消えたラウラに高まる疑念!あの拉致事件の手がかりが示すラウラの正体は…?
一体それをどこにどうやって隠し持っていたのか。
ラウラが手にしている短剣は、細身だが紛れもなく人を殺せる凶器だ。なだらかに凪ぐ水面から、揺れる反射を受けて銀色の刀身が透き通って見えるほどまばゆく輝く。あれを刺せば、間違いなく高来を殺せるだろう。
でも、すぐにこの事態を受け入れられるものか。
神の教えをかたくなに信じて、僕たちにも限りなく優しい笑顔を見せた少女が、目の前で武器を取って平然と百戦錬磨の海賊を脅しているのだ。その立ち居振る舞いは決して、そうした経験に慣れていない人間のそれでは決してなかった。
僕はこの時代に来て何度も、刃物で人を脅し慣れている人間を見た。
今のラウラの表情や物腰はまさにそれだった。
それでも、信じられるだろうか。
僕の目の前にいるのは、あの屈託のない笑顔を閉ざして、水のように不気味な殺気を帯びて剣を携えたラウラだ。僕はそれを胸が詰まる思いで見つめていた。
「く、くそっ」
よろめきながら、高来は後ろ手で転がった鉄棒を取った。すでに腿を突かれ血が船板に滴っているが、さすがにこの男も簡単には抵抗を諦めない。
小船は、ボートと言っても差し支えのないサイズのものだ。今日のような穏やかな日和でも船は波に洗われ上下に揺れるので、恐ろしくバランスが悪い。ましてや怪我をしている高来は重たい金棒を支えに、何とか立ち上がることが出来るくらいだった。
「ラウラ!」
僕はもう一度大きな声を出して船上の彼女を呼んだ。だって、信じられなかったのだ。
「どう言うことなんだよ…説明してくれよ!初めから、こうするのが目的だったのか!?」
ラウラは冷えた瞳で僕を見た。かすかに首を傾げたその姿勢は、まるで僕の言っていることが分からない、と言ってるようにしか見えなかった。見ての通りだ。そう言いたいのか、ラウラは手にした剣を高来に向けながら、一向に下げたりしない。
「君は武器を隠し持っていた。君は高来の居場所を見つけたら、最初からそうやって自分で片をつけようと思ってたんだ。虎千代を利用して…こんな騒ぎまで起こして、君は僕たちに言ったことと別のことをずっと考えてた。違うか!?だから僕に、あんなことを言ったんじゃないのか?」
そのときラウラが切なげに唇を噛んで表情をしかめたのを、僕は見逃さなかった。僕にはまだ彼女が本当は何者かも判らなかった。虎千代に助けを求めながら、その実は、何かを目的として高来の身柄を狙っていたラウラの素性。今の状況を見れば分かる。でも、気持ちの上では信じ難かった。僕は一瞬、影の差したラウラの顔から眼を離さなかった。
しかしラウラの表情にノイズが混じったのは一瞬で、後はまるで凪の波のような無感動な表情に戻った。その視線はすでに、ほぼ機械的に高来の方へ戻っている。
「まだ、動きますか」
ラウラは冷たい声で、高来に言った。お前の動きはよく見えていると牽制したのだ。
よろめく高来とは対照的に、ラウラはまるで泥田に立つ白鷺のように、姿勢よく立って微動だにしない。驚くことに大きく船が傾いでも、ラウラの立ち方は変わらないのだ。その剣の切っ先も獲物を啄ばむ海鳥の嘴より鋭く、揺れる高来を狙いすまして精確に狙いをつけていた。
ラウラの剣は形状、雰囲気ともにこの国の刀剣とはまったく異なる。刀身の身幅はどう見ても三センチに満たず、薄い刃がその両側につけられている。まるで針のように研ぎ澄まされた切っ先は精確に筋肉を貫いて、最短距離で急所を狙うためのものだ。
軽量で小回りの利く、そんな機能に特化した剣だ。そのデザインは無駄がない癖に、この上なく優美だ。機能がそのまま、気品あるデザインになっていると言う歴戦に磨かれた構造美である。
