プロローグ~北病棟451号室の噂
この物語はフィクションであり、実在する人物・地名・団体とは関係ありません。
とある地方都市の街はずれ……郊外に、「聖崖病院」という名の病院がある。
この病院は北側に拡がる山林を含んだ広大な敷地を有し、また傷病者の整形手術とリハビリテーションの分野において豊富な実績を誇る。近頃は、大怪我に見舞われたスポーツ選手の駆け込み寺として医療関係者以外からもその名を知られつつある。
巷では、肩の故障で数年間一軍登板のなかった有名投手を半年で実戦レベルに戻したとか、誰もが再起不能、引退は不可避と思っていたサッカー選手の左膝を回復させ復帰を助けたとか……「怪物の再生工場」とか、そのような噂が聞かれ始めた。
しかし、この病院に関する噂の中には怪しげなものもある。それらは、この病院がリハビリ分野で有名になるより少し前から、地元で都市伝説的な話題となっていたという話だ。
その怪しさに興味が沸いた。ただの優秀なリハビリ施設、程度のネタならスポーツ系ライターの友人と酒を飲む時の話題程度にと思っていたところだが。
俺はその街の中心駅から少し離れた商店街の一角にある、暗がりのバーを訪ねていた。
壁際の席を空けて、カウンターに座る。そしてマスターへある言葉を投げかける。
「まだ早いけど、ギムレットを」
「独りでお越しなのに、何故わざわざ格好をつけるのですか」
「知り合いが、後で隣に来るからさ」
調べた限りでは、この一連のやり取りが聖崖病院の噂に詳しい事情通を呼ぶキーワードのようだ。
俺は出された酒に口を付ける。前に試したことがあるが、この味、正直言って好きじゃない……口を付けて飲みきらないこともやり取りに含まれるらしいので、仕方なく半分ほど飲む。
ビールでも軽く引っかけてから来るべきだったか。
「ほう、貴方が」
十数分ほど経った頃、背後から突然声が聞こえた。
「私は、いつもので」
「かしこまりました、いつも通りに、ですね」
流れるように会話と着席を済ませた、50~60代の小柄な男が隣にいた。テーブルには速やかに、ウィスキーらしい琥珀色の液体が供される。
「さて、早速だが」
「はい、よろしくお願いします」
俺は彼に気付かれないように、ポケットに忍ばせたレコーダーを起動する。
「しかし、珍しいの……近頃はあの話を聞きたがる者も減ってきたのだが」
「最近こっちに越してきたんです、会社の同僚から話を聞いて、興味が湧いてしまったもので」
ただの会社員だと示唆しておく、厳密には嘘だが。
「ふむ、では……今日は私の知るうちの一つを、お話しよう。最後まで聴くも聴かぬも、話を信じるも信じぬも……貴方の自由だ」
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北病棟451号室の噂
過去……数年前、聖崖病院に伊東という看護師が勤めていた。新人看護師だった彼女は、その日初めての当直勤務にあたっていた。
看護師の当直勤務、といえば深夜のナースコール対応と病棟の見回りである。詰所では、その日の相方となった先輩看護師が煙草をふかしながらスマフォを弄っていた。生真面目な性格で酒や煙草を嫌っていた伊東は、先輩の姿にストレスを感じたのか定時よりも大分早くから見回りを始めることにした。
(ちょっと早すぎたかな……ま、じっくり回ればいいか)
彼女は少し時間を気にしたが、真面目な彼女は漫然とほっつき歩くのではなく、念入りに部屋部屋を確認しながら巡回することで己を納得させていた。
そして彼女は……細やかな見回りの道中に存在した、開かずの間となっているはずの451号室、そのドアの隙間から灯りが漏れていることに気付いてしまう。
伊東看護師は息を殺して451号室のドアへ近づいた。すると、何人かの話し声が聞こえる。
「気密ルーム撤去、処置はなんとか時間内に完了したようですな。後始末は我々に任せて、先生はすぐに部屋を出てください。それと……」
「言われなくとも秘密は守りますよ。そもそも、こんな話をしたところで誰が真に受けるだろうか」
(処置? ここは入院患者用の病室じゃないの?)
疑念を抱いた伊東は盗み聞きを続ける。
「顔を隠された男の両側精管結紮切除術を手術痕が残らないように行え、とはね」
「……早めに忘れていただきたいものだが」
「施術がバレたら私も困るんだ。それに、十分な謝礼を頂いている。今後も精々努力しますよ」
……詳しいことは分からない、けれど何か犯罪的なことがここでなされていたことは疑いようがない。伊東は携帯していたマスターキーを確認し、部屋へ押し入ろうと意を決した。
──先輩看護師の誰かが、予め彼女にこの部屋の話をしていれば、若しくは見回り時間の厳守を伝えていれば……彼女に災難が降りかかることはなかったかもしれない。しかし不幸にも、生真面目でさして可愛げもない彼女に特別目をかける者はいなかった────
「誰ですか!」
伊東は451号室に乗り込んだ。その正面にはベッドの上に横たわる患者の姿があり、周りには全身麻酔を施すための機材と手術用具が並んでいた。
そしてそれらと共に、スーツの男数名と医師らしき男一人が立っていた。
「えっ……!?」
(何故こんな部屋が、こんな人たちが?)
