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「本を読んで暮らしたい」と願ったら、冷徹宰相様の膝の上が私の書斎になりました。口を開ければ極上の甘味、背中には温かな拘束。前世の未完小説まで次元を超えて用意されたら、もうここから逃げる理由がありません
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「本を読んで暮らしたい」と願ったら、冷徹宰相様の膝の上が私の書斎になりました。口を開ければ極上の甘味、背中には温かな拘束。前世の未完小説まで次元を超えて用意されたら、もうここから逃げる理由がありません

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/16

 

「口を開けて」


 耳のすぐそばで、重く、低い音が鼓膜を震わせた。


 それは命令というよりも、祈りに近い響きを含んでいた。


 私は視線を膝上の古書から外すことなく、従順に唇をわずかに開く。


 冷たい銀のスプーンが差し込まれ、舌の上に黄金色の液体が垂らされた。


 琥珀糖を溶かした紅茶だ。


 さらに、小さくカットされた林檎のコンポートが続く。


「……ん」


「飲み込んだか?」


「……」


 私が無言で頷くと、頭上から満足げな吐息が降ってきた。


 大きな手が、私の髪を梳くように撫でる。


 私は今、この大帝国の中枢、財務と法務を一手に握る男――ヴェスター公爵の太ももの上に、行儀よく収まっている。


 彼の執務室を兼ねた、巨大な私設図書館。


 天井まで届く本棚には、世界中から蒐集された書物が眠り、インクと古い紙の匂いが満ちている。


 その静謐な空間で、ページをめくる。


 私の手は、本を持つためにある。


 食事のためにスプーンを持つ必要などない。


 なぜなら、彼がそれを許さないからだ。


「次は肉だ。鹿のローストを用意させた」


 ヴェスター様は、私の口元をナプキンで丁寧に拭いながら呟く。


 その瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、それでいて、硝子細工を扱うような慎重さで私を見つめている。


「……ヴェスター様。文字が読みにくいです。もう少し背筋を伸ばしてください」


「注文が多いな、私の可愛い居候は」


 彼は苦笑しつつも、言われた通りに姿勢を正した。


 その拍子に、私の背骨に彼の体温が伝わる。


 熱い。


 帝都の誰もが「感情の死滅した能面」と恐れる男の内側は、どうしてこうも熱を帯びているのだろう。


 まるで、溶岩を内包した休火山だ。


 その熱に触れていると、活字の世界に没頭している私の意識が、現実に引き戻されそうになる。


「……美味しかったですか、鹿」


 私は本から目を離さずに尋ねた。


「さあな。君が咀嚼している音を聞いていただけだから、味など分からんよ。君が食べているところを見ているだけで嬉しくて満腹だ」


 彼は平然と答えた。


 この男は、私に食事を与えるという行為そのものを、自らの栄養摂取としている節がある。


 異常な光景だということは、理解している。


 だが、私はこの異常性に、とっくの昔に依存していた。




 ◇◆◇




 私には、奇妙な記憶がある。


 それは「前世」などというあやふやな言葉では片付けられない、確かに私が読み終えた『人生の第一巻』の記憶だ。


 あの物語の舞台は、ここではない、彩度の低い灰色の世界だった。


 空は常にスモッグで濁り、人々は「時間」という名の見えない鞭に打たれながら、鉄の箱に詰められて移動する。


 あちらの世界での私は、物語の主役ではなかった。


 いや、名前のある脇役ですらなかったかもしれない。


 膨大なテキストの中に埋もれる、ただの「句読点」。


 朝から晩まで、意味のない数字を羅列し、誰かの機嫌を伺い、心臓が擦り切れるまで走らされる消耗品。


 唯一の救いは、眠る前のわずかな時間に、物語の世界へ逃げ込むことだけ。


 けれど、そのささやかな救いすら、過労という名の暴力に奪われた。


 オフィスの冷たい床に倒れ込み、意識が暗転するその瞬間、私は思ったのだ。


『次の巻があるのなら、もう一行たりとも働きたくない』


 物語の登場人物として動くのは御免だ。私はただ、静寂の中でページをめくるだけの、観測者になりたい。


 その執念が、運命の筆を執る何者かに届いたのだろうか。


 私の魂は、『第二巻』へと乱丁されることなく製本し直された。


 新しい名前は、ミネット。


 没落寸前の貧乏男爵家に生まれた、本好きな末娘として。


 しかし、この世界における「書物」は、宝石と同等の価値を持つ贅沢品だった。


 実家の図書室にはカビの生えた農書と、虫食いだらけの家系図が一冊あるだけ。


 私は活字に飢え、干からびて死ぬ寸前だった。


 そんな私を見つけたのが、彼だった。


 ある夜会でのこと。


 私はダンスの輪にも入らず、壁のカーテンの裏に隠れて、古新聞の切れ端を必死に読んでいた。


 そこへ、彼が現れたのだ。


 当時の彼は、今よりもずっと殺気立っていた。


 周囲の人間すべてを、排除すべき雑音としか認識していないような、冷ややかな瞳。


 けれど、私を見つけた瞬間、その瞳から色が消えた。


『……面白い』


 彼は私を見下ろし、低い声で言った。


『誰もが私に媚び、あるいは恐怖するこの場所で、君だけが紙屑に夢中になっている』


 彼は私の手から古新聞を取り上げ、代わりに一本の鍵を握らせた。


 重く、冷たい、真鍮の鍵。


『私の屋敷に来い。世界中の本を与えてやる。その代わり、一生そこから出るな』


 それは求婚の言葉には程遠い、所有宣言だった。


 あるいは、終身刑の宣告だったかもしれない。


 けれど私にとっては、天国へのパスポートだった。


 私は即答で頷き、その日のうちに彼の手によって、この図書館へと「移植」されたのだった。




 ◇◆◇




 コンコン。


 重厚なオーク材の扉が、控えめに叩かれた。


 その瞬間、私の背中を支えていたヴェスター様の筋肉が、硬く強張った。


 先ほどまでの、春の日だまりのような安らぎが一瞬で消え失せる。


 室内の空気が凍りつき、ピリピリとした緊張感が肌を刺す。


「……入れ」


 短く発せられた声には、慈悲の欠片もなかった。


 扉が開き、蒼白な顔をした従者が入ってくる。


「か、閣下……お寛ぎのところ申し訳ございません。至急の案件が」


「この時間は『不在』だと伝えておいたはずだが?」


 ヴェスター様は私を抱きかかえたまま、従者を睨みつけた。


 その視線だけで、従者が心臓麻痺を起こしそうだ。


「は、はい……ですが、南方の交易連合が、関税の引き上げを求めて……」


「あの豚どもか」


 ヴェスター様は吐き捨てるように言った。


「先日の条約締結のインクも乾かぬうちに、欲をかいたか。……いいだろう。言語による交渉が通じぬなら、経済封鎖という名の鉄槌で教育してやる必要がある」


 彼は私をそっとソファに下ろすと、立ち上がった。


 その背中は、先ほどまで私に林檎を食べさせていた男と同一人物とは思えないほど、巨大で、恐ろしい影を落としていた。


 帝国の頭脳。


 感情を持たぬ裁定者。


 人々が彼に抱く畏怖の理由を、私はその背中に見た。


「ミネット」


 彼は振り返り、私の頬に触れた。


 その指先だけは、驚くほど優しい。


「少し席を外す。世界の雑音を掃除してくる。……すぐに戻る」


「はい。いってらっしゃいませ」


 私は本から目を上げずに答えた。


 彼にとって、外の世界の揉め事など、私の読書を中断させるほどの価値もない。


 そう信じているふりをした。


 扉が閉まる音がする。


 重たい鍵が、外側から掛けられる音が続く。


 彼は、私をこの部屋から出さない。


 使用人ですら、食事のカートを運ぶ時以外は入室を禁じられている。


 静寂が戻った図書館で、私は一人、ページをめくる。


 カサリ。カサリ。


 ……静かだ。


 静かすぎる。


 先ほどまで、私の身体を包み込んでいた圧倒的な質量と熱。


 耳元で響いていた、彼の心臓の規則正しい鼓動。


 それがなくなると、この広い図書館は、急に酸素が薄くなったかのように感じられる。


 文字を目で追う。


『かつて、その国には美しい歌姫がいた』


 頭の中で文章を再生する。


 けれど、上滑りする。


『彼女の声は、万病を癒やし……』


 ダメだ。


 意味が入ってこない。


 活字中毒の私が、本に集中できないなんて。


 指先が冷たい。


 彼が触れていた頬だけが、熱を持って疼いている。


 前世では、一人でいる時間が何よりの至福だったはずなのに。


 いつの間にか、私は「彼というブックカバー」に包まれていないと、中身がバラバラに崩れてしまう粗末な冊子になってしまったらしい。


 私は本を閉じ、膝を抱えた。


 広い図書館の真ん中で、世界中の物語に囲まれながら、私はただ、彼という唯一の現実の帰還を待っていた。




 ◇◆◇




 数時間後。


 天窓から差し込む光が、黄金色から群青色へと変わる頃、扉が開いた。


「……ただいま」


 ヴェスター様が戻ってきた。


 その姿を見て、私は息を呑んだ。


 完璧に整えられていた銀髪は乱れ、純白のクラバットを緩めている。


 何より、その全身に纏っている空気が、ひどく淀んでいた。


 他者の悪意、欲望、愚かさ。


 そういった「雑音」を浴び続け、疲弊しきった姿。


「おかえりなさいませ、ヴェスター様」


 私はソファから立ち上がろうとした。


 しかし、それより早く、彼が私の元へと歩み寄り――そのまま、私を押し倒すようにしてソファに倒れ込んだ。


「……っ!?」


「動くな。……このまま」


 彼は私の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。


 まるで、水面に顔を出した溺死者が、貪るように空気を求めるかのように。


「……あいつらは五月蝿い。意味のない言葉を垂れ流し、中身のない議論で空気を汚す」


 くぐもった声が、私の鎖骨に響く。


「汚い音だ。……私の世界を侵食する」


 国一番の権力者。


 その内側にあるのは、あまりに潔癖で、過敏すぎる聴覚と知性。


 彼は、凡人には聞こえないノイズまで拾ってしまう。


 だからこそ、彼は外の世界を憎み、そして、この静寂の図書館を作ったのだ。


「……ヴェスター様」


 私はためらいがちに手を伸ばし、彼の銀色の髪に触れた。


 さらりとした感触。


 彼が強張らせていた筋肉が、私の指先一つで、波が引くように緩んでいくのが分かる。


「……私は、ここにいますよ」


「ああ」


 彼は私の腰に腕を回し、拘束具のように強く抱きしめた。


 痛いほどだが、拒否する気にはなれない。


 彼が私を必要としているのと同じくらい、私もまた、この痛みを必要としていたからだ。


「君はいい。……静かだ。紙と、インクと、陽だまりの匂いしかしない」


「それは、私が一日中本を読んでいただけだからです」


「それがいいんだ。君がただページをめくる音だけが、私にとっての唯一の音楽だ」


 彼は顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。


 その瞳は、もう鋭利な刃物ではない。


 凪いだ湖面のような、深く、静かな青だ。


「ミネット。私の可愛いミネット」


「はい」


「君が必要だ。……許可を」


「拒否したら?」


「宰相権限で接収する」


「……ふふ。横暴な独裁者ですね」


 私は微笑み、彼を受け入れた。


 彼は私の唇に、渇いた口付けを落とす。


 最初は祈るように優しく、次第に深く、存在のすべてを確かめるように。


 読みかけの本が床に落ちる音がした。


 バサリ、という乾いた音が、静寂に吸い込まれていく。


 彼も、私も、それを拾おうとはしなかった。


 今、私が読むべき物語は、目の前にいるこの男の瞳の中にしかないのだから。




 ◇◆◇




「……そうだ、忘れるところだった」


 ひとしきり私を堪能し、その顔に血の気が戻ったヴェスター様が言った。


 私は彼の膝の上で、乱れたドレスの襟元を直しながら首を傾げる。


「何か?」


「デザートを食べたら、一番奥の棚を見せてやるという話だ」


「あ……」


 そういえば、そんな話だった。


 彼の体温と匂いに包まれて思考が溶けていたせいで、すっかり忘れていた。


「いいのですか? あそこには、国宝級の禁書や、危険思想の書物が封印されていると聞いていますが」


「構わない。君になら、私の心臓の在処を教えてもいい」


 ヴェスター様は立ち上がり、懐から装飾のない黒い鍵を取り出した。


 そして、図書館の最奥にある、目立たない鉄の扉へと向かう。


 私はゴクリと喉を鳴らし、彼の背中を追った。


 ――禁書庫。


 この国の知の頂点に立つ男が、何を隠しているのか。


 世界を滅ぼす呪文か、あるいは帝国の闇の歴史か。


 ガチャリ、と重い音がして、扉が開く。


「さあ、入れ」


 促されて、私は足を踏み入れた。


 そこは、驚くほど小さな部屋だった。


 窓はなく、空調と湿度だけが完璧に管理されている。


 そして、部屋の中央にあるガラスケースの中に、一冊の本が鎮座していた。


 豪華な装丁でも、古めかしい羊皮紙でもない。


 それは、安っぽい紙に印刷された、見覚えのある文庫本だった。


「これは……」


 私は近寄り、その表紙を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。


 日本語だ。


 私の母国語。


 そしてそれは、私が『第一巻』の人生で、死ぬ直前まで読んでいた、未完の長編小説の最新刊だった。


「な、なぜこれが……ここに……」


「君がうなされていたからだ」


 背後から、ヴェスター様が私を抱きしめた。


「熱を出して寝込んだ夜、君はずっと、うわ言で繰り返していた。あの物語の続きが読みたい、主人公がどうなったのか知りたい、と」


「そ、そんなことのために……!?」


「そんなこと、とは何だ。君の願いだぞ?」


 彼は事も無げに言った。


「異界の渡り人と呼ばれる次元商人を捕まえて、吐かせた。君のうわ言を手掛かりに、数千の世界の中からこの一冊を探し出すのに、半年もかかったがな」


 次元を超えた捜索。


 国庫を揺るがすほどの費用と、外交問題になりかねない強引な手段を使ったに違いない。


 それですら、半年もかかった。


 たった一冊の、娯楽小説のために。


 たった一人の、居候の寝言のために。


「言っただろう。君の望むものは、すべて与えると」


 彼は私の耳元で、悪戯っぽく、そして残酷なほど甘く囁いた。


「その代わり、読み終わるまではここから出さない。……いや、読み終わっても、一生離さないがな」


 私は震える手で、ガラスケースに触れた。


 前世の私が、無念の中で手放した物語。


 それを、この人が、次元を超えて繋いでくれたのだ。


 涙が溢れて、止まらなかった。


 それは感動なのか、それとも、もう二度とこの檻から出られないという幸福な諦めなのか。


「……ヴェスター様」


「なんだ」


「貴方は、最高のスポンサーです」


「知っている」


「そして、最高の……私の物語です」


 私は振り返り、彼の首に腕を回した。


 彼は満足げに目を細め、私を抱き上げる。


 その腕の中は、どんな堅牢な城塞よりも安全で、どんな底なし沼よりも深く、抜け出せない。


「続きは、ベッドの中で読むか? それとも、私の膝の上で?」


「……膝の上でお願いします。貴方の体温がないと、読書に集中できない体になってしまったみたいなので」


「それは嬉しいな」


 ヴェスター様は私を抱いたまま、図書館のソファへと戻っていく。


 外はもう夜だ。


 けれど、この場所には優しい灯りと、静寂と、そして私を閉じ込める温かな腕がある。


 私の『第二巻』は、どうやら長編になりそうだ。


 栞を挟む暇もないほど、甘く、穏やかで、少しだけ息苦しい日々が続くのだから。


 私は彼の胸に顔を埋め、小さく笑った。


(神様。前書きの訂正をお願いします。ここは楽園ではなく、世界一甘い鳥籠でした。……もっとも、鍵が開いていても、私はここから飛び立つ気はありませんけれど)

 




まだ、甘々短編の投稿が続きそうです。

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