みなさんこんにちは。JETです。
めっきり寒くなってまいりました。風邪などひいていませんか。朝起きたら一杯の白湯。腸を温めれば心も体も豊かに。私は飲んでいません。ちゃんと調子が悪いです。
さて、みなさんは「新潟県出雲崎町」をご存知ですか。
(出雲崎町航空写真)
・人口:約4,000人(2024年時点)
・交通機関:JR越後線出雲崎駅、北陸自動車道西山インターチェンジから車で20分
なぜ今回新潟県出雲崎町を取り上げるかと申しますと、先般、ブロスのほうで私の育った「新潟県上越市」について取り上げまして、それなりの反響をいただきました。ですが「あまりにリアルを伝えすぎ」「誇張でも良いから魅力的に写せ」「ヒジでもいいから目に入れろ」とのお声も頂戴しました。嘘はつきたくないので、それならば、次に私の思い入れが深い「新潟県出雲崎町」につきまして、なるべく魅力的に、私の思い出も込みでみなさんにそのままの情報をお伝えしようと思います。切実です。地元を、日本を元気にしたい。
(或る日の日本海の風景。遠くに佐渡島が見えます)
出雲崎は、私の祖父が暮らしていた港町です。前後しますが、この記事を執筆し終え、入稿してまもなく、11月9日に97歳で逝去しました。10月に特養施設に入居してから、すぐの別れとなりました。以下は、2025年10月7日に出雲崎に滞在した際の取材記事となります。
出雲崎には、私の子供の頃から、長期休みになるとよく滞在させてもらっていました。日本海が目の前(自転車で何分、とかではなく本当に目の前)で、私にとって海といえば、穏やかな太平洋ではなく、灰色と青が荒波で混ざる日本海です。そんな出雲崎に、先日、家の用事や観光のために滞在して参りました。
(越後出雲崎:道の駅「天領の里」へようこそ)
出雲崎のランドマーク、道の駅『天領の里』です。歴史的にいえば、出雲崎は、1604年〜1868年(慶長9年〜明治元年)まで、江戸幕府の直轄地、つまり「天領」でした。佐渡金山から船で金が送られてくるので、地勢上とても重要な拠点だったわけです。天領時代には人口2万人を数えた(出雲崎観光協会HPより)らしいのですが、現在の人口は1/5。みんな何処へいった。
(太陽に照らされる、サーモンいくら丼)
(太陽に照らされる、サザエのお刺身)
出雲崎につき、早速天領の里内のレストラン「陣や」さんで腹ごしらえ。秋晴れの日本海が一望できるテーブル席。「サザエ」は出雲崎の特産品で、サザエの炊き込みご飯の素とか、サザエの形のサザエ最中とかが土産店で販売されています。祖父の家の前で、炭火焼きでサザエをガンガン焼いて食べたこともあるのですが、あんまり大量のサザエを一気に消費した経験のある人はいないかと思います。
「陣や」さん営業情報
所在地:新潟県三島郡出雲崎町大字尼瀬6-57 道の駅「越後出雲崎 天領の里」物産館2階 内
営業時間:11:00~17:00(ラストオーダー16:30)
定休日:第1水曜日
「陣や」さんには「さざえ炊きこみご飯 ・さざえの軍艦巻き ・さざえのお刺身 ・さざえの壺焼き・さざえの茶碗蒸し ・さざえの酢の物 ・さざえの天ぷら ・さざえのお吸い物」が味わえる「さざえのフルコース」もあるのですが、お値段的に原稿料が消えてしまうので、サーモンいくら丼とお刺身をチョイス。サーモンはとろっとして甘くて抜群。新潟のいくらの旬は10月下旬と少し早かったのですが、それでも十分美味しい。茶碗蒸しはさざえ入りです。さざえのお刺身は、磯の香りとシャッキリコリコリした歯触りで最高。私はいい意味で磯臭い食べ物が大好きなんですが、確実に幼少の頃から日本海の海産物を食べて育った影響だと思います。
(シールド・スラッシュ)
表の屋台では、キャプテン・アメリカが放り投げてくるやつぐらいでかいたこせんが売っています。香ばしい焼きたて。
(PS2のムービーではありません)
天領の里の敷地内には、全長102mの桟橋「夕凪の橋」が日本海に向かってまっすぐ架かっています。
100年続きますように
昔、この橋の欄干に恋人同士で錠前をかけると永遠の愛が約束される、といううわさがあり、たくさんの錠前がぶら下がっていたのですが、ほとんどが撤去されていました。景観を損ねてしまうのと、普通に別れたカップルからクレームでも入ったんでしょう。
この橋からは、日本一美しいと言われる夕日を眺めることができ、夏には出雲崎船まつり・大花火大会が開かれます。2016年ごろ、当時交際していた女性を花火大会に案内したこともあったのですが、その年の暮れに「HIKAKINさんの悪口を言った」という理由で振られてしまいました。その後、HIKAKINさんのご活躍は言わずもがなで、新潟県にもたらした経済効果で言えば、私とHIKAKINさんでは天空と奈落ほど差がありますし、すっかり懲りてHIKAKINさんの悪口を言うこともなくなりました。
(或る日の日本海に沈む夕日)
出雲崎は、黒人初の演歌歌手:ジェロさんのヒットシングル『海雪』の舞台に取り上げられたことがあり、しばらくジェロさんが夏祭りでコンサートを開いていた時期があります。私もジェロさんの『海雪』を生で聴いて、いたく感動した経験があります。その後、SNSで「夏祭りでジェロさんを観たのですが、司会者から”翌年もお越しください”とお願いされていたのに、次の時は来てくれなかった」と思い込みでデマを流してしまい、ジェロさんファンのご婦人方から「デマを流すな。ジェロさんは次の年も来てくれたわ」と袋叩きに合いました。ジェロさんのファンクラブTシャツは、「jero」の「j」の「・」の部分がジェロさんのトレードマークである黒ハットになっていて、とってもオシャレなデザインでした。ジェロさんは2018年に芸能活動を無期限停止され、その後アメリカでSEとして勤務されているとのことです。ジェロさん。私は待っています。私とファンクラブのご婦人方が待っています。
「天領出雲崎時代館」「出雲崎石油記念館」は同じ建物です
こちらは出雲崎の歴史・産業について学べる「天領出雲崎時代館」「出雲崎石油記念館」です。同じチケットで入館できます。
天領出雲崎時代館・出雲崎石油記念館さん情報
住所:新潟県三島郡出雲崎町大字尼瀬6-57(「道の駅 越後出雲崎 天領の里」内)
開館時間:4月~11月:9:00〜17:00(最終入館16:30)
12月~3月:10:00〜16:00
定休日:毎週水曜日および年末年始
入館料:大人500円、小・中学生400円
先述しました通り、出雲崎は幕府直轄の「天領」だったこともあり、港町としての発展の歴史が辿れるのが「天領出雲崎時代館」さんです。
(北前船の帆。レペゼン徳川)
(日本列島の海運と北前船)
みんな大好き、「日本列島の海運北前船」航路図です。これを見れば、江戸時代の海上貿易が一目瞭然でわかって便利。佐渡で採掘された金が、小判に加工され、船で出雲崎に着き、北国街道を通って江戸まで運ばれていたことがわかります。
ちなみに、写真が全体的に暗いのは、私のカメラの設定があまり上手くいっていないのもあるかもしれませんが、基本的に建物内部がなんかずっと暗いです。新潟県は日照時間が短いので、そういう演出だと思います。
(千両箱の重さを知りたい方は、出雲崎へ)
(のぞくとどうなるか確認したい方は、出雲崎へ)
(石油を掘る技術を確認しよう)
出雲崎時代館の隣は「出雲崎石油記念館」です。なんと出雲崎は、1980年ごろまで、石油が採れたんです。しかもあの日本石油(現:ENEOS)発祥の地でもあります。今だに石油がボコボコと中東みたいに湧いていたら、人もたくさん住んでいたと思いますし、雇用もあるから、ジェロさんもアメリカに帰ることもなかったでしょう。石油記念館では、近代の石油産業発展の歴史を学習でき、ロータリー式石油掘削法についても学べます。「エネルギー」や「灯り」についてイチから勉強したい方は、ぜひ出雲崎町にお越しください。
(石油掘削の様子。スマホゲーの広告ではありません)
(エネルギー情報誌「石油グラフ」最終号も読めるぞ)
(完全に負けたな〜、北京五輪野球日本代表)
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さて「完全に私事」で申し訳ございませんが、先述の通り祖父は現在、出雲崎を離れ、新潟県内の特養施設に入居しています。JETの母方の家系がずっと暮らしていた家があり、今回は、家の整理が出雲崎に訪れた第一の目的でした。「天領の里」から歩いて1分以内にあるんですが、道の駅から歩いて1分の場所に住んでいる人もなかなか珍しいのではないでしょうか。家屋の外観は写せないのですが、中は掲載許可をもらいましたので(孫だから)、今回は、個人的にオモコロさんをアルバムとして活用させてもらいます。一応4年ぐらい書いてるからこれぐらい許してもらえるだろう。
(出雲崎の家・外観イメージ。出雲崎町「北国街道妻入り会館」さんの建物)
出雲崎は天領で、家の間口の幅に応じて屋敷税が課せられたので、幅が狭いのに奥行きのある家が多いです。建屋と建屋の間が狭く、独特の街並みは「妻入りの街並み」と呼ばれていて、観光名所のひとつになっています。当時は「天秤棒を1本持って出雲崎に行け」という言葉があるぐらい、とりあえず天秤棒を抱えてうろついていれば仕事にはありつける、食うには困らないぐらい栄えていたようです。私も定職についていないので、来春ぐらいまでに仕事が決まらなかったら、天秤棒を抱えてうろちょろしようと思っています。
(窓からは花火が見えます)
(18年前の新潟県中越沖地震の際に入ったヒビがあります)
木造建築の吹き抜けで、「家」と「蔵」が一体化したような造りになっています。私は日本家屋について詳しくありませんが、あまり見かけない構造なのではないでしょうか。
(2階からこんにちは)
(バリアフリー完全無視階段)
(てっきり近所の喫茶店かどこかからもらってきたのかと思ったら、叔父が高校時代に自作したらしい。どういうセンス?)
(水回りはこんな感じですが、トイレだけやり直してウォシュレットついてます)
(ロードオブメジャーの『大切なもの』にこんな歌詞ありましたよね)
(日本海の寒風と荒波の前に立つJET。21歳ぐらい。祖父撮影。丸ナスみてえなダウン)
築90年少々の、古民家風、ではなく正真正銘の「古民家」なので、維持費もかかりますし、なにより誰も住んでいないから、このままいけば手放すか、解体するしかないのが惜しいです。JET一族には、ここを古民家カフェにリノベーションして観光客を呼ぶ、なんて商才のある人間はひとりもいないので、そういうお知恵のある方はぜひご連絡をお待ちしてます。まずは話だけでも聞かせてください。
(図書館でしか見たことのない「町史」があります)
(この辺りには、婦道を守りよく姑に仕えた女「ゆ里」が暮らしていたのか……。)
出雲崎は町をあげて東京から芸大生を招いて、街並みを絵画に残す取り組みをしていて、祖父の家にも以前は芸大生が毎年夏に合宿で来ていたようです。街並みの絵は芸大の学生さんの作品。みなさん東京からお越しになるので、信じられない海辺の田舎の景色に目を丸くし、筆がよく進んだと聞いています。
この掛け軸が下がった居間で、さきほどのHIKAKINの件で振られた彼女と、家族親類を交えて食卓を囲んだのを覚えています。彼女は緊張もあったと思うのですが、慣れないビールをしこたま飲まされて顔が真っ赤になっていた。私の父親もそのような経験がなかったので、彼女に「ご趣味はなんですか」と問われ「ラーメンを食べることです」としどろもどろで返していました。そのような光景がありありと思い出され、一般的には「あの時緊張したけど楽しかったよね」で振り返られるべきエピソードの類かと思うのですが、そのあとしっかり破局しているので、ここに改めて封印させていただきます。2025年10月7日。JET。
(楽しかった日に見上げた天井)
(入り口は狭いが間口は広い)
私は魚の中で「鮭」、サーモンではなく「鮭(しゃけ)」がもっとも好きなのですが、出雲崎の家に泊まると、祖父が必ず、翌朝に朝食で焼き鮭を出してくれます。その焼き鮭が、人生で食べた中で一番美味しい鮭です。”魚のアメ横”こと長岡市寺泊の市場から仕入れてきた鮭と、コシヒカリ。写真奥の食卓でよく食べたものです。
新潟県にUターンしてきて思うのが、素材は一級品なのにも関わらず、住んでいる人たちのPRがあまり上手ではないということ。たとえば、鮭とコシヒカリだけでも東京ないし都会からわざわざ来る値打ちがあると断言していいです。地元の人は「こんなもんがねえ」みたいな顔をするのですが、ちょっと待ってください。絶対にもっと宣伝すべきです。だから私がインターネットの力を駆使して勝手に宣伝しています。みんな新潟県にもっと来てよ。よろしくお願いします。
さて、また外に出ましょう。
(出雲崎の街並み)
(母が幼少のころ、蛾の群れに襲われた階段)
(PC-98のギャルゲーみたいなエフェクトの「紙ふうせん」。出雲崎は紙風船が特産品です)
(良寛記念館入り口)
(逆光の記念館)
天領、石油、海産品、など出雲崎には誇るところがたくさんありますが、最大の傑物はなんといっても良寛さんです。
良寛記念館さん情報
住所:新潟県三島郡出雲崎町米田1
開館時間:9:00〜17:00(最終入館 16:30)
休館日:11月〜3月の水曜(祝日の場合は翌日休館)/年末年始(12/29〜1/3)
(館内撮影禁止のため、外観のみ)
良寛さんのプロフィール
生没年:1758年(宝暦8年)〜1831年(天保2年)
出身地:越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)
賞罰歴:なし
良寛さんは本名を山本栄蔵といい、名主の家の長男として生まれたのですが、18歳の時に罪人が首をはねられたのに立ち会い「俺には向いてなさすぎる」と感じたのをきっかけに出家を決意。33歳まで備前(岡山県)の寺で曹洞宗の僧侶として修行を重ね、諸国行脚の末に新潟県に戻ってこられました。
良寛さんのすごいところは、言ってしまえば「特に何もしていないのに、恐ろしく人柄が良くて、芸術的センスがずば抜けていたから名が残っている」点です。ニコニコしながら子供たちと遊んで、お客さんと酒を酌み交わし、書と和歌を嗜んでいただけで、歴史の教科書に名前が載っている。当時として「名主の家の長男なのに出家する」というのが相当にアウトローな振る舞いなのですが、最期まで自分を貫き、ニコニコしていた。ただ、ニコニコしていただけの人はその辺にも居たかもしれませんが、ニコニコしながらセンスがあって、作品が今だに残っているのが良寛さんのすごさです。
個人的に好きな良寛さんの和歌・句を紹介します。
あしひきの 岩間をつたふ 苔水の かすかにわれは すみわたるかも
(岩の間を伝うかすかな苔の水のように、私の心も澄みわたるようだ)
あわ雪の中に 顕(た)ちたる 三千大千世界(みちおほち) またその中に あわ雪ぞ降る
(冬の日本海を望んで詠んだ和歌。三千大千世界と書いて(みちおほち)と読む。ゾロの技みたいですね)
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
(良寛最期の言葉・句と言われる)
私は短歌や俳句をやらないし、当然詳しくもないのですが興味はとてもあって、しかし、調べれば調べるほど「良寛さんやっぱセンスあるわ」から前に進めないので、なかなか現代短歌の時代まで追いつくことができずにいます。
良寛記念館には、初期〜最晩年までの良寛さんの詩・和歌・書などが展示されています。やはり、webのテキストや書籍で読むよりも、直接、本人の筆致や趣を感じるのが一番です。
おじいさんみたいなことばかり言ってますが、良寛さん直筆の「いろは歌」も観られます。
だいいち、改めて、いろは歌ひとつ取っても、
いろはにほへと ちりぬるを
(色は匂へど 散りぬるを)
-諸行無常。花は咲き誇っていても、必ず散る。
わかよたれぞ つねならむ
(我が世誰ぞ 常ならむ)
-是生滅法。この世は、必ず誰かと別れて生きていかねばならない。
ういのおくやま けふこえて
(有為の奥山 今日越えて)
-生滅滅己。意味に囚われた人生を今日、越えて
あさきゆめみじ ゑひもせず
(浅き夢見じ 酔ひもせず)
-寂滅為楽。夢から醒め、悟りの世界に出た。
「いろは歌」がすごい。などと感動していたら、いつになったら現代に辿り着くんでしょうか。でもそれでいいと思っています。というか、諦めました。もう。
(「良寛像」。写真で一言ではありません)
(あなたを追って、出雲崎)
童たちと談笑される良寛さんの像があり、眼下には良寛さんの愛した出雲崎の街並みと、日本海が一望できる抜群のロケーションが広がっています。
出雲崎が、石油が沸いていたころのような活気を取り戻してほしい。とまでは言いませんが、この街が皆に知られないままなのは惜しい。と思いますし、何より愛着のある場所だから、微力ながらに街の賑わいに一役買えればなという望みがあります。
個人的には、ここ数年良くない出来事が立て続けに起こり、不本意ながらに新潟県に戻ってきた経緯があり、なんとなく良寛さんと自分の境遇を重ね合わせてしまいました。勤労していて、腹の立つ出来事も多く、とても良寛さんのように万物に対して朗らかで、静謐な態度を崩さぬ境地には至れそうにありませんけれども、笑っていれば何とかなる、というマインドだけは忘れずにいきたいものです。
そして亡くなった祖父へ。95歳を過ぎても、出雲崎で独り暮らし、自分のことは全て自分でやっていたから、あまりに突然の別れにまだ驚いています。孝行らしい孝行はほとんど出来ませんでしたが、なるべく私も最後まで自分の力で歩いていられるように生きていこうと思います。
(天領の里で、おもしろ連続風船、を買いました)
(終わり。 撮影:JET母)









