当惑した伊東の動きが止まる。
「どういうことだ!?」
スーツの男は不測の事態に慌てながらも、闖入者を除くべく行動する。
ドポっ
男の固い拳が、看護師の柔い腹にめり込んでいた。
「あ ぐぅ……」
突然の痛みに息が止まり、冷や汗が全身に沸く。伊東の意識は圧された上腹に集まる。
彼女が膝を折り蹲ろうとするのを制しながら、スーツの男は伊東の背後に回った。慣れた動作で首に腕を絡め、そして軽く喉を絞める。
「ヴッ」
他の男たちは何かを取り出し、看護師に向ける。
「騒げば殺す」
男は簡潔な言葉で脅しかける。
男の性分がそうさせたのだろうが、腹部と頚部の苦痛に支配され声を出せないでいた看護師相手にはそれでちょうど良かった。
看護師が黙っているのを確認して、スーツの男は首に絡む腕の位置を変え力点をずらす。
彼女は気管を潰される苦しさから解放され僅かに心の余裕を持てたが、それは却って自身が置かれた状況への恐怖を煽った。男の声に嘘のない堅さを感じ取っていた彼女は、努めて声を出さないでいた。
(殺さないで……)
伊東は固く目を瞑り、そう祈るだけであった。
男はそのまま頸動脈の辺りを絞り、やがて彼女の意識を奪った。男たちは失神した彼女に目隠しをし、猿轡をかませ、担架に載せて身体を固定した。
霊安室の壁に仕込まれた隠し通路の先、地下深く……「表」の職員は誰一人知らない施設に、新人看護師・伊東は放り込まれていた。
彼女は「デン」と呼ばれ、窓もない個室に確保された……
この日を含め、その後の彼女の勤務に関する記録は無い。翌朝病院から「昨日無断欠勤したのだが連絡が取れなくなっている」と伊東の家族へ連絡があった。勿論誰も連絡を取ることはできず、数日後彼女の捜索願が所管の警察署に届け出られた。
それから数年経った今でも、有力な情報は何一つ得られていないらしい。
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俺は呆気に取られていた。
「これは一例、このような話はまだまだあるのです。若い入院患者が外泊許可を取った後に消えたという話、家出少女がインターネットでのやり取りの後行方をくらましたという話、交通事故のリハビリで通っていた外来患者の足取りが突然途絶えたという話、等々ね。まあ関係のないものもありそうだが……あ、霊安室で遺体を置いて消えてしまったご家族がいる、という話もありましたな」
「ははあ、面白そうな話がまだまだありそうですね」
何と言うべきか考えがまとまらないので、とりあえず話を合わせておいた。
──行方不明者とあの病院とを結びつけて考えるのは何故だろうか? あの病院に注目される強い関連性や、槍玉に上げられがちな理由など、何かがあるのだろうか?
そんな俺の疑問を察したかのように、初老の男は話を続ける。
「これは私も又聞きなのだが」
「はい」
「この国では、年間八万人ほど行方不明者が届け出られている。そして、そのうちの二千人ほどは生死も不明なまま見付からないでいる。大雑把に考えて、四七都道府県……一県あたり四十人くらいか」
人口と県の面積を考慮すると、もう少し多そうだが……まずは話を聞こう。
「県警のデータでは、県内での届け出のうち年五十人程度が見つからないそうだ。計算はしていないが、量的には偏りの範疇だろう。だが」
「だが?」
この場に不似合いな統計的な話をされて、つい鸚鵡返ししてしまった。
男は表情を変えずにウィスキーを舐める。すっかり禿びた氷がグラスの中でカラリと鳴った。
男は一息ついて、再び話し出す。
「県内での不明者の大半、八割以上が二十代以下。そして男女比もあべこべ。全国でのデータと照合すると、それはとても不自然なことらしい」
「そして、そのうちの多くがこの美岐市や、あの病院に近い隣接市町村で発生している……それで、行方不明者はあの病院と何らかの関係があるケースがほとんどだという噂が立ったのだろう」
結局、何故あの病院を疑るのかはよく分からない……が、話としては面白いと思った。
「さて、私はそろそろお暇する時間のようだ」
老人はウィスキーの残りを呷ってから、立ち上がった。
「興味深いお話、ありがとうございました……一つだけ、監視カメ……いや、当日、伊東と一緒だった看護師はその後どうなったのですか?」
監視カメラの映像について訊こうと思ったが、意味が薄そうだと感じた。それよりは……
「ふふ、もし本当にご興味があるなら、日を改めてまたお越しくだされ。次があれば、別の噂と、今日の君の質問についてお話しよう」
「わかりました、楽しみにしています」
お世辞を言ったつもりはない、後日また同じようにこのバーを訪ねるつもりだ。