真っ直ぐ尖った両刃の刀身にとりつけられた細い頸の銀色の柄は、もちろん片手で扱うためのものだ。それを取り巻くように複雑に絡み合った楕円形のキヨン(鍔)が、その研ぎ澄まされた剣を操る手と手首辺りを巧みに防御している。
ファンタジーコミックスや映画で見た覚えがある。あれはまさしく、レイピアと言う短剣だ。
「なっ、南蛮人が好き勝手しくさって。ここをどこやと思うとんのや」
「ワタシたち創りたもうた神の前には、平等です。あなた方も、ワタシたちも」
「けっ、何かしとんじゃい」
ぺっ、と高来は血の混じった痰を、海へ吐き捨てた。
「おのれらの出まかせは、訊き飽きたわ。国盗人の分際で。おれらを盗人だの人喰いだのと、ほざける立場かっ」
ラウラと高来は揺れる船の中で激しくやりあっている。それからも二人のやり取りは何度か続いたのだが、ところどころ潮騒の音に紛れてあまりよく聞こえない。そうしている間にも船は、船着き場を離れてみるみる沖の方へ動き出していたのだ。
「真人っ、どうした、何かあったのか!」
虎千代たちが気づいて、こちらへ駆けだす頃には船はゆらゆらと上下に揺れながら、はるか沖へ向かって動き出していた。
「あああああっ」
やけくそ気味の高来の雄叫びが遠くで響いたのはそのときだ。彼はよろめきながら鉄棒をラウラに叩きつけようとした。それを細身のレイピアを持った少女が難なくいなす。
はるか船上でも僕は見た。ラウラの洗練されたその動きを。
それはまるで風にたゆたうカーテンのようだった。
ラウラは舞った。そう表現する他ない流れるような体さばきだった。ラウラはこの狭い船上で動く時、上下に動く天地に決して逆らわない。足場の不安定感を逆に利用し、バランスを取りながら巧みに高来の突進をかわした。そして足場の浮き沈みを使い、伸びあがりながらレイピアの一撃を放ったのだ。
「ぐあっ」
細身の刃は容赦なく、高来のむき出しの腿に突きいれられた。鋭すぎる刃には、強度はないが、寸分違わず狙いをつけることの出来る精確性とスズメバチのような素早さがある。
高来は武器を喪い、身体を硬直させた。もはやラウラの許しなしにはこの場では指ひとつ動かせないことに気づいたからだ。最後の手段は海へ飛び込んで逃げることだが、ラウラの剣は精妙を極めている。海面に達する前に、間違いなく、穴だらけにされてしまうだろう。
「ラウラ、止まれっ」
僕の横をすり抜けた虎千代は、走った。刀を持ったまま、全力疾走だ。その間にも、ラウラたちの姿はどんどん、小さくなっていく。
何とか虎千代は船着き場の突端に達した。そのときちょうど、船着き場の突端から、揺れる舟が離れていく頃だった。虎千代は走りながら身体を低くした。無謀にも、助走をつけてそこから飛ぼうとしたのだ。刀を引っさげて、ラウラのいる場所へ乗り込もうとしたのだろう。
「だめっ、虎千代サン」
そのときラウラが叫んだ。その声で、虎千代の身体がぴたっと停まった。
僕は端で見ていて、息を呑みそうになった。
ラウラの剣が、虎千代を狙っている。
「止まって」
その声には厳然とした、一つの強い意志が封じ込められていた。まさか本当にそんなことはしないだろうが、それも判らないと思わせるほどかたくなな。その姿勢は虎千代が舟に飛び込んできたら、それを容赦なく阻止すると言っていた。
虎千代は突端で足を停めた。態勢の不利を一瞬で察したのだ。
こうなったら、さすがの虎千代もなす術がなかった。それでもラウラから目を離さずにいたが、正体を現したバスク人の少女はいぜん何も説明しようとはしない。
