90 真摯
ルキアスは体術の講習を受けに訓練場を訪れると、奇妙な視線を感じた。振り返れば他の受講者がルキアスをチラ見しながらヒソヒソと話し合っている。居心地が酷く悪かった。
講習では教官のリュミアに代わって受講者に投げられることになった。指名されたのは『車窓の君』だ。未だ彼女を見る度に心ときめくルキアスではあるが、ここまで全く見向きもされていない。この現実を前にして、最早何の期待も抱いていない。この時リュミアが彼女をエリリースと呼ぶのを聞いて、初めて名前を知ったくらいなのだから。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
余計な話はしない。
そして幾度か投げられてからルキアスは気付いた。リュミアに投げられた時と比べ、床に当たる身体が異様に痛い。もっと受け身を意識しなければあちこち傷めてしまいそうだ。幸か不幸かリュミアに投げられるよりゆっくりのせいか、自分の状態は判りやすい。
幾度か投げられる内にルキアスの息は上がった。投げられる度に神経を使うせいで疲労が蓄積しやすいようだ。リュミアには随分丁寧に投げられていたのだと実感せざるを得ない。
しかし直ぐに立ち上がって投げられる準備をする。エリリースに投げられてもダメージを受けない程に受け身が上手くならなければ、いざと言う時に無駄に負ったダメージで動けなくなってしまうのではないかと危機感が頭をもたげたせいもある。
するとエリリースが困ったように眉尻を下げた。
「あなたをただの軽薄な殿方と断じたのはわたくしの見当違いだったようですわね」
「え!?」
「少なくとも根拠に乏しい噂で陰口を叩かれる方々より真摯でらっしゃるようですわ!」
「ええ!?」
ルキアスはエリリースの突然話し掛けられてびっくり。続いた大きな声での少し芝居がかった口調によりびっくりだった。
訓練場が静まり返ってエリリースに注目が集まる。
「わたくし嫌いですの。陰口なんて人として恥ずべき振る舞いですわ」
エリリースは前髪を撫で上げるようにしながらきっぱり言った。ルキアスの目にはパラパラと流れる髪が眩しく映った。
ところがそんなエリリースの言葉にカチンと来た者も居たらしい。
「おい! それは俺たちの事言ってんのか!?」
「あら? そう感じられるならそうなのでしょうね」
「てめぇ! その野郎が他人に魔物を嗾けるのが悪いんだろうが!」
エリリースに噛み付いた男はルキアスを指差した。
それでルキアスも訓練場に来た時のひそひそ話の内容を悟った。ザネクに聞かされたホーンラビットの件だ。
「それのどこに根拠がありますの?」
「俺のダチが見た! そいつの方からホーンラビットが他の奴に襲い掛かって行くのをな!」
「ホーンラビットの走る向きだけですの? 何の根拠にもなりませんわね」
「なるんだよ! ホーンラビットは一番近い奴に襲い掛かるからな!」
「そうなんですの?」
「ぼくには判らないよ……」
エリリースはルキアスに尋ねたが、ルキアスには応えるだけの知識は無かった。他人と組むのは勿論、未だホーンラビットと戦ったことすら無いのだ。
ルキアスが頼りにならないと判断したエリリースは他の受講者達に視線を向けるが、皆首を傾げている。
「それならば確かめてみればよろしくってよ。この後……」
エリリースはまだ何か言い掛けたが、ここでパンパンと手を叩く音が響く。
「はいはい、揉め事はそこまで……ね? まだ講習の時間は終わってないわ……よ?」
リュミアの介入でこの場はひとまず収まった。