行動観察
開いた扉に漏れる明度が僅かばかりに上がったようにも思えるが、目が慣れたのか否かは定かでない。
ただ、扉が開いている間は向こうにもこちらの動きが視える事から、今向きを変えるのは自殺行為に思える。
少し落ち着いた鼓動に思考が戻り、置かれた状況を思い出した事で荒くなった呼吸を抑え、多少の息苦しさにも脇の毛布を閉じる事は出来た。
荒れた呼吸でデブは自身の生存報告をしたようなものだが、襲って来なかったのはヒョロ眼鏡を食して間もないからか、他に理由があるのかは解らない。
何せ食すだけなら、外に転がるデコ広の身体も在るのだから困らない筈。
けれど余程腹が減っていたのか、ギョロ目の身体はその殆どを失い、隣でヒョロ眼鏡が喰われた音からしても、胴体の胸部腹部を食したからこそ檻の上に顔の残骸を捨て置いたのだろう。
――KIIIII――
いや、ひょっとすると顔は敢えてこちらに向け置かれたのかも知れない。
態々顔を下に向け置く辺りには、醜悪な連中の獣じみたリンチや脅迫に準ずるものがあり、むしろ獣がそれをしない方が可怪しく思えて来ると言うもの。
どうにも得体の知れない獣の行動も、ハイブリッドなのだから当然のようにも思えて来るが、本来の熊の生態すら知らないのに、熊とは違う何かを感じて恐怖が増しているようでもある。
向こうの呼吸を探りに聞き耳を立てるも、自身の呼吸に収縮する身体が毛布を擦る音により、その殆どが打ち消されてしまう。
風の落ち着きにキーキー鳴る扉の開閉音が静まると、外の音が漏れ聞こえ、車の走行音が混じっている事にようやく気付く。
トラックから数㍍程の道路を普通に車が走っているが場所が場所、曲がり終えた直線に速度を上げる車が池脇の通路の奥に駐めたトラックを見た所で気にはしない。
だからこそにここを選び駐めたのだから当然だ。
中々閉まる気配のない扉の開閉に左右される今、自身の運命が風任せになっている事に気付かされ、置かれた立場に人の命の軽さを自覚する。
ここへ到るまでにも見捨て置いて来た命の多くに怨念が籠もるようなら、ヒョロ眼鏡の顔が物語るように、喰われ行く最中にも何処まで意識があったのかまでを窺い知れば恐ろしくもなり、身体の芯から冷え出した。
それが朝の冷え込みだと分かっていないデブにとっては、長い夜の寒さに体力が保つのか不安を覚え、感覚を失いつつある足の負傷が気にもなり、閉まらぬ扉に苛つき始める。
ただ、寒いとはいえ既に埼玉の外れまで来ているだけに、極寒の青森の漁港で作業をする為の防寒着で過ごす程の寒さは無い。
暖房の効いたトラックを降りる際には寒くも感じ、羽織った防水防寒のダウンも寝るには良いが、起きて毛布に包まり芯から冷える理由など動いていないからに他ならい。
ジッとするにも眠るそれと神経を尖らせ動かないのとでは違いもあり、寝汗の理由を上半身だけ理解させるデブの熱気に、顔を赤らめ毛布を上げた。
すると先よりも明らかに明度が上がり、少しの隙間にも周囲の様子が覗える。
けれど臓物散らばる惨状を目の当たりにすれば、冷えた風を当てるも顰める顔に嫌気が差す。
太陽が昇る速度も知らず育ったか、谷間では日の出は遅くもあっという間に空の色を変えて夜明けを迎える。
朝の五時を過ぎた辺りの三十分程は、乾いた寒気に草木の滴が湿度を与え、撫で吹く風に気化し熱を放てば気温を下げる。
自然のサイクルが起こす気化熱による冷却効果で凍る霜も草木の滴も、陽に照らされれば溶け気温を上げ出す。
谷間に吹く風も微睡む朝の凪に音は消え、風の谷間に移動しようと仲間に合図を呼びかけ囀る鳥の声が響き渡る。
けれど池の脇に置かれたトラックの箱中は、気化熱効果もそこそこに湿る風が冷気そのものを運び入れ、金属や毛布に吹き付け滴を垂らし、体温を失くした臓物の残骸をも凍らせ薄氷を纏わせていた。
無風状態と気付けば扉が閉まる事は無い事も自ずと知れる。
動かざること山のごとしも前に着く風林火があってこそ、恐怖に打ち勝つ勇気もなく、ただ身を潜め豚箱の中で無駄に時間を費やし、獣の臭気にその身を燻らせていただけと今更に気付くデブ。
暖気に汗をかけば、顔や手やに纏わりつく生肉に触れたようなネットリとした油脂が気持ち悪さを増幅し、誰のものかも知れぬ血は固まり皮膚を引き攣らせては、瘡蓋のような痒さにも感じ出す。
自身の発する油脂と血の混ざる匂いを感じ出せば、起きた鼻は獣の臭気までもを理解させる。
忍耐力を試されている状況に思えば思う程、打破したい気持ちばかりで案は無い。
底の知れたデブの思考回路が楽をしようと確率を弄り出せば、何の確定条件も無いままに居ない方へと舵を切る。
怖さが残る手は震えながらも毛布を掬い上げて下方を探り、毛布を引き込み顔を覗かせ足下にある檻の扉の辺りを見ようと感覚を失いつつある足を退けた。
無事だ。
檻の扉は閉まったまま、その先では自身が開けた片扉が明けたばかりの空の色を見せ、直ぐに陽が射し込むだろう事を判らせる。
ならばと一応の安心に逆を向くデブだが、目の前の惨状に嗚咽を漏らす。
「ゔっ!」
格子の向こうに横たわるヒョロ眼鏡の胴体が、惨たらしいまでに喰い荒らされ、引き裂かれた服の裂け目に一部の臓器を残して精肉店で吊るされる肉の如くに鎮座していた。
檻の上部に捨て置かれたヒョロ眼鏡の顔は、己の身体が喰われる何処までを観ていたのか……
いや、何時まで首が繋がっていたのかも判らない上、眠りに着くデブを恨めしく上から見据えていたようにも思え、申し訳なさより這い寄る悪霊の如くに家路に着けば塩を撒き祓う事を考える。
当然、右にも左にも居ない事からデブは寝たまま上を向いて箱の奥を確認するが見当たらない。
上の顔を見たくない触れたくないの気持ちに毛布の中で起き上がり、スマホを操作し緊急通報に番号を押す119。
けれどトラックの荷箱を覆う保温の為のアルミ板が電波を遮断し繋がらず、画面を見ると圏外の文字と共に電池残量が無い事を知らせている。
「嘘だろ?」
扉は開いているのだから電波が繋がっても可怪しくはないが、駐めた場所は丘の谷間で元々電波の入りが悪く繋がり難い。
諦めに不貞腐れるが、檻の無事に周囲に熊は居ないのだからと、外に出て助けを求めた方が早いようにも思えて来る。
「ああクソッ!」
意を決して毛布を剥ぐと、谷間の丘に射し込む朝陽は見えずとも空を池の水面に反射させ、開いた扉から箱中の暖気に煙る靄を線上に照らし、箱の上部で波紋の空が揺れていた。