第23話『黒き従者』
夜の路地裏。
人通りもなく、湿った風が吹き抜ける。石畳の上を、黒いローブを羽織った呪具商人がゆっくりと歩いていた。
その手には数枚の《呪具カード》。まだ使われていないそれらは、まるで呼吸するかのように赤黒い光を脈打ち、周囲の闇をさらに濃くしていた。
「……やはり、あの魂は特別だ」
商人の口元に、ぞっとするほど薄気味悪い笑みが広がる。
「小さな器に宿る異界の英雄。計画に組み込めれば、この街はおろか……世界すら掌の上に転がるだろう」
その背後に、音もなく影が立った。
「……お呼びですか、主よ」
月明かりが雲間から差し込む。現れたのは、漆黒の鎧をまとった青年だった。
銀髪は冷たい光を放ち、瞳は氷の刃のように無機質だ。腰に吊るした長剣は、ただそこにあるだけで血の匂いを想起させる。
商人は愉快そうに笑った。
「ふふ……よく来たな、ヴァイス」
“黒刃のヴァイス”。
その名は地下社会でひそかに囁かれる暗殺者の影であり、呪具に魂を縛られた従者でもあった。
「命じてください」
ヴァイスは短く告げる。その声には抑揚も感情もなく、ただ命令を遂行するための刃の響きしかなかった。
「アレックス・ホーク」商人の目が細められる。
「異界の勇者を名乗る小僧だ。器は小さくとも、中身は英雄の魂。だからこそ、試す価値がある」
「……試す?」
「そうだ。お前に戦わせてみろ。彼がどれほどの力を持つか、どこまで抗えるか……確かめるのだ」
ヴァイスの瞳に、わずかに赤い光が宿る。
「御意」
「忘れるなよ」商人は愉快そうに呟く。
「決して殺すな。あの魂は我らにとって宝だ。もし壊すなら、器だけにせよ」
ヴァイスは無言で一礼し、そのまま闇に溶けていった。
残された商人は呪具カードを掲げ、月にかざす。
「英雄よ。お前の力、どこまで保てるかな……」
一方その頃、水鏡屋。
「今日のシチュー、めちゃくちゃうまかったな!」
アレクがスプーンを空に掲げて叫ぶ。
「ふふん、私の得意料理なんだよ!」
レンは胸を張る。彼女の頬にはうっすらと汗が残っていた。慣れないレシピに挑戦した結果だったが、それを口にするつもりはなかった。
「いやほんと、冒険者の世界じゃこんなうまい飯なかったからな! 乾燥肉と黒パンばっかりでさ!」
「え、それだけ?」
「そうだぞ! 飲み物はまずい水か、薄いビール。だから今日のシチューは神の恵みだな!」
レンは思わず吹き出した。
その横で、ジンが新聞を広げながら冷めた声を上げる。
「騒がしい……」
「おいジン、少しは褒めてやれよ!」
「料理を褒めるのは普通、食べた人間の役目だろう」
「だから褒めてんだろ! “うまかった”って俺が!」
「それはうるさく叫んだだけだ」
くだらないやり取りに、レンの肩の力が抜ける。
この瞬間だけは、アレクもジンも普通の兄弟のように思えた。
そこへ玄関の戸が開き、カズマとユウタが駆け込んできた。
「やっほー! また来ちゃった!」
「アレクー! この前の戦い、マジですごかったな!」
「お、来たな!」アレクは立ち上がり、二人と拳を合わせた。
「見たか? 俺の必殺・机キック!」
「机で戦う勇者なんて初めて見た!」
「でもカッコよかった!」
後ろからミユも入ってくる。
「宿題を一緒にやろうって言ったのに、また遊ぶ気でしょ」
「し、宿題……?」アレクの顔が固まった。
「ほらね」ミユがため息をつくと、レンがすかさず笑う。
「いいじゃない、みんなでやれば楽しいよ」
机の上にノートが並び、子供たちが肩を寄せ合う。
カズマはすぐに計算を間違え、ユウタは字が汚くて読めないとからかわれ、ミユが苦笑しながら訂正する。
「違うよ、ここはこう!」
「わ、わかってたし!」
「いやわかってないだろ!」
アレクも鉛筆を握って必死に書き写すが、答えは見事に間違っている。
「……アレク君、それ算数じゃなくて魔法陣描いてない?」
「だって数字って魔法の記号に似てんだもん!」
全員が爆笑し、工房には暖かな空気が満ちていった。
ジンでさえ、新聞の陰で口元がわずかに緩んでいた。
夜更け。
子供たちはそれぞれ眠気に襲われ、布団やソファに転がっていった。
レンは静かに毛布をかけて回り、窓辺に腰を下ろす。
外には穏やかな夜空。だが、心の奥では不安が膨らんでいた。
(また呪具が現れたら……アレク君はきっと前に立つ。英雄だからって、全部一人で背負おうとするんだ)
胸に手を当てる。
鼓動が早まるのは、恐怖だけじゃない。
(守りたい。……でも、私は創造主として、ただの見守る立場でいいの?)
彼女の横顔を、ジンが静かに見ていた。
だが声を掛けることはしない。ただ眼鏡を押し上げ、机に向かう。
――言葉にしなくても、彼もまた妹を守ろうとしているのだ。
そして、その夜。
街を覆う雲が月を隠した瞬間、水鏡屋の屋根に一つの影が音もなく降り立った。
漆黒の鎧をまとい、氷の瞳を光らせた青年――黒刃のヴァイス。
「……命を果たす」
冷たい声が闇に溶ける。
腰の剣がわずかに震え、赤黒い光を帯びる。
屋内からはまだ笑い声と寝息が聞こえていた。
子供たちの無邪気な声。レンの笑顔。アレクの得意げな自慢。
――だがその温もりの下に、確実に迫る影があった。
「アレックス・ホークを試す」
ヴァイスの瞳が赤く燃える。
水鏡屋の夜は、もう平穏では終わらない。