第61話 水面下②
六月下旬、放課後。
梅雨の湿った空気が1組の教室を満たしている。窓ガラスには無数の雨粒が張り付き、外の景色を歪ませていた。
そんな中、帝友恵は窓際に立つ。
ほとんどの生徒はすでに下校している。残っているのは部活動に向かう者か、日直の仕事で居残りしている者くらいだ。
「……チッ」
誰にも聞こえないくらいの小さい舌打ちをする。
この二週間、帝は千条文音に対する押切芽衣の嫌がらせを阻止し続けてきた。
朝、千条の上履きから画びょうを取り除いたり。昼休み、千条の弁当箱に混入していた夥しいほどの虫を駆除したり。放課後、千条の教科書を確認してみて落書きがあればそれを消したり。
地味で面倒で、しかも千条本人には気づかれないうちにやらなければならない作業。
正直、面倒なんて一言では表せないほどにダルい仕事。だけど、それでも絶対に手を抜かず、友恵は常に神経を研ぎ澄ましここまで徹底的にやってきている。
すべては……あのクソ女――押切芽衣の面子を潰すために。
「あの女、マジでしつけぇな……」
しかし、押切の執念深さは友恵の想像を超えていた。
一度や二度阻止されたくらいで諦めるような女ではないことは分かっていたが、何度でも同じ手段を取ってきたり、かと思えば途端に手を変え品を変え千条を追い詰めようとしてくる。
その執念が、友恵には理解できなかった。……まぁ、理解したくもないのだが。
友恵にとって、これまで押切芽衣という存在は単なる不愉快な女子生徒でしかなかった。だがしかし、あの日あの時、千条文音を陥れていた惨状を見たときからその認識を改めている。今では不愉快を超えた明確な敵という認識だ。
というのも、今まで友恵は押切のことをただの嫌な女くらいに思っていたのだが、あの瞬間にどうやら彼女は人を陥れることに躊躇がなく、しかもそれを楽しんでいる節があるということに気が付いた。
そう思うに至ったのはあの目だ。
千条を見るときの、あの冷たく、それでいてどこか愉悦に満ちた目。獲物を前にした肉食獣のような残酷な輝きを帯びた瞳。
ああいう下卑た目をする人間を、友恵は心の底から嫌悪している。
だからこそ、あの時――島田朔と千条文音が追い詰められていたあの日、友恵は介入したのだ。
言っておくが、別に正義感からではない。ただ、押切のやり方が気に食わなかっただけだ。
それにあの女、その本性を今まで意図的に抑え友恵を騙していたのだ。そういう小器用なところもまた、腹が立った。
「でも……何か変だな。気持ちわりぃ感じだ」
だがここ数日、妙なことになってきている。
押切の動きが……完全に止まっているのだ。完全に、ぴたりと。
これまで執拗に繰り返されていた嫌がらせが、まるで嘘のように消えた。
最初は押切が新しい手口を考えているのかとも思った。
だけど、数日経っても何も起こらない。本当に何も、だ。
今日だって文音の上履きは無事だったし、弁当も無事だった。もちろん教科書も無事だった。
それどころか押切は文音に全く絡んでこなくなった。
文音が近くを通ったとしてもぶつからないし、足もひっかけようとしない。
完全に文音に興味を失くしている感じだ。
「どういうことだ? 何か企んでやがるのか……?」
傍から見れば問題が解決したかのように見えるのだが、どうにも違和感が拭えず、友恵の直感が理由などない警鐘を鳴らす。
押切芽衣は諦めるような女ではない。あの執念深さ、あの計算高さ。そんな女が、簡単に手を引くはずがない――と。
嵐の前の静けさ――そんな言葉が頭に思い浮かぶ。
ふと教室を見回せば、窓から差し込む灰色の光が机や椅子に暗い影を落としている。
静かで、物憂げで、どこか不安を煽る空間。
(はっ。こっちも何だか不気味な雰囲気じゃねえか)
そんなあまりにも状況とマッチしている空気が嫌で、机の上を軽く手で小突いて気分を胡麻化す。小突いたときの鈍く軽い音が、殆ど空っぽの教室に響いた。
「ね、ねぇ……」
そんなとき、不意に声をかけられる。
友恵が声のした方向へと目を向ければ――。
そこにいたのは――千条文音だった。千条はあの騒動以来、いつもどこか不安げな顔をしている。今もそれは変わりなかった。
「何だよ」
素っ気なく答える。
「あ、あの……その……」
千条は言いにくそうに視線を泳がせた。カバンを両手で抱えて少し身体を揺らしている。緊張しているのが一目で分かった。
「最近、押切さんが……前と違うっていうか」
「ああ」
「これって、もしかして終わったの、かな……?」
その声には僅かな希望と喜びが混じっているように聞こえる。
だが、友恵はその希望を否定するように首を横に振る。
「ねぇよ、そんなこと」
「え……」
千条の表情が、一瞬で曇った。
「あのクソ女がこんな簡単に諦めるわけねぇだろうが。何か企んでんだ……それも、今までとは違う何かをな」
そうハッキリと断言してみせる。
「そ、そうなんだ……」
表情が、さらに曇る。
肩も小さく震えていた。
それを見て友恵は少しだけ言葉を和らげようと思ったが……やめた。
中途半端な慰めはかえって危険だからだ。安心できない現実を直視させる方がこいつのためになる。予防線というやつだ。
「だから油断すんな。むしろ今が一番危ねぇ」
「う、うん……分かった」
こちらの忠告に、千条は小さく頷く。
その表情には恐怖と覚悟が見て取れる。だが、この場で弱音を言い出すことは無かった。
(……まぁ、さすがに野内とつるんでるだけはあるな。根っこの部分がそこらの女とは比べ物になんねぇ)
これだけ執拗にいじめをされても、まだしっかり立っている。
友恵や島田朔、蕨姉妹が支えているのもあるだろうが、それでも千条自身の強さがなければ、とっくに折れていたはずだ。
「……ありがとう」
そんな感想を抱いていると、千条が小さくそう呟いた。
「別に、礼なんざいらねぇよ」
またも素っ気なく答える。
千条はそれ以上何も言わず、こちらに小さく頭を下げると教室前に来ていた島田と共に帰路へつく。
一人になった教室で、友恵は腕を組み直しもう一度窓外へ目を見やった。
「来るなら来い。ぶっ潰してやる」
押切が何を企んでいようと、友恵は全力でそれを阻止する。
ただそれだけだ。
◇
同じ六月下旬。
相談部の活動はここ二週間、完全に停止している。
理由は単純。文音、押切周りの見張りのためだ。
サク、みずき、あずきの三人は、交代で文音の周囲と押切のことを監視し続けていた。押切芽衣による嫌がらせから文音を守るために。授業の合間、昼休み、放課後。できる限りの時間、サクたちは文音の近くにいるようにしている。
蓮には「しばらく野暴用で部活に行けない」とだけ伝えてある。それに対し蓮は特に何も聞いてこなかった。
ただ「そっかー、分かったー」とだけ言って、それ以上は何も。追及もしてこなければ、理由も聞かれていない。
だがさすがにもう、あの騒ぎがあった後だし文音のことで何かトラブルが起こっていることは察しているはずだ。だけど、だからこそ何も聞いてこないのだろう。文音に気を遣ってあえて触れないでいるのだ。
そして……それと同時にきっと蓮は信じている。サクたちが文音を守ってくれるということを。
(任せてよね。必ず上手くやるよ)
心の中で、しばらくまともに会話できていない蓮に対して一方的に宣誓する。
今日はサクの当番だ。なので帰りのHRが終わると同時に、サクは素早く教室を出て1組の教室近くまで移動した。
そして、廊下からさりげなく1組の様子を窺う。
教室の中にはもう殆ど人はおらず、文音の姿がよく見える。帝と何か話をしているようだ。その表情は相変わらず少し不安げに見える。対する帝はいつものぶっきらぼうな態度で何か言っていた。
その光景を見てサクは少しだけ安心する。
帝友恵という男は一見すると乱暴で短気に見える。それは今も変わらない。だが、実は義理堅く、筋を通す男だということを何となくサクは察していた。
あの日サクと文音を助けてくれたことも、きっと彼なりの正義があったからだろう。現に今も陰ながら律儀に文音を守ってくれている。そのことに安堵すると同時に、感謝した。
(でも……)
でも、それはそれとして……。
サクは視線をキョロキョロと色々な場所へと移す。そう――押切芽衣の姿を探しているのだ。
彼女はいつもなら取り巻きの女子たちと談笑しているはず。
だけど、今日はもういない。いや……今日は、ではない。今日も、だ。
(やっぱり……何かおかしいな……)
サクの眉間に皺が寄る。
ここ数日、押切の動きが完全に止まっている。
これまで押切はカメラの死角を利用したり、巧妙に証拠を残さないようにしながら執拗に文音に嫌がらせを仕掛けてきていた。
だがどうしたことだろうか。今週に入りその動きがピタリと止まったのだ。今はいじめの気配など微塵も感じられない。今の押切は、まるで別人のように大人しい。
(これは……どういうつもりなんだ?)
二つの可能性がサクの頭に浮かぶ。
一つは、押切が本当に諦めたという可能性。
だが……それはあり得ない。
押切の黒い目を直接見たサクからしたら、彼女が簡単に手を引くとは到底思えない。だから、残された可能性の方を注視する。
(作戦を変えた……?)
その可能性の方が遥かに高かった。
今までの直接的な嫌がらせが帝やサクたちによって阻止され続けたことで、押切は別の手段を選んだのかもしれない。
きっと、もっと巧妙で、もっと陰湿な手段を企んでいるのだ。
だが、それが何なのかは――まだ、分からない。
そして、その"何か"が起こるまでサクたちの見張りは依然として続いていくのだろう。終わりの見えない、緊張の日々が。
だけど……その現場を取り押さえることが出来ればこちらの勝利だ。
サクは絶対にその兆候を見逃さないよう、より一層気を引き締め、文音と共に帰路へと就いた
◇
「ふわぁー……最近暇だなぁ」
俺は教室の自分の席で大きなあくびをした。
七月に入って一日目の今日。
梅雨はまだ続いていて、外では相も変わらずポツポツと雨が降っている。
何とも鬱々とした季節だ。湿気で髪がうねるし、制服もジメっとしてる。教科書もノートもなんかしっとりしてる感じがするし。
「みんな最近何してんだろうなー……」
みんな――サク、文音、みずき、あずきのことを考える。
サクから、全員「しばらく部活に行けない」と言われたのはもう二週間以上も前のことだ。
理由は「野暴用」とのこと。
あのときは詮索する気もなかったし事実聞いても無い。でも、さすがにそろそろちょっと気になってきた。だって、二週間もかかる野暮用って何なの?って感じだし。
まぁでも……サクたちのことだから本当に色々あるんだろう。何しろ俺とは違って色々小難しいことを考えながら生きている奴らだ。
きっと、何かとてつもなく大事な用事があるに違いない。断じて……決して! 俺だけが除け者にされてるわけではないと思う。……多分。
「あぁー……それにしても……暇なんだよなぁー……」
この二週間で、部活がないと今の俺には本当にやることがないんだなと気付かされた。中学のときは生徒会の仕事に忙殺されてたし、この前までも何だかんだでサクたちと忙しく過ごしていたから、急に一人放り出されても何をしたらいいのか分からない。
まず授業が終わるでしょ?
帰るでしょ?
ゲームするでしょ?
……はい、お終い。
ね? つまらない。暇なんだ。
「野内くん」
そんなことを一人で考えていると、前の席の藍が声をかけてきた。あの再告白以来、藍の口調は柔らかくなっている。
「ん? 何?」
廊下の外へ向けていた視線を目の前の藍へと向ける。
「……これ、良かったら」
「え……何、これ」
そう言って藍が差し出してきたのは……弁当箱だった。渡されたので手に取る。
え? ……ほんとに何、これ。
もしかして……もしかしなくても、くれるのか?
「……け、今朝作りすぎちゃったから。良かったら食べて」
え? マジなの?
……どうしよう、ほんとに嬉しいかもしれない。
だって、初めてもらった年頃の異性からの手作り弁当だよ?(妹には何度も作ってもらってるけど)
嬉しくないわけがない。
「あ、ありがとう。じ、じゃあ……早速貰おうかな!」
そして俺は、嬉しさのあまりそのまま勢いよく蓋を開けた――のだが。
「…………」
目に飛び込んできた光景に思わず言葉を失ってしまう。
決して漫画とかでお決まりのダークマターが入っていただとか、そういうのではない。というか、そんなベタな展開だったなら勢いよくツッコめたことだろう。
だというのに……これは……。
「お、美味しく出来たと、思うから……」
「う、うん……」
……うん、怖い。
だって、藍から渡された弁当に入っていたのはハンバーグでも、ソーセージでも、はたまた唐揚げでもなくて。
ぎゅうぎゅうに、目いっぱい敷き詰められた――卵焼きだったのだ。
そこにあるはずの白米という、いわば弁当のメインたる食材すら当然のごとく存在せず。
所狭しといった様子で、ひたすら黄色に茶色の焼き目がついた食べ物が鎮座している。
よし……。
とりあえず一発ツッコんでおこう。うん、そうしよう。
これはきっと、藍なりに俺と仲を深めるための初めてのボケなんだろう。
そう判断し藍の顔を見て――それから俺はこう言った。
「あ……ありがとう。うん……美味しく、食べさせてもらうよ……」
――お礼である。
「ど、どういたしまして……」
藍は少し恥ずかしそうに微笑むと、逃げるように前を向いた。
「…………」
対する俺はというと――。
――無言。
真顔。
ひたすらに卵焼きを静かに見つめる。
そして――。
(…………い、いや……だってさぁぁあああ!!)
目をつむり、心の中で悲鳴を上げた。
(だって、さああ!? あんな雰囲気で……ツッコめるわけないでしょ!?)
藍は明らかに真面目な感じだった。
あの状況で「これってもしかして動物の餌だったりする?」なんてことを言えるわけがない。
だからと言ってさすがに断るわけにもいかないし……。
お礼を言って受け取る以外、選択肢が無かった。
(く、くそっ……! 藍がまさか……天然属性持ちのキャラクターだったとは!!)
俺は恨めしそうに卵焼きを見つめる。
……あれ、でもよく見たら普通に美味しそうだ。
(……あ、美味い)
結局、俺はその卵焼き(だけ)弁当を口に運んだのだった。
◇
放課後。
一日をかけてようやく卵焼きを消費することに成功した俺は、ふとあることを思い出していた。
「そういえば……あのトイレ、やけに居心地良かったんだよな」
入学式の日。
俺が式をサボるのに使っていた、教室棟からは離れた場所にあるあのトイレのことだ。入学式から一切立ち寄っていない。
「やることもないしなー……ちょっと、行ってみようかな」
特に行く意味なんて無いし、何で急に思い出したかもわからない。でもやることもないわけだし、何となく一人での暇つぶしとして丁度いいかと思い立った。
多分、人はあまりにも暇すぎると何でもいいからとにかく動きたくなってしまう生き物なんだ。だってそうだろう。俺みたいな怠惰な人間でさえそうなっているのだ。だからきっと、これは間違いない。何だかこの世の真理に気付いてしまったみたいで嬉しい。
そんなどうでもいいことを考えながら、俺はあのトイレへと向かい足を進める。
梅雨のせいで床がやけに湿っぽい。道中生徒の姿はまばらで、見かける生徒もほとんどが部活をしている様子だった。
「お、あれだあれだ」
そんな中、暇だけをぶら下げた俺はあの隠れ家トイレへ到着する。
早速、中へと入る。
相変わらず、校舎の綺麗さとは打って変わって古いトイレだった。でもやっぱり意外と広いし、床も壁も結構清潔に保たれている。
古いせいか風通しも良くこの季節でも全く暑くない。光も程よく入ってきていて居心地がいい。
「ここ、やっぱ良いなぁー……何だろう、何かすごい落ち着くんだよなー」
こんな辺鄙な場所にあるもんだから、入学式とかが無い限り普段は全く使われないのだろう。便器なども清掃されたまま未使用になっているのが一目でよく分かる。
「……あ、そうだ!」
来たはいいもののこれ以上暇を潰せるようなことは何も無いなと思い始めていたところで、一つあるアイデアが思い浮かび手をポンっと打った。
「ここを俺の秘密基地にしよう」
なんと……ホントに名案じゃないだろうか。
部活がない今、俺は放課後の時間を持て余している。
だったら、だ。
その時間を有意義に使って、静かで……誰もいなくて……ものすごく落ち着くこの場所を、俺の避難場所として改造してやろう。
暇も潰せて、今後俺が逃げこめる場所も作れる。それになにより……。
――秘密基地。
うん、響きがいい。男心を擽るね。
「よし、決定!」
この日から――。
俺は放課後になると、あのトイレに一人向かうようになった。
蓮「卵焼きってこんなに作りすぎることないよね!? ねぇ!?」