「許してくださいっ」
波間に揺れる船から、ラウラは叫ぶように言った。
虎千代サン、真人サン。一番近い、僕と虎千代に何か話しかけているのだが、この距離ではもはやほとんど聞こえない。ラウラも必死に声を張ったが、舟は沖のうねりの中だ。潮騒が喧しく声はすぐに紛れたが、切なげにひそめた眉や心苦しげにしかめられた口元からは、遠目にも彼女がただ僕たちをだましていた人間でないと言うことは、伝わってきた。
でもだからこそ、なぜ。僕だってすぐにそれを、彼女に問いただしたかった。
「ごめんなさいっ、皆サンも。出来れば、もっと違った形で逢いたかった!」
問いかけたことへの答えは、何も聞くことがないまま。
ラウラはこうして、僕たちの前から消えたのだ。
「ごめんなさい」
彼女は最後に言った。その言葉を口にしつつもはや信じてもらえない、そう思っている人間のそれは顔だった。その彼女はそれより前に、僕にこっそりと、いずれそうなるだろうと言う覚悟を告げていた。
これから何が起こっても、自分と友達でいて欲しい。
そんなラウラが自ら、消えた。不審に思っていながらも、僕はついに気づけなかった。今さらだが、あれはその運命を予期するかのような、不穏な暗示だったのだ。
胸にわだかまって残ったのはただ、解決されない疑念だけだ。
まず彼女は最初から僕たちの前から消えるつもりで、僕たちに接近したのか。そしてそれは何のためだったのか。そもそも、ラウラ・アリスタと言う少女は、何者だったのか。
今ではそれすら、直接、彼女に問いただすことも出来ない。
「…ラウラに、そんなことを言われていたのか」
あの松林での出来事を話すと、虎千代もびっくりして目を見張っていた。
「真人さん、気づいていたらなぜ、そのことをすぐに言ってくれなかったですかっ」
黒姫も予想外だったらしく、僕に掴みかかろうとしながらもその顔つきが強張っている。
「あれは確信犯ですよ。なんて奴ですか。あの女は最初から虎さまを利用して、この場所に踏み込もうとしていたに違いないですよっ」
黒姫は頭を抱えると、辺りを見渡す。虎千代が解放した梶原屋の倉庫街では、ちょうど宗易さんたちによって拉致された人たちの確認が行われていた。海面からのまばゆいほどの照り返しを受けた白砂の上で、苦痛に顔をしかめた若い男女は五十人近くもおり、彼らの体調と身元を確認するだけで、虎千代が連れてきた人数は今、手いっぱいだ。これもラウラが自分の逃走の手助けになると、計算してのことだろうか。
「宗易殿にも聞いた。あの御仁もラウラのことは、顔なじみの南蛮商人に紹介を受けて相談に乗っていただけで、実際に詳しい素性は知らないそうだ。まさか、ではあったが」
虎千代はもはや跡形もなくラウラが消えた海を眺め、顔をしかめた。
「思い当たる節がなくもない、と言えば言い訳になるな。お前だけの責任じゃない。わたしも気がつくべきだった」
はるか沖に、もっと大きな船が漂っていた。ラウラと高来を乗せた小舟はその素性不明の船に回収されたらしい。海路に不案内の虎千代にはさすがにすぐに跡を追うことは出来ない。宗易さんが人数を出し懸命にラウラが消えた航路を追おうとしたが時すでに遅く、停泊していた船の正体すら掴めないと言う有様だった。
「えらい申し訳ありません。ことの仔細が明らかになったる上は長尾様には、この首賭けて罪を詫びまするゆえ」
宗易さんは虎千代に叩頭したが、もちろん虎千代は宗易さんに非があるなどとは、露ほども思っていない。
「気になさるな。あなたも騙されたのだ。それより問題は、あのラウラと言う南蛮人の少女、何者か、と言うことなのだが」
「ううん、私が引き会わせておいて、無責任と言う他ないのですが」
宗易さんにも不可解なのだろう。彼は首を傾げ、苦しげに顔をしかめた。
「その件については、私も全力で伝手を頼って調べます。他に何かあったら、なんでも言ってください。あらゆる手立てを打って協力しますさかい」
ラウラが遺した物にも、手がかりは薄そうだった。彼女はやはり初めから、準備していたらしい。宗易さんが提供していた彼女の部屋にも、しまへび屋にも置き去りにされた荷物は必要最低限のものだった。着替えが数点と質素なアクセサリーや、こちらで手に入れたものか、真新しい簪や木製の櫛なども入っていた。いずれもラウラの行方を暗示する情報を含む手がかりではない。一点だけ、僕はロケットを見つけたのだが、これも一度見たことのあるミケルの小さな肖像画が入っているばかりだった。
「スケッチブックは?」
ラウラの遺した持ち物がすべて集まってから僕はすぐに訊いたが、その行方だけは誰も知らなかった。僕はあれこそが一番の手がかりになると思っていたのだが、ラウラ自身も、もちろんその辺りは心得ていたようだ。もしかしたらあらかじめ、こっそり始末しておいたのかも知れない。
「ラウラは、描かなきゃ忘れられないと言ってた。だからお兄さんが拉致されたときのこと、あれも描いて持っているって」
「しかしな…」
僕は虎千代と黒姫に事情を説明したが、二人とも要領を得ない顔をするばかりだった。実際のところ、判らないのだ。そもそも僕たちが、彼女の言動をどこまで信用するべきであったのか。
「ラウラさんがお話してたことは、みんな嘘だった可能性だってあるのですよ。もはや何も信用出来ないですよ」
「あの子は僕たちに嘘をついていた。でも、ラウラがお兄さんを探しているってことが、嘘だった、とは今の時点で言い切れないだろ」
僕がミケルの肖像画の入ったロケットを見せると、二人も少し認識を改めた。
「うぐ…でもでも、きちんとした理由を話さずに、虎さまを利用しようと騙したことは、事実ではありませんか!」
「黒姫、そのことはよいのだ。それに、確かに真人の言う通りだ。ラウラは高来をさらって逃げたが、それがすなわち、ラウラの言うことがすべて嘘だったと言うことに繋がりはしない。問題はなぜ、わたしたちに黙って逃げたか、だが」
虎千代が指摘することはもっともだ。僕たちはあくまで、ラウラのために行動していた。高来を捕まえたところで、彼女の意に反した行動をとることはほとんどあり得ないはずだ。それがなぜ、問答無用で高来をさらって逃げる必要があったのか。
「口惜しいが、海のことはどうにもならぬ。今は出来る手を尽くして果報を待つしかあるまい」
と言う虎千代も、自分自身を不甲斐ないと思ったのか、悔しげに唇を噛むばかりだった。
住吉の浜が相変わらず、窓の外で凪いでいる。穏やかな潮騒のどよめきは、いつまでも何の答えもくれない。僕たちとラウラの間に昨日あんな非常事態が起こったことなど、どこ吹く風と言った感じだ。
「で、それが一枚だけ残った絵か」
虎千代が僕の手にしたラウラの風景画に物憂げな視線を投げかける。言うまでもなく、これはあのとき、松林で描いていた海岸線の風景画をもらった一枚だ。ラウラが遺した絵であと僕たちの手元にあるものと言えば、さっき何も知らない妹から取り上げた実物よりもいやにきりっとした絢奈の肖像画くらいだと言うから、泣けてくる。
「これでは手がかりにならぬな」
虎千代は並べられた二枚の脈絡のない絵図を見ながら、しきりにため息をついていた。
「やっぱり他の絵は、僕たちが知らないうちにみんな処分されちゃったのかな」
僕も眉をひそめて腕を組む。
「むべなるかな。今となっては度重なる失態、口惜しいこと数多いが」
虎千代は、それ以上の言及をしなかったが、反省してばかりでもしょうがない。
「それに手掛かりは、この二枚ばかりとも限らぬ。ところで真人、住吉浜の身曳き証文につけられた似せ絵を見たか?」
虎千代は言うと、懐から丁寧に折り畳んだ紙を取り出した。それはラウラの似顔絵がついた身曳き証文だった。あのとき梶原屋の船着き場で高来たちに見せつけたものだが、そもそもこれは虎千代が住吉浜で人買いを称する男たちから奪い取ったものだ。
「見よ」
そこには簡素だが的確な筆書きで描かれたラウラの特徴が、描きこまれている。
「わたしたちの目の前に実物がいるゆえ、あまり気を配らなんだが、この手配書き、見れば見るほどに丹念に描かれておろう。。ラウラのそれとは異なるが、まるで本人を目の前に曳きすえてじっくりとその特徴を捉えたようにな」
目を通して、僕はゆっくりと頷いた。確かに、年格好、身体的特徴、絵で再現出来ない部分は驚くことに細かな書き込みがあり、その詳細さは異常なほどとも言える。
「推測だが、これはほとんど、実物を見て描いたものだろう。でなくば、これほど詳細にはあの南蛮娘の風体を捉えることは出来まい。だがよく考えると、ラウラ自身の話を信じれば高来をはじめとする人買い商人どもは、ラウラにほとんど会ってはいないはずなのだ。それでいてこれが描けたことは、不可解としか言いようがないが」
しかし、と、虎千代は言う。
「ラウラ本人がおらずとも、ラウラが自分自身を描いた似せ絵を元にこれを作ったと考えれば、ことの辻褄は合う。となると、住吉浜でのことも額面通りには受け取るわけにはいくまい。ラウラは自分自身をこの堺で手配し、窮状を装い、宗易殿、ひいてはわたしたちの元へ飛び込む手はずをつけたことになるのだからな」
すべてが巧妙なラウラの自作自演だったとするならば。
虎千代の推測は多少の飛躍があるにせよ、僕にも十分、納得できるものだった。となると、ラウラは入念に準備した上で僕たちに近づいてきたことになる。しかしそうなると、尽きせぬ疑問はやはり、果してそこまでして僕たちに近づく理由が、どこにあったと言うのか、と言うことだが、そこへ踏み込むのにはまだまだ情報が足りない。
「お兄い、使わないならこの絵、返してよ。絢奈、これ大事にしてるんだから」
難しい顔をして黙り込む僕たちを尻目に、絢奈はいそいそとその絵をしまいかける。まったく、呑気なもんだ。
「でも本当にすっごい絵だよね。ラウラちゃん、絢奈の前でこれ十分くらいで描いちゃったんだよ。絢奈そっくりだもん」
絢奈はしきりに感嘆すると、しまう前にその絵を遠ざけたり、近づけたりして何度も見ていた。兄としてはこの絵の通り、絢奈がこんなに真面目な顔をして黙っている状況をあまり見たことがない分、不自然に感じるが、その点に目を瞑れば、それはほとんど写真と変わりはなかった。
このことを考え合わせればラウラの絵を描く能力はやはり、異常だったと言わざるをえない。ラウラはこれを、あっという間に描いたのだ。しかもプロの絵描きがパースをとったり、下書きを入れたりするような方法を取らず、素人絵描きがするように左上から躊躇することなく描き切った。まるでプリンターだ。
「にしても何度見ても信じられぬ。ラウラがこれを、ほとんど何も見ずに描き上げたとはな」
それだけは虎千代も驚愕だったらしく、絢奈そっくりの肖像画と住吉浜の風景画を並べてしきりにため息をついている。そんな人間が地上に存在しようとは、虎千代から考えて、ありえないことだったに違いない。実際それを目の当たりにしようと、中々信じられない話なのだ。
しかし僕は、今やそれほど驚いてはいなかった。ラウラは超能力者と言うわけではない。これはそれほど、荒唐無稽なものではない。その点についてはラウラの正体は何となく、目星がつきつつはあったのだ。
「おおっ、かわゆいお虎ではないか。探したぞ。こっちへ来や」
廊下に出ると、向こうから綾御前が手招きしている。虎千代は本当に嫌そうに顔を引き攣らせて反転したが、ちょうど僕も部屋から出てきたところで、逃げ場はなかった。
「あっ、ああっ姉上っ!おっ、お出かけではなかったのですか…!?」
虎千代の声は、面白いほど上擦っている。綾御前はその虎千代そっくりの顔を綻ばせて、にっこりと笑った。
「今日は手持無沙汰じゃ。なぜだか誰も相手をしてくれぬでのう」
綾御前は虎千代を守るために、夫の政景が派遣したはずの北の暗殺団について調べていたはずだが、その呑気な様子を見ると、本当に仕事してるのかなあと言う風にしか見えないから、性質が悪い。
「たまには姉の話に付き合え。よいな」
「はっ…ははっ…」
虎千代の声は消え入りそうだった。
うわっ、こんなときに何て間が悪いんだ。しかし何より間が悪いのが持ち味の、問答無用の綾御前なのだった。
「そうそう、真人…とか言うたかな、お前もじゃぞ。綾は、部屋で待っておるからな」
綾御前はウインクする。ぞわっとした。こんなに美人のお誘いなのに、なんで背筋にかつてない悪寒が走るのだろう。
「とっ、虎っち、お兄いまたね!絢奈、真菜瀬さんのお手伝いしてくるぅっ!」
そして、危機察知能力の高い妹がいち早く逃げた。僕ももっとこいつのように、要領よく生きたかった。
「なにやら、へまを犯したようじゃな」
部屋に入るなり、綾御前が虎千代に問いただしてくる。
「なぜ、それを」
「お前たちの様子をみれば分かる。そして昨日からあの、南蛮娘の姿を見かけぬでな。お前らしくもない、あの南蛮娘に何か謀られたのであろう」
じろりと妹を見上げる綾御前は、さすがに鋭い。
「あっ、姉上には関係ありますまい」
あまりに無遠慮な物言いに、さすがに虎千代もむきになって言い返した。
「ふん、関係ない、で済めばいいがの」
綾御前は手元の皿の上から高価そうな金平糖を二つほどつまみ、口に入れると、虎千代にくしゃくしゃになった紙切れを投げて寄越した。
「国元の政景から文が来たわ。まさかこの綾が直接、堺のお前のところに行っておるとは思わず、困り果てている様子。よい気味じゃ。これであやつも、お前を狙う刺客どもに迂闊な真似はさせられまい」
綾御前は芝居をしていると言うが、この人も本当にどこまで素なのか判らない。自分の夫を相手取ってのあまりにも傍若無人な物言いに、さすがの虎千代も顔をしかめた。
「姉上、政景殿を困らせておいていい気味など、それはあまりな物言いにござりましょう。かような言い方をするのも憚られますがそもそも、我を狙うて国元から暗殺団が遣わされて来るなど、姉上の勝手な当て推量ではありますまいかっ」
薄々そんな感じがしていたが、虎千代はついに言った。僕の目にも、ここ数日の綾御前は堺見物や食べ歩きを楽しんでいるようにしか思えなかったからだ。
「そう思うなら勝手にするがいい。だがお前は早晩、殺されるであろうな」
しかし、綾御前は切れ味の鋭い冷笑を浮かべて堪えなかった。
「虎よ、お前はどこまで甘いのじゃ。まったく、この有様では、飢えた犬の前に生餌を投げおくようなもの。姉の心配をもそっと察せぬか。このままには到底棄ておけぬ。綾は見ていて歯痒くてならぬのだ」
綾御前は言うと、部屋の片隅にある文箱に向けてあごをしゃくった。
「なんです、今度はいったい」
「良いから、そこを開けて見よ」
しぶしぶ、虎千代は文箱の抽斗を開けて目を瞠った。
「これは…」
僕も驚いた。そこに、無くなったと思われたラウラのスケッチがまとめて仕舞ってあったのだ。
「気に入ったものをくれてやる、とあの南蛮娘が言うのでな。目ぼしいものはみんな、そこに取っておいたのだ」
「姉上…」
まさに図々しさが幸いしたと言うことか。それにしても普通は好きなのをくれると言っても、遠慮して一枚頂くのが関の山なのに、根こそぎちょばっておくなんてさすがは綾御前だと思ったが、
「よく見てみよ。そこに何が描かれているか。上の数枚でお前なら、察するところがあるのではないか?」
綾御前の思わせぶりな言葉に訝しげな表情を浮かべながらも虎千代は、最初の数枚の絵を吟味する。僕の目にはそれは、この辺りの海辺や入り江を描いた遠景だったり、街並みや人の流れを描いたスナップショットめいた風景だったりしたのだが、それを見ていた虎千代がふいに目を見開き、不吉な予感で身体を強張らせた。
「これは…」
「今さら気づいたか。あの南蛮娘が描き続けていたものは、なんじゃ。海なれば人の寄りそうな入り江、ひと気のなさそうな上陸地点。街なれば人の集まる行動しやすい場所、または人目につきにくい建物。これを間者働きと言わずして、なんと言う。調べても分からぬならはっきりと言ってやろう。これがあの南蛮娘の本性じゃ」
ラウラがスパイ。まさか、こんなことが。
さすがの虎千代も青ざめた顔で絶句してしまった。それも驚いたが僕は、別のことでもびっくりさせられた。この綾御前は一見、無関心でいるようで、実は抜け目なくラウラを監視していたのだ。
「これはこの辺りの海岸線だが、畿内周辺の往還路を確かめてあったものなども、目にした。戦国大名なれば一見にてこの程度のこと、気づいて然るべきことぞ。お虎よ、お前はこの堺に来て頭も惚けきったか」
綾御前は言うと、文箱から別の絵を取り出す。それはなんとラウラの持ち物の中から勝手に、持ち出してきたものだと言う。今度こそ僕たちは驚愕した。描かれている建物は、再建された京都のくちなは屋だったのだ。
「見ての通りじゃ。あの南蛮娘はお前たちが思っているより、お前たちのことを調べて知っておる。その上でお前たちに近づいたは、お前たちに脅威を与える下準備のためとみて他なし。虎、もしもあの南蛮娘が政景に気脈を通じたものの一味であったならば、なんとするところであったか。あの娘が本気なれば、お前はこうしてのうのうと生きていられなかったのではないか?」
綾御前の厳しい言葉に虎千代は、一言も返す言葉がない。僕だってあの折の、ラウラの剣の腕を思い出したら、肝が冷えた。ラウラは僕たちを調べ尽くしながら、自分のことはひたすら隠していたのだ。揺れる船の上で相手の身体を自由自在に突き通す剣の腕と、僕たちの身の周りを苦もなく把握することの出来る情報収集力。僕はぞっとした。綾御前の言う通り、ラウラがその気だったなら、虎千代は命すら危うかったのではないか。
「少しは目が晴れたか」
綾御前のいつもの傲然さをひそめ、今度は心から心配な妹を説き伏せるかのように言った。
「まだあの娘から奪った絵はある。その、中身をよく見ておくとよい。もう一度、頭を冷やしてことに臨むことじゃな」
綾御前が言うには、ラウラは人に決して見せない数点の絵を隠していたらしい。綾御前は人を使ってラウラを監視させ、隠し場所を突き止めると、そこからこっそり、何点かのスケッチを抜き取ってきたのだと言う。それらはラウラが日本に来て体験したことの真相に迫るものも含まれていた。
詳細に、ある意味では執拗なまでに描かれたそれらを見て、さすがの黒姫たちも驚愕の色を隠せなかった。
「しかし、ラウラさんがわたくしたちと同業とは。にわかに信じられませんですよ。まさかわたくしたちの目を隠れてこんなことをしていたとは」
黒姫はラウラがこの辺りの地形から、京都のくちなは屋のことまで調べていたことを知るとさすがに顔をしかめた。
「もおっ…わたくしたちは、どこまで信じていいのですかっ、ラウラさんを」
僕たちの前には綾御前が抜き取ったと言う、ラウラの秘蔵の絵がさらに並べ立てられている。
そこには、暗闇の中で描かれたと思われる船の中での映像が描かれていた。ラウラがいつか言っていた忘れることの出来ない戦場での拉致事件のカットだ。これを見て僕たちはラウラが話すことがなかった、それまでとまったく異なる事件の実像を二つ知った。
まず一点目は、あの拉致事件が高来の差し金で襲われたものではないことだ。
正確には計画が、あの周辺の紀州海賊たちの手で行われたものではないことを、その絵が示している。第一に座礁したはずの船に乗り込んできたのは、なんと日本人ではなかったのだ。
「これは南蛮人だな」
虎千代は目を見張った。
高来と人質の引き渡しを交渉していると思われるのは、黒衣をまとった宣教師と思われる背の高い男だった。これはどう見ても日本人ではない。
黒い癖のない髪を短く刈り上げ、眉毛の薄い瞳の色はくすんで奥深く、東欧系の厳しい顔立ちをしていた。薄く閉じられた唇に宣教師らしからぬ酷薄な雰囲気が匂っていた。
恐らく四十前後と思われるこの男は、ミケルと人質を高来から受け取り、宣教師をその場で惨殺したようだ。短剣を胸に突き立てまだ死に切れない身体を、重石をつけて海深く沈めたのはこの正体不明の男に他ならなかった。僕は絵をみてぞっとしたのだが、沈着としたその物腰にただならぬ気配が絵からも伝わってくる不気味な男だった。
そしてここで注目したいのが第二に、ラウラは隠れてその様子を見ていたのではなかった、と言うことだ。描かれた絵のアングルから見てもラウラは直接、あの場で起こった一部始終を見ている。ラウラはここでこの男たちに捕えられず、何らかの方法をとって逃げのびたのだ、と思われる。
「あやつが高来を探していたことは、これを見ても、確かに間違いあるまい。それは嘘ではなかった」
虎千代はこの期に及んでもラウラのために言ったが、いぜん疑問は残る。あのバスク人の少女はそれでいてなぜ、虎千代の素性を調べた上で近づいて来たのか。そしてなぜ、高来を手に入れた今、姿を消したのか。
そんな中、宗易さんがついにラウラたちを収容した船の行方を突き止めた。
「紀州灘に、丹右衛門島言う島がありますのや」
そこは、源平の昔から地元の小海賊が根城にしていた、岩壁だらけの小さな島だった。それが最近、外部から侵略を受けた形跡があると言う。島に潜んでいた海賊たちの大半は駆逐され、表向きは無人の廃墟島になっているはずだった。
宗易さんは熊野水軍の伝手を頼り、その島に半年ほど前から不審な船が出入りしている事実を突き止めたのだ。この辺りの水賊が使う丸木船に毛の生えたような小舟ではなかったので、人目についたらしい。それはきちんと甲板を張った、イスパニアの商人たちが使うような船だったそうだ。
「船の特徴は、ラウラさんを迎えに来た船と一致しますな」
それを聞き虎千代はすぐに、出撃の支度を整えた。
「もはや、直接に聞くしかあるまい」
虎千代は決然と僕に言った。
もはや直接乗り込んで募る疑念を、ぶつけるしかなかった。
虎千代は出発前に入念に愛刀の寝刃を合わせ、柄の目釘を確かめた。言うまでもないが、このとき虎千代はいざとなればラウラと斬り結ぶ覚悟ですらいたのだ。