせず、素直に頷いた。今日は公爵ではなく父親だから。



 その夜、クラリスは庭で拾った小枝を並べて、何かを作っていた。


「なにしてるの?」


 私が聞くと、娘は真剣な顔で答える。


「おうち。ちいさいおうち」


「ここ?」


「ううん。もっと、ずっと、ちいさい。わたしが入れるくらい」


 小枝の家を指で囲い、そっと言った。


「ここなら、こわい夢、入ってこれない気がする」


 私はしゃがんで、娘の隣に座った。


「こわい夢、見たの?」


「うん。みんながわたしを見て、笑って、いけない子って言うの。お父さまも、知らない顔」


 胸の奥がきゅっと縮む。


「でもね」


 クラリスが続けた。


「お母さまが来て、手を引っ張って、走ってくれた。だから起きたら、ちょっとだけ、へいき」


 私は娘の髪を撫でた。


「夢はね、台本みたいなものなの。誰かが書いたやつ」


「だれが?」


「わからない。でも、ここでは燃やしていい」


 クラリスは笑って、小枝の家に息を吹きかける。


「ふーっ」


「燃えないわよ」


「えへへ」


 笑い声が夜の空気に溶ける。

 王都の照明ではなく、星の光が降ってくる。


 私は空を見上げた。


 舞台を降りたのは、敗北じゃない。

 母としての勝利だ。


 そして娘の人生は、これから書き直せる。

 台本の外で、暮らしの中で、笑いながら。


 遠足は――まだ終わっていない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作は「悪役令嬢」ものの“お約束”を、真正面から殴るのではなく、ひょいっと避けてみたらどうなるだろう……という発想から生まれました。

断罪の舞台は、照明が明るいほど正しそうに見えます。でも、子どもの人生は舞台装置じゃありません。だから母は、まず手を引いて降ります。遠足という名の撤退です。


クラリスが悪役になるのではなく、“悪役にされる”という視点を大事にしました。

そして、守るための選択は「戦う」だけじゃなく「環境を変える」ことでもいい。そんな気持ちを込めています。


感想・評価をいただけると、とても励みになります。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
人間としても母としても強く賢い人ですね。 判断力がすごい。 クラリスちゃんが悪夢から解き放たれますように。 連載のほうも読みに行きます。 楽しみです。 ただ一つ。ノエルって何者?
親の鑑だな 貴族としては完全に失格だけど、普通の親としてはほぼ満点だと思う 1人抜けたぐらいで崩壊する舞台って元々碌な出来じゃないな